題字

―恋人未満たちの初夜―

Epilogue

  「いやぁ、良かった良かった。部下の初恋がめでたく成就して、 俺としても感無量だよ」 
   ダナムはニヤニヤと笑いながら、デスクの向こうに座る少年を見つめた。
  「それにしても、素敵な結末だなぁ。本格ロマンス小説も 真っ青だ。結婚を前提とした、それでいて清らかで密やかなお付き合いの始まり。まさに青春  ど真ん中! 開放的な外国でも、そうそうある話じゃあないぞ。実に 貴重なエピソードをありがとう、ローゼン君」 
   ローゼンは微妙に顔を赤らめて、眉間に皺を寄せている。「自分はなぜ、 こんなことまで喋らされているのだろうか」と、理不尽さを感じつつ悩んでいるような表情だ。 
  「まあ、おまえなら、この任務はまず成功させられるだろうと 思っていたよ。さして心配はしていなかった。これは予想通り……いや、期待通りの結果だな」 
  「何を根拠に、そんな予想をしていたんです?」
   ローゼンは、いぶかしげに尋ねてきた。
  「何だかんだ言っても、世の多くの女性は誠実な男には心を開いてくれるもの だからだ。おまえは、いささか堅っ苦しいモラリストなのが難点だが、誠実には違いあるまい」 
   ダナムは、苦言と賛辞を一緒くたにしてローゼンに贈った。
  「はぁ……それはどうも」
   当然ながら、相手は素直には喜ばず、「モラリストで悪いか! おまえみたいな 道徳破壊人間よりはましだ」という感じの反発心がかい見えた。 
   言葉には出さなくても、顔色や目つきや仕草で内心が読めてしまうのが 面白い。影の兵士としては致命的な欠点と言えるが、これは若さゆえの未熟 さだ。これからの経験や精神修養 の如何いかんで、立派なタヌキに成長するだけの素質はあると見込んでいる。 
  「質のいい青月長石を誓約石として渡したのも、誠実さを示すのに一役 買っただろう。俺のアイデアと的確なアドバイスに大いに感謝したまえよ」 
  「さっきも言いましたが、指輪を渡したのは、返事をもらった後です」
  「はっはー! そうだったか。しかしローゼン、効果のほどはどうあれ、おまえは 俺から前借りした給料で指輪を買ったんだからな。そのぶんは、しっかり身体 で払ってもらう。借金を返し終わら ないうちにとんずらしたら、地の果てまで追いかけるぞ」 
  「……姑息な手段で縛ろうとしなくても、俺は逃げたりしませんよ」
   ローゼンは口調に静かな憤りを滲ませた。偶然の機会に乗じたこちらの意図を、 さすがに看破していたようだ。 
  「ばれていたか。すまないな。だが、影の兵士としての生は過酷なものだ。おまえは 既に影の戦場の外で長年の念願を叶えかけている。そんな今……敢えていばらの道を歩もうとする意思を弱めるのでは ないかと疑うのは、道理だと思って許してくれたまえ」 
  「意思を弱める……? とんでもない! 俺はメイリーズと約束しました。俺たちの 間に生まれてくる子供には、俺たちが経験してきたような辛い思いはさせないと」 
   少年は、こちらのしつけな懐疑心を、ばっさりと切って捨てた。
  「子供の未来を明るくするためには、少しでもルミナスを変えていく しかない。そのためなら何だってする。俺の意思は、むしろ強まった。いつか、あの忌まわしい牢獄 を、 物理的にも存在意義的にも粉砕することが、最終目標のひとつに加わった……」 
  「至聖殿を粉砕? それはそれは、頼もしい! 神をも 恐れぬ勇敢さとは、このことだな」 
   ダナムは、いたずらに煽るような調子で言いつつも、内心では本物の淡い期待 を感じていた。若き少年の、揺らがぬ強固な意志にかける期待だ。 
  「あそこに女神の聖跡はありません。あるのは……女神の名をかたる、よどんで こごったルミナスの意思だけ。今や存在自体が罰当たりな、悪しき国風の象徴と成り果てています」 
   ローゼンは、憎悪と呼べるであろう感情をあらわにした。
   己の尊厳を踏みにじり、不当にはずかしめた牢獄を憎むのは、当然のことだ。レスティ家の 令嬢との関係がうまくいったとはいえ、終わり良ければ全て良しで済む問題 ではない。粉々に破壊してやりたいと 言うのも頷ける。 
  (聖婚室、か……)
   国の最高神殿である至聖殿と、そこを根城にする聖職者組織の 内情には、謎が多い。 
   至聖殿の内部というのは、神秘に包まれた聖所である一方で、さまざまな歴史的な 黒い噂をも生んでいる。 
   聖婚室の存在も、そのひとつだった。
   ルミナス社会において、ごく一部の筋でのみ伝え囁かれてきた、 「呪われし開かずの寝室」の話。 
   ダナムは、これまで噂としてしか把握していなかったが、今回実際にローゼンが 被害に遭ったことで、その存在は確定した。 
  「本心を言えば、即刻、瓦礫がれきにしてやりたい。それができないのは、本当に残念です」
   ローゼンは、ひどく悔しげに言った。
  「せめて、告発できれば……」
  「おっと。駄目だ、ローゼン。この前会ったときにも忠告したはずだ。腹立たしい だろうが、今はこらえたまえ」 
   ダナムは落ち着いた口調で少年をたしなめた。
   犯罪的な用途を持つ部屋が至聖殿内に存在するという 事実を、社会に向けて告発する。 
   それは、極めて正当な行為のようだが、今の段階で行うのは危険すぎる。
   伝統的なルミナスの意思は、いまだに強く社会を支配 している。そうした現状においては、至聖殿はあまりに強大な相手だ。犯罪は犯罪として認められず、簡単 み 消されるばかりか、下手をすれば告発した が犯罪者にされかねない。最悪の場合、告発した翌朝には物言わぬしかばね と化して、ティアンのミレーネ川あたりに浮かぶことになるだろう。 
  「おまえが至聖殿の抹殺ターゲットにでもされたら、一大事だからなぁ」
   ローゼンは、くすぶる感情を押し殺すように、しばらく目をつぶってから答えた。
  「……すいません。わかってます」
  「いいか、無謀な行動は総じて慎むよう、よく肝に銘じておけ。アカデミーでの 活動も、この先は控えめにしたほうが無難だ。さもないと、冗談抜きでぜつの獄へ入れられるぞ」 
   ダナムが再度忠告すると、少年は笑むように口許を歪めて軽く鼻を鳴らした。
  「聖婚室送りにされることに比べたら、慈絶の獄も怖くありませんよ」
   実感の込められた台詞に、ダナムは一瞬、返す言葉を失った。
   慈絶の獄というのは、至聖殿と同じくシャールにある悪名高き地下監獄 のことである。 
   収容されるのは重罪人ばかり。だいたいは極刑や終身刑になるので、入れられたら 二度とは出られないことで有名だ。 
   ローゼンをスカウトする以前――名門ヴェスル・アカデミーで、立場をはばからず 自論を展開するテンペスト家の子息の評判を耳にしたとき、ダナムは思った。 
   これは……やばい。
   このまま成長すれば、遠からず慈絶の獄に一直線だろうと予測できた。
   幼さの残るうちは子供の戯言ざれごととして片付けられても、10代も後半に突入すれば、 そうはいかなくなってくる。思想犯か政治犯のレッテルを貼られて、 えられ、月の光も届かぬ暗黒の淵へと 葬り去られるだろう。 
   ――そんな末路をたどらせるのは、惜しい。
   そう感じた。
   だから、保護する意味も兼ねて、裏の外交庁に引き入れたのだ。この国に新たな 活力を吹き込むために、ローゼンのような逸材を生かさない手はない。 
   現在、ルミナスの閉鎖的な社会には病んだ価値観が蔓延まんえんし、技術や文化は停滞、 国民はかつての栄華のざんの中で惰性に流されて生きている。外交庁は、その役割上、常時他国と接触する機関 であるがゆえに、いち早く国の危機 に気づいた。そして、外交庁を動かす見識高い要人たちの手によって、 極秘裏に「裏の外交庁」が設立されるに至った。 
   どれほど緩慢でも、確実に、自国の革命を推し進めるための組織として――
   各国が互いの政情や技術情報を盗み合うスパイ合戦・「影の戦争」への参入も、 革命の準備のひとつなのだ。 
   ローゼンには影の兵士としての訓練を施しているが、今回の一件の結末と、 たった今の発言とを突き合わせて考えてみると、ふと懸念も覚える。 
  (自分であいつをけしかけて、レスティ嬢を得させておきながら……。俺も たいがい勝手で無責任な人間かもなぁ) 
   ダナムは胸中で少々反省しつつも、口調をけわしくした。
  「……慈絶の獄が怖くない? それは妙だな。昨日までならともかく、今の おまえが監獄を恐れないというのはおかしいぞ」 
  「……?」
   思いも寄らない指摘だったのか、ローゼンはきょとんとした。割と珍しい表情だ。
  「おまえに何かあったら、悲しむ人間がいることを忘れているのか?」
  「……!?」
   ローゼンは、はっとして顔を強張らせた。
  「くどいようだが、いい機会だから重ねて言っておこう。自分を大事 にするんだ。自らの信念を貫いたり、課された責任を果たしたりすることは重要だが、名誉や体裁ていさいよりも命を 優先して守りたまえ。おまえには、それができるはずだろう?」 
  「はい」
   少年は、神妙に頷いた。
  「よろしい。では、明日からは、これまでの倍くらい厳しい訓練をこなして もらうことにしようかなぁ。影の戦場でも決して命を落とすことがないように」 
  「う……」
   ローゼンは小さくうなった。
   かなり根性のあるほうとはいえ、アカデミーでの勉学との二重生活だ。肉体と 精神とを酷使することに、辛さを感じないはずはない。 
   しかし、訓練に関しては、ダナムは容赦する気はなかった。
  「初めて明かすが、実はおまえには、サーヴェクトを中心に潜入してもらう つもりなんだよ。サーヴェクトの影の兵士は手強いぞー? 幼い頃から修練 を積んで、おまえくらいの年には バリバリの現役だからなぁ。渡り合うには相当の実力が必要だ」 
   因縁深き東の隣国。の国は、今やルミナスにとって最大の脅威である。
   魔術文明とは異なり、誰でもその恩恵を享受できる機械文明の旗手として、瞬く間に 大国に伸し上がったサーヴェクト。現在のところ、他国に侵略 の手を伸ばそうとする兆候は見られないが、 もし将来そういう野望を くことがあるとすれば、間違いなく最初にルミナスを 狙うだろう。昔の仕打ちの、復讐として……。 
  「もしも、サーヴェクトの影の兵士の手に落ちて、その上ルミナスの人間だという ことを見破られたら、何をされるかわからないぞ。恐ろしいだろう?」 
  「だから、魔術には頼れない……」
  「そういうことだ。特に高等な魔術を行使すれば、一発で素性を知られかね ないからな。悲惨な死に方をしたくなければ、訓練に耐えて、ひたすら己の知力と体力を高めたまえ」 
   脅しを込めて警告した後で、ダナムは、ふと思うところがあって呟いた。
  「……影の兵士でなくとも、あの国の人間は、愛国心の塊みたいな ものだ。まともに対抗するには、こちらも実力以前に、自国に対する思いが必要なのかもしれないがな」 
   自然と苦笑いしてしまう。
  「まったく、おまえも物好きだよなぁ。おまえなら、魔術の才能を隠しさえ すれば、サーヴェクトに亡命しても歓迎してもらえるだろうし、立派に きていけるだろうに。そちらのほうが、 よほど手軽に幸せになれるはずだ。正直なところ、あちらに行かせたら、 とは別の理由で戻ってこなくなるのでは ないかと、ちらりと危惧きぐしたこともあるよ」 
  「今更、自国に対する俺の忠誠を疑うんですか? まさか……メイリーズを得る 後押しをしてくれたのも、俺をルミナスに縛るため?」 
   ローゼンは射抜くように視線を鋭くした。二重のかせをつけようとしていた のか……と、目でもこちらを問い詰めている。 
  「だとしたら、どうする?」
   ダナムは敢えて問い返した。どういう反応が返るか、気になったのだ。
   少年は、しばらく黙考した末に、こちらを見据えて口を開いた。
  「俺を信用していないことには怒りを感じます。ですが……そこまでして縛るほど、 俺を買ってくれていることには感謝します」 
  「……そうか」
   ダナムは相手の答えに納得した。
  「いや、借金のことはともかく、レスティ嬢を得ることを勧めたのは、純粋な 親心ならぬ先輩心だよ。他意はない。信じてくれたまえ」 
   ――もしかすると、無意識のうちの計算は働いていたのかもしれないが。
   だとすれば、自分も相当因果な人間に成り果ててしまったものだ。
  「……その言葉を信じます。でも実際、あなたの危惧は全く的外れというわけ でもない。あなたに出会う前は、確かにサーヴェクトに げたいと思ったこともありますから。『満ち欠ける娘』の 世界に憧れて……」 
   ローゼンは、穏やかな顔つきになって告げた。
  「だけど、今はもう、そういう気持ちはありません。いろいろと考えて、悩んで ……結局思い知ったんです。どれだけ他国 が魅力的に見えても、この俺にとって母国と呼べる国はルミナス しかないということを」 
   声音に滲むのは、前向きな諦観。
  「この時代、この国に生まれたのが運の尽きだと思って、せいぜい あがきますよ。いつどこで生まれるか、どんな親から生まれるか……たったふたつだけの、  められた運命の導きに従って、俺は自ら歩む道を選んだ。あなただって、似たようなものでしょう」 
  「そうだな……」
   ダナムは、眼前に座る10歳以上年下の少年を、信頼に値する相手と認め始めていた。
   そう、ローゼンならば、本当に、聖婚室の存在を抹消することさえ可能なのでは ないかと思う。たとえ、何十年先になろうとも、成し遂げるような予感がする。 
   エイシア・ローレルのかけた呪詛を消し去り、ルミナスの滅亡を 食い止めるのは、ローゼンのような、目覚めた若者たちに違いない。 
  「おまえの決意の固さには敬服する。では……そろそろ新たな覚悟を問おうか」
   そう言った瞬間、ローゼンの肩が、ほんのわずか震えた。
   しかし、逃げ腰になって顔を背けたりはしない。真摯な瞳で、正面からこちらの 要求を受け止めようとしている。 
  「例の計画……実行に移すことを承諾してくれるか?」
  「はい」
   ローゼンは、返答を迷わなかった。
  「後悔は、しないな?」
  「はい」
   二度の明確な返事を得て、ダナムは黙って頷くと、さらに尋ねた。
  「……いつ実行する?」
  「できれば、半月後の、婚儀が予定されている日に。俺たちの結婚記念日を、 奴らの命日にすり替えてやります」 
  「わかった。それでいい」
   ダナムはローゼンの決定を容認した。それは、計画始動の合図。
   現テンペスト家当主夫妻は、自分たちの息子を本気で怒らせて親子関係に 絶望させたがゆえに、破滅することになるだろう。 
   実の親を直接暗殺しろなどと命じているわけではないが、ローゼンへの要求は、 それに限りなく近いものだ。この世には、手を血で す以外にも、他人を「殺す」ことのできる手段がいくら でもある。 
   計画の鍵を何年も前から握っていながら、ずっとローゼンは迷い続けていた。
   自分を生み育てた両親に、牙をくことを。
   だが、今回の一件で、ついに迷いを捨てたのだ。破滅の扉を開いたのは、 両親自身―― 
  「もう、躊躇はしない。本物を手に入れるきっかけをつかんだから。本物の家族 との未来を守るために、俺は過去の幻想を切り捨てる」 
   ローゼンは、双眸に冷たい炎を宿して呟いた。
  「今こそ落としてやる。『満ち欠ける娘』にも負けない、でかい爆弾を……!」
   魔術大国ルミナス。
   2000年続く王国において、革命の第一段階、本格的な最初の一歩が、 まさに踏み出されようとしていた。