題字

―恋人未満たちの初夜―

Chapter9

   春の盛りの晴天。
   青空からは温かな日差しが降り注ぎ、地面には野の花が淡い彩りを添えている。
   緑豊かなヴェスル・アカデミーの構内には、爽やかな風が吹いていた。
   だが、ローゼンは、そんな春の景色をのんに眺めている場合ではなかった。
  (待て! こら、メイリーズ……!)
   声には出さずに叫ぶ。眼下には、必死に逃げる少女の背中がある。
   今日の朝、アカデミーに来るとすぐに、ローゼンはメイリーズの友人に 手紙を託して、彼女に渡してくれるよう頼んだ。 
   手紙と言うよりは伝言メモに近いもので、放課後にアカデミーの東門に 来るよう依頼する内容である。東門は普段学生が出入りする ではなく、その周辺はいつも静かなので、 話をするのに都合がいいと考えたのだ。 
   しかし、メイリーズは、手紙を渡されたと思われる 昼前以降、ずっと挙動不審だった。 
   遠目に見ても落ち着かない様子で、友人たちとの会話もうわの空。こちらを 避ける態度も常にも増して激しかった。ちらちらと視線 を向けるくせに、いざ目が合いそうになると、 ものすごい勢いで顔を背けるのだ。 
   ――これは、呼び出しには応じないかもしれない。
   ローゼンは、そう直感した。
   あいにく今日の最終授業は選択科目で、相手とは遠く離れた教室で放課後を 迎えることになったが、そのまま単純に東門には向かわなかった。 
   三階という高さの割に、アカデミー構内の広い範囲を見渡せる ポイントから、東門以外の方向を監視したのだ。校舎の主な出口から、主な門までを結ぶ道を。 
   すると、案の定、姿を現したメイリーズは、東門のほうへは足を 向けなかった。ご丁寧にも、目立たない通用口から校舎の外に出て、 足早に正反対の方向へと去ろうとした。 
   ローゼンは、ただちに相手を追った。
   二階に下りて、校舎の外周をぐるりと取り巻くバルコニー式の渡り廊下を走った。
   地面に降りて直接追いかければ、おそらく容易に 追いつける。それをしないのは、相手にぎりぎりまで気づかれないためと、騒ぎを 大きくしないためだった。 
   これまで特に親交もなかった者同士が、ただならぬ雰囲気で 逃走・追跡劇を繰り広げていれば、嫌でも噂になる。ただでさえ自分 はアカデミーにマーク されている身だし、妙な噂が流布したら、相手までアカデミーに居辛 くなる恐れ がある。だから、少々回りくどくても、より慎重な行動を選んだ。 
   しかし、メイリーズ本人には途中であっさり気づかれて しまった。やはり、追跡の気配を察知したのだろう。一瞬振り向いて、少し戸惑った 、渡り廊下に こちらの姿を認めると、血相を変えて駆け出した。 
   そんな彼女を、ローゼンは今、追っているのだ。
   魔術を使って足止めをする手もある。だが、非常時以外、無許可で他人に 魔術の影響を及ぼすことは、法によって――ほとんど建前とはいえ――禁じられている。 
   また、メイリーズとて優れた魔術士である。こちらのもく論見ろみが 成功するとは限らない。 
   ここ数ヶ月、私生活において「魔術に頼らない生き方」を実践 してきたローゼンとしては、何としても自分の足だけで捕まえたいところだ。 
   下校途中の学生たちが、メイリーズを目にして、 不思議そうに立ち止まっている。 
   上品な貴族の令嬢が、なぜ放課後に息を切らし、服のすそを乱して 走っているのか、理解に苦しんでいるようだ。 
   ローゼンは、渡り廊下と複数の校舎内をうまく移動して、予想される相手の 逃走ルートを冷静に先回りした。どうやらメイリーズは、他の学生たちにまぎれて、西の正門から 逃げおおせるつもりらしい。アカデミーの外に出られては厄介だ。 
  (今日ばかりは逃がさない……)
   ローゼンは、西側の校舎の端――二階の渡り廊下の突き当たりから地上へと 続く階段の踊り場に身を潜めた。 
   この階段は、二階以上の各階の廊下とも繋がっていて、非常階段の役割も 担っている。メイリーズのルートだと、正門のある前庭 に出る前に、必ずここのそばを通過すること になるはずなのだ。 
   開けた前庭に出る直前の最後の曲がり角は、相手を 無難に確保する唯一のチャンス。 
   そして、ほどなく少女はやって来た。
   メイリーズが階段の脇を通過する瞬間を見計らって、ローゼンは 踊り場から飛び降りた。 
  「……きゃっ!? んっ……」
   腕を捕えて口許を押さえると、身体ごと階段のほうに引き込む。
   我ながら、なかなかの早業だと思う。自分で判断する限り、 まともな目撃者はいない。 
   それもこれも、一人前の影の兵士になるための訓練のおかげである。
  「ちょっと、こっちに来てくれ」
   ローゼンは片手でメイリーズの口を封じたまま、もう片方の腕で半ば 抱きかかえるようにして、階段を上らせた。二階も三階も通り過ぎて、人目 につく可能性が一番低い 最上階まで連行した上で、校舎内に入る。相手にとっては不幸なことに、この校舎 は実技実習室や 特殊実験室などの特別教室が主で、助けを求めようにも放課後はひとがない。 
   下手に空き教室に入るよりも、廊下にいたほうが、万が一誰か来たとき 逃げやすいし、ごまかしやすいだろう。 
   廊下の端で、ローゼンは少女の腕をつかみ直してから、口のみを解放した。
  「離して……!」
   メイリーズは、即座に叫んだ。
  「どうして……こんなことするの……っ!?」
  「どうして? おまえが逃げるからに決まってるだろ」
   ローゼンは相手の腕を離さず、逆に力を込めながら言った。
  「おまえこそ、どうして俺の呼び出し無視するんだよ。伝言を 受け取ったはずだ」 
  「早く離して! あなた、また気持ち悪くなるわ。こんな場所で 吐きたくないでしょ?」 
   メイリーズは、あせりをあらわにして激しく身もだえた。
  (やっぱり……全部、例の誤解のせいなのか?)
   ローゼンは深い罪悪感を覚えながらも、溜め息をついた。
  「……俺が悪いのはわかってるけど、おまえもたいがい馬鹿で阿呆だよな」
   しみじみと呟く。
  「な、何よ! 失礼ね。わたしは馬鹿でも阿呆でもないわよ。仮にも…… あなたのクラスメイトなんだから」 
   メイリーズは暴れるのをやめて、むっとした顔で言い返してきた。
  「そうだな。おまえは確かに、才媛ではある。でも、変な思い込みは相当激しいよな」
  「え……?」
   少女は、きょとんとした顔つきになった。
  「おまえの身体に触れるのが気持ち悪いって? そんなわけないだろ!」
   ローゼンは、メイリーズの背中を廊下の壁に押し付けた。相手の両手首を 軽く押さえ、敢えて自分の身体を密着させるようにする。 
   ごく間近から、ローゼンは少女に向かって囁いた。
  「……気持ちいい。あのときも、そうだった。俺はな。おまえは…… 痛いし、苦しかっただろうけど」 
   真っ昼間から会話する内容ではないと思いつつも、率直に 告げる。口調に甘さを交えることはなく、あくまで真面目に。 
   メイリーズの頬が、みるみる朱に染まる。か細い声で、彼女は言った。
  「喉をかき切ることに比べたら、たいした痛みじゃないと 思うわ。気にしないで……」 
   ローゼンは恥を忍んで、吐いたのは単なる二日酔いのせいだと相手に説明した。 
   するとメイリーズは、呆れた素振りを見せながらも納得してくれた。胸の つかえの原因だった勘違いが解消されたためか、ふと表情が柔らかくなる。少女の身体のこわりが 解けて脱力する瞬間は、ローゼンの身体にも伝わってきた。 
   妙な誤解が完全に消えてなくなったところで、改めて問いかける。
  「……正直に答えてくれ、メイリーズ。おまえこそ気持ち悪くないか? おまえを 力尽くで犯した男に、こうやって触れられて……。嫌なら、すぐに離してやる」 
   自分の精神衛生をこれ以上悪化させないためには、そこをもう一度白黒 はっきりさせる必要があるのだ。 
  「嫌……じゃないわ。あのときだって気持ち悪いとは思わなかった。あなたは、 由緒ある貴族の一員にしてはやたらと乱暴な言動が多いけど、本気 で傷つけられる気はしないの。わたしに優しく してくれたこと、覚えてるから。だから、もう怖くもない」 
   メイリーズは、静かな口調で答えた。
  「じゃあ、何で俺から逃げ続けたんだ? おまえが近づくと、 俺の気分が悪くなると思い込んでたから? 本当に、それだけなのか?」 
  「そ、それは……」
   少女は、狼狽するように視線を逸らした。
  「おまえも、俺と会って話して確認したいことがあったんじゃないのか? 例えば、 婚儀をぶち壊す段取りは順調に進んでるのか、とか。手紙 に書くくらいだから、気になってたんだろ? なのに、 どうしてこっちから持ちかけた話し合いに応じようとしないんだよ」 
  「……怖かったの」
   メイリーズは半分瞼を伏せて、呟いた。
  「あなたという人自体は怖くないけれど、あなたに会うことが…… あなたと向き合うことが怖くて仕方なかった。ただ、それだけ。理由は自分でもよくわからないわ」 
   少女の声音には、困惑が満ちている。
  「身籠ってないってわかってからは、なおさら怖くなったの。なぜ かしら。ところで……結婚は取りやめられそうなの? わたしの反抗や説得は、相変 わらず 聞き流されるばかりで効果がないから、結局あなたに頼るしかないのよ」 
   どこか不安げに紡がれる言葉は、そのまま途中で質問に変化した。
  「ああ、心配するな。あのとき約束したように、絶対、望まない結婚はさせない」
   既成事実ができてしまえば、おとなしく夫婦になるしかないだろう―― という親どもの考えは甘い。甘過ぎる。 
  「そう……。ありがとう」
   礼を述べながらも、メイリーズはまるで浮かない顔をしていた。
  「メイリーズ? 嬉しく、ないのか?」
  「え? い、いいえ、まさか! 嬉しいわ、とっても」
   少女は、不自然なまでに声を張り上げながら、首を左右に振った。
  「……なら、この件に関しては、お互い合意したということで決着を つけてもいいな?」 
  「ええ……」
   メイリーズが小さく頷くと、ローゼンは相手の手首を離して、後ろに下がった。
  「これで、あなたとわたしは、完全に、ただのクラスメイトに 戻れるのね。これからも、よろしくお願いします。さようなら……」 
   少女は、そう告げるやいなや、きびすを返して立ち去ろうとした。
  「待て。こっちの話は、まだ終わってない」
   ローゼンは、相手の肩をつかんで引き止めた。強引に振り向かせる。
  「ま、まだ、何かあるの……?」
   メイリーズは目を瞬かせた。
  「むしろ、これからが本題だ」
   ローゼンは、動揺しかける心を押さえつけ、必死に平常心を守ろうとした。
  「……あのとき、言いかけて思いとどまった言葉だ。もしも、おまえが 俺を許してくれるなら、俺は……おまえを得たい」 
  「……!?」
   メイリーズは目を見張って、口許に手をやった。
  「俺の、家族になってくれないか?」
   ローゼンは本心を簡潔に告げた。
  「か、ぞ、く……? つまり、結婚するっていうこと? でも、今さっき……」
  「ああ、確かに言ったよ。望まない結婚はさせないと。俺だって したくない。自分たちが利用されるのも、生まれてくる子供が利用されるのも、まっぴらだ」 
  「……………………」
   メイリーズは混乱したのか、沈黙してしまった。
  「言ってることが矛盾してるように感じるんだな? だが、俺の中では 矛盾してない」 
   ローゼンは、もはや逡巡しゅんじゅんせずに、自分の胸中を素直に吐露した。
  「俺がおまえを得たいと思うのは、望まない結婚をするためなんかじゃなく、 自分の念願を叶えるため……自分の望む幸福を きたいからだ。俺は、昔からずっと、本物の家族が 欲しかった。だから、おまえさえ良ければ、なってもらいたい」 
  「わたしが、あなたの、家族に……?」
   メイリーズは、呆然とした調子で呟いた。
  「……家族が欲しいっていう気持ちは、何だか、よくわかるわ。けれど、 どうしてわたしなの? わたしでいいの? たまたまわたしと結婚させられそうになったからって、 妥協 することはないでしょ? それとも、純潔を奪ったことに、まだ責任を感じてるの?」 
  「妥協? 責任? 馬鹿なこと言うな。今回の件については、気まぐれな 女神に感謝したっていいくらいだ。月より投げ落とされた運命 を、拾うか拾わないかは、俺たち次第 ……いや、既におまえ次第か」 
   ローゼンが暗に返事を迫ると、メイリーズは慌てて、さらに言いつのった。
  「でも、ほら、今回のことで、お互い深く思い知ったわよね。わたしたち、 基本的な性格にさえ、かなりの相違があるわ。家族になっても、きっと喧嘩ばかりよ」 
  「たまには喧嘩もいいな。だが、喧嘩ばかりにはならないはずだ。俺とおまえは、 根本的に似てる部分もあるんだから」 
  「え……嘘……? そう、かしら……」
   少女は、迷うように首をかしげた。
  「おまえは俺に向かって言ったよな。2000年続いてきた国や文化の枠組みを、 個人の力で崩せるか、と。崩せるわけがない。一人の じゃ、できることは高が知れてる。ルミナスを 変えるためには、現状に満足しない人間の協力が一人ぶんでも多く必要なんだ」 
  「わたしにも、協力しろって言うの? わ、わたし、そういうのは、 あんまり……」 
   わずかに顔を引きつらせる少女を見て、ローゼンは苦笑した。
  「わかってる。無茶なことや危険なことをやれなんて言わない。とりあえず、 俺の家族になってくれればいい。そうしたら俺は幸せになれるし、もし将来子供 が生まれたとして、 その子供が幸せになれたら、それだけでおまえはルミナスを少し変えたことになる」 
  「あ……」
   メイリーズは、驚嘆を含んだ声を漏らした。
  「おまえはおまえのやり方で、現実を変えられるんだ。心を染めるくらい絶望を、 洗い流しさえすれば……。間違いだらけでも、どうか、まだ、この国を見放さないでくれ」 
   ほとんど祈りのように、ローゼンは懇願した。
   ――そして、祈りは通じた。
  「そうね。難しく考えなくても、自分にできることや向いてることを やればいいんだわ」 
   花開くように明るく微笑んだ少女に見惚みとれかけながらも、ローゼンは確認した。
  「それで、返事は……?」
  「あなたがわたしを必要としてくれるなら、喜んで」
   とろけるように笑みを深めて、メイリーズは答えた。
  「わたしも、この国の現実を変えてみたい。たとえ、ほんの少しでも……」
  「……ありがとう」
   自分の気持ちが無事に受け容れられて、嬉しいというより、まずは安堵する。
  「すぐさま結婚しろと要求してるわけじゃないからな。半月後の 婚儀は予定通り、ご破算だ。二人でうまくやっていけそうなら、二年後にアカデミーを 卒業 してから、正式に結婚しよう。それまでは……えーと、何て言えばいいのか……」 
  「付き合うの?」
   メイリーズが、こちらの顔をのぞき込むようにして、軽く口を挟んだ。
  「そうだ。つ……付き合ってくれ」
  「ええ、いいわ」
   ぎこちない告白に、相手は微苦笑を浮かべながら、改めて承諾の返事をくれた。
  「貴族社会の中で生きてる限り、そういう台詞を聞くことは一生ないと 思ってた。不思議な気分よ。でも、すごく嬉しい」 
   ローゼンは、どことなくおもゆい気分にさせられた。なぜか、同い年の少女が、 これまでになく大人びて見える。 
  「……メイリーズ。これを受け取ってくれるか」
   ふと自分で自分を子供っぽく感じてしまったことをごまかすように、 ローゼンは、少女に小さな包みを手渡した。 
  「これ、何?」
  「俺の気持ちのあかしだ」
   メイリーズが包みを開けると、中から、細い鎖に繋がれた銀の指輪が現れた。
   指輪の中央には、淡い乳白色の底から青銀の光が浮かび上がる宝石 がめられている。 
  「これは……青月長石!? 大きくはないけど、極上品だわ!」
   少女の顔色が変わった。
  「ローゼン、これ、どこの宝石店から拝借してきたの? 今すぐ 返しに行きましょう!」 
  「おい、くすねてきたかのように言うのはやめてくれ……」
   メイリーズの反応に、ローゼンは思わず額を押さえた。
  「だって! 貧乏なんでしょ、テンペスト家は? そしてあなたは、 特待生として学費を免除されながら勉強する学生。どこからこれを買うだけの 費用を捻出できるのよ!?」 
   国有数の富豪レスティ家の令嬢をなめてはいけない。どうやら彼女は、宝石類に 対する鑑識眼を持っているらしい。小さくても質の高い石であることを一目で見抜いたのだ。 
   ましてや青月長石は、ルミナスで最も価値の高い宝石――相手の疑問は、 至極もっともだった。 
  「……前借りしたんだよ。将来の就職先の親切な上司から」
   ローゼンは、苦し紛れに説明した。ちなみに「親切な」というのは、 半分嫌味であるが、メイリーズは知る由もない。 
  「前借り……? 卒業は二年後なのに、もう就職先が決まってるの?」
  「まあな」
  「どこに?」
  「外交庁」
   そう答えると、メイリーズは仰天した様子を見せた。
  「さすが、稀代の優等生……。早くもスカウトされたの? あなたの場合、 家柄だけじゃなくて実力が物を言ったのは間違いないわ。おめでとう!」 
   ローゼンは、嘘はついていない。正確には裏の外交庁だが、外交庁には違いない。
  「けれど、いくら外交庁でも、就職する前から借金なんかして……大丈夫?」
  「大丈夫だ。そこは全く気に病まなくていい」
   ローゼンが請け負うと、メイリーズはやっと安心したのか、指輪を手に取った。
  「じゃあ、ありがたく受け取ります。大切にするわ」 
   それを見て、ローゼンもポケットから自分の指輪を取り出した。サイズだけが 違う同じデザインの指輪で、やはり鎖がついている。 
  「一応、誓約石のつもりなんだ。結婚したら堂々と指につければいいけど、 それまでは服の下につけられるように、鎖を……」 
  「そうだったの。やっぱり、頭がいいわね。早速、つけてみてもいい? あ、 その前に、わたしがつけてあげる」 
   ローゼンが自分の指輪を渡すと、少女はチェーンを首に回して、 手早く留めてくれた。 
   同じように、相手の指輪を預かって、メイリーズの背後に回り、 チェーンの金具に手をかけたところで、ローゼンは動きを止めた。 
   互いの関係を誓約する前に、まだ言うべきことが 残っているのを思い出したのだ。 
  「言い忘れてたことがある。大事なことだ。このままで、黙って聞いてくれ」
   この話をするときだけは、表情を見られたくないと思う。よって、相手の後ろ に立つ今の体勢は、ちょうど都合が良かった。 
  「俺は、今回の件をきっかけに、親と絶縁することを決めた。俺は家を 捨てる。だからと言って、レスティ家に厄介になる気はさらさらない。 はまだ学生の身だが、将来の 就職先からの支援で何とか自立してやっていくつもりだ。やっていく自信は、ある」 
   ローゼンは、自分を叱咤する意味も込めて、言い切った。
  「この先、俺とおまえが結婚するとしたら、それは家と家との結びつきには なり得ない。俺はレスティ家から、おまえを奪う。そういう形の結婚 になる。ある意味、おまえにも家を捨てる ことを強要するようなものだ」 
   告白に対する返事をさせた後で、こんなことを言うのは明らかに 卑怯である。とはいえ言わないよりはましだから、苦痛をともなっても言葉を続ける。 
  「俺は、おまえに、実家にいるときみたいな贅沢はさせてやれない。それ どころか、恐ろしく苦労をかける可能性が高い。楽な生活は保障できない。保証できるのは、愛情のみ」 
   自分は何と厚かましい人間なのかと、呆れつつ再認識する。
  「それでも、家族として一緒にいてくれるか? 結婚前でも結婚後でも、 俺に対して我慢ならない不満を感じることがあれば、この指輪 はいつでも突っ返していい。もちろん、 今このときでも……」 
  「ローゼン。早く、チェーンをつけて」
  「メイリーズ……!」
   少女に迷いのない声音でかされて、ローゼンは逆に不安を覚えた。
   本当に、これでいいのだろうか、と。
  「あなたは優秀な頭脳の持ち主だけど、たいがい馬鹿で阿呆なところも あるのね。他人ひとのこと言えないわ。あなたの言うような形で結婚したら、レスティ家の莫大 な財産は 少しも自由にならないわよ? 大金を上手に使えば、あなたの目標 を達成するために役立つかも しれないのに……いいのかしら?」 
  「……いいんだ。現状に甘んじる者たちが所有する金には頼りたくない」
  「そう……。わかったわ。わたしも、贅沢なんかできなくてもいいの。できれば、 一月ひとつきに一冊くらい本を買うお金は欲しいけれど」 
  「それくらいは何とかするよ」
  「そう? それなら、わたし、あなたに不満はないわ」
   相手から明確な許しを受けて、ローゼンは指輪に通した鎖の金具を 留め、手を離した。 
   メイリーズは、くるりとこちらに向き直って、にっこりと笑った。
  「これで、ただのクラスメイトから、恋人同士に昇格ね」
  「ああ……」
   宝石のように輝く淡い緑の瞳を見返しながら、ローゼンは頷いた。
  「ねえ、『世界で一番愛してる』って言ってくれない? 今は、 真っ赤な嘘でもいいから」 
  「え……」
   メイリーズにねだられて、ローゼンは硬直した。
  「えーと、俺は、嘘は嫌いなんだ。っていうか、苦手なんだよ」
  「あっ、ひどい」
  「あのなぁ、そういう台詞の吐ける男は、せいぜい100人に一人いれば いいとこだ。恋愛小説と現実を混同するな」 
  「100人に一人ってことは、探せばいるのね?」
  「そ、それは……世界は広いから、一概には言えないかと……」
   墓穴を掘った気がして、ローゼンはうなだれた。
  「まあ、無理して言ってもらわなくてもいいわ。それも、あなたの個性だもの」
   メイリーズは、くすくす笑っている。
  「じゃあ、代わりに抱いてくれる? 目隠しも猿ぐつわも なしで。今度こそ、きちんと」 
   いったん安心しかけたところへ、思わぬ不意打ちを食らって、 ローゼンは呻いた。 
  「う……。それは、正式に結婚してからということで」
  「はいはい。正式に結婚してからのお楽しみね。あなたなら、そう 言うと思ったわ……」 
   メイリーズは、あきらめたような口振りで言った。
  「確かに、学生のうちは身を慎むべきよ。わたしだって、アカデミーは無事に 卒業したいから、まだ結婚はしたくない。でもね…… を言うと、妊娠してないって知ったとき、ほんのちょっとだけ、 さみしかったの。わたし、きっと子供が欲しいのね」 
   その点に関して、自分と相手の気持ちがほぼ重なっていたという ことは、ローゼンには意外で、嬉しい驚きだった。 
  「俺も……子供は欲しいな。育てられる余裕ができれば、すぐにでも」
   メイリーズは、唇を緩めて頷いてから、すっと顔つきを引き締めた。
  「約束しましょう、ローゼン。わたしたちの子供は、絶対に、わたしたちと 同じような目にはわせないって。必ず、自由な意思で幸せをつかめるようにしてあげるって」 
   怖いくらい真剣な目で、真剣な声で、少女は迫った。
  「ああ、約束する。子供が生まれたら、二人で守ろう。この誓約石に誓って」
   ローゼンは、相手に負けないだけの思いを込めて、決然と答えた。
   互いの心が結び合わされたときには、互いの身体も自然と抱き締め合っていた。
  「愛の言葉も夫婦の営みも当分は我慢するから、せめて、キスして……」
   恋人となった少女の望みに応じて、ローゼンは、ゆっくりと首をかたむけた。
   春の光が差し込む廊下の片隅で、二人は初めて、唇を重ねた。