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―恋人未満たちの初夜―

Chapter7

   ふと気がつくと、全てが終わった後だった。
   ローゼンは、ひどく重い身体を苦労して起こした。なぜか 思うように動けない。
   頭がずきずきと割れるように痛み、胸のあたりもむかむかする。
   最悪の気分だ。
   ベッドの上に、メイリーズはいなかった。
   視線を巡らせて、少女の姿を探す。
   しゃがんだメイリーズの後ろ姿を床の上に見つけたとき、ローゼンは、ほっとした。
  「……メイリーズ」
   躊躇いつつも、呼びかける。
  「あら、ローゼン。起きたのね……」
   メイリーズは、意外にも明るい声を返してきた。
   静かに立ち上がって、こちらを振り向く。
   その手には――鋭く尖ったガラスの破片が握られていた。
  「……!?」
   ローゼンは心を引き裂かれるような衝撃を受けた。
  「あなたのことは嫌いじゃないわ。嫌いじゃないけれど……わたし、 好きな人は他にいるのよ。でも、あなたに汚されてしまったから、わたしはもう、 する彼と 結ばれることはできないの。とっても悲しいわ。思わず死にたくなるほどに……」 
   メイリーズは、ガラスの破片を、自らの喉に向けて振りかざした。
  「さようなら、ローゼン」
  「やめろ!! メイリーズ!」
   叫んで止めに入ろうとするが、間に合わない。全身が砂袋にでも 変わってしまったかのように、まるで言うことをきかないのだ。 
   透明な刃は、深々と少女の喉に突き刺さった。
   華奢な身体が力を失い、噴き出す鮮血にまみれながら、石の床にくずおれる。
   ローゼンは、肺がつぶれるほどの絶叫を絞り出した。


   ふと気がつくと、全てが終わった後だった。
   メイリーズは、マットレスに手をついて、そろそろと身体を起こした。
   少しだるいことと、身体の奥に鈍い痛みが残っていることを除けば、 体調は悪くない。
   むしろ、すっきりした気分だ。
   目隠しはいつの間にか外れていたが、猿ぐつわは残っていたので、自分で外す。
   ローゼンは、隣で眠ってしまっているようだ。
   自分が今、どうしてこれほど落ち着いた心境でいられるのか……メイリーズ 自身もよくわからなかった。 
   ただ、自殺したいなどという衝動は、完全に消え失せていた。
   生きたいという願望をぶつけてきたローゼンに抱かれているうちに、 心に深く刺さった冷たい結晶のような自殺願望は、溶けて流れ去って しまったのかもしれない。 
   抱かれたことを不快だとは思わなかった。思えなかった。
   彼の行為に全く悪意がないことくらい、いくら何でも理解できている。
   自分は、「結婚か死か」という選択肢を「敗北か勝利か」に置き換えて、 後者を選ぼうとしていた。ローゼンは、同じ選択肢を ここを生きて出るか出ないか」に 置き換えて、前者を選んだ。 
   そんな彼は、彼自身に許された唯一の手段として、こうするしかなかったのだ。
  (わたしが勝手に死んだ後で、何事もなかったかのように外に出て行けるような 人じゃ、ないのよね……) 
   目の前で人が死ぬ。客観的に考えれば、それはとてもショッキングな出来事だ。
  (わたしだって、目の前でローゼンが死ぬのは嫌……)
   自分が嫌なことを他人に体験させようとしていた とは――何とも身勝手で傲慢ごうまんな女だ。
   今なら、素直に認められる。
   自分の出した結論は間違っていて、ローゼンの出した結論は正しかった。
   メイリーズは、複雑ながらも穏やかな気持ちで、 隣に横たわる少年の寝顔を眺めた。
  (え……!?)
   この瞬間、メイリーズは初めて相手の異常に気づいた。
   目を閉じたローゼンの表情は苦悶するかのように歪み、額には脂汗が浮かんでいる。
   顔色も良くない。
  「どうしたの、ローゼン!? どこか痛いの? 苦しいの!?」
   息遣いも荒く、かなり乱れている。
   呼びかけて、身体を揺さぶってみても、なかなか目覚める 気配がない。これは――
  (眠っているわけじゃなくて、意識不明……!?)
   メイリーズは、これまでとは全く別種のパニック状態に陥りかけた。
   そのとき、相手がかすかな声で、何か呟くのが耳に入った。
  「……メイ……ズ、メイ……リーズ……!」
   しきりに自分の名前を呼んでいるようだ。
  (寝言……? 悪夢にでも、うなされているの……?)
  「ローゼン! わたしはここにいるわ!」
   メイリーズは、思い切ってローゼンの頬をはたいた。それでも効果がないと 知ると、水のはいったボトルを取ってきて、相手の顔にかけた。 
  「……う……あぁ……」
   ローゼンは苦しげに呻くと、やにわに目を開けた。
  「メイリーズ!!」
   叫んで跳ね起きる。
  「……よかった。やっぱり、眠っていただけだったのね」
   メイリーズはあんした。
  「あれ、おまえ……?」
   濡れた前髪を額に張り付かせたローゼンは、瞠目してこちらを見つめた。
  「悪い夢……見てたの?」
   きっと自分が登場していたに違いない夢の内容を、恐る恐る尋ねる。
  「おまえに死なれる夢を見た。目の前で、ガラスの破片を喉に……」
   ローゼンは、まだ半分夢の中にいるかのごとく、呆然とした様子で語った。
  「とてもリアルだった。荒唐無稽な展開じゃなくて……あり得る結末だった からだ。俺のせいで、好きな男と結ばれることが できなくなったと告げて、おまえは死んだ」 
  (……!?)
   メイリーズは愕然とした。
  「それは夢よ! わたしは生きてるわ」
  「ああ、そうらしいな。だが、現実にもあり得た夢だ」
  「あり得ないわ! だって、嘘だもの」
  「え……?」
  「好きな人がいるなんて嘘よ。あんなの、売り言葉に買い言葉で 口にしてしまっただけ」
   メイリーズは、ざんの念に駆られながら告白した。
   いろいろと鋭い人だと思っていたが、なぜかローゼンは、 こちらのせつな偽りを 見抜けずに信じ込んだのだ。そして、余計な精神的苦痛を味わった。 
  「わたしの小さな見栄みえが、こんなにもあなたを苦しめるなんて 思わなかった。もっと早く、嘘だって言いたかったけれど、 その……口が、ふさがってたから……」 
   メイリーズは、蓄積された全ての後悔を込めて、相手に謝った。
  「どうか、許して……」


   メイリーズは生きていた。
   悪夢にさいなまれていたローゼンは、その事実だけで、十分に救われた。
   だが、その上メイリーズは、好きな男の存在を否定して、さらに謝罪までしている。
   許しを請うのは自分の役回りだったはずなのに、この展開はどうしたことか。
  (実はこっちが夢なんじゃないだろうな)
   ローゼンは真剣に疑った。
  「……俺のこと、恨んでないのか? 好きな男がいようがいまいが、 強姦されたことには変わりないだろ」 
  「そうね。でも、あなた、やりたくてやったわけじゃないでしょ? 無事に ここを出たいから、仕方なくやったのよね。わたしだって、それくらいのことは わかるわ。何の分別 もない 子供じゃないのよ。馬鹿にしないで……」 
   メイリーズは、静かな口調で言い切った。
  「恨んでなんか、ない。わたしを止めてくれたこと、逆に感謝してる。今は 死にたい気分じゃないから」 
  「メイリーズ……」
   少女の口から、はっきりとした言葉を聞いて、ローゼンはようやく安心できた。
   どうやら、自分の願望が生み出した幻を見ているわけではなさそうだ。メイリーズは 現実に生きていて、正気に戻った上で、もう死ぬ気はないと言ってくれた。 
  (……よかった)
   きつく心を締めつけていた緊張感が解けて、ローゼンは胸にわだかまっていた 重苦しさを吐息と共に吐き出した。 
   その途端――
  「……うっ!?」
   不意に本物の吐き気をもよおして、 ローゼンは口許くちもとを押さえた。
   吐き気だけではない。激しい頭痛や、全身のだるさなど、さまざまな体調不良が 一気に襲いかかってきた。 
   あの悪夢は、あながち単なる夢でもなかったのだ。身体の異常に限っては、 全て現実を反映していたらしい。精神的重圧から解放 されたのはいいが、それと同時に、肉体的不調が 現実においても表面化してしまったのである。 
  (……き、気持ち、悪い……)
   ローゼンは耐え切れなくなって、重い身体を引きずりながら 化粧室のほうへ向かった。 
  「ちょっと、ローゼン!? ど、どうしたの!?」
   メイリーズは追ってきて、心配そうに尋ねてくる。
  「来るな……メイ、リーズ……」
   ローゼンは、どうにか制止しようとしたが、間に合わなかった。
   手洗い場にすがりつくようにして、嘔吐する。
   背後で少女の悲鳴が響いた。
  (見るなよ……頼むから……)
   ローゼンは内心で切実に訴えた。
   だが、その訴えに反して、メイリーズはすぐそばまで近寄ってきた。
  「気持ち悪いの!? ずっと我慢してたのね? 苦しそうだったのは、 夢にうなされてただけじゃなかったのね? どうして……!? わたしは何ともないのに……」 
   少女は悲痛な声を漏らした。
  「あ……まさか悪阻つわり?」
   深刻に呟く。
  (阿呆……! 男にそんなものがあってたまるか。っていうか、 女でもすぐに起きることじゃないだろ) 
   ローゼンは突っ込みたかったが、実際には、鼻で細い息を継ぐのがやっとだ。
  「いいえ、そんなわけないわよね。男の人なのに……」
   メイリーズは結局、自分で自分に突っ込みを入れた。かなりの恐慌状態のようだ。
  「わかったわ……! わたしを抱いたせいね? 好きでもない相手と あんなことして、嫌なのは女だけじゃないはずだわ。男の だって気持ち悪いわよね? わたし、 自分の立場からしか状況を見ないで、やみに怖がったり がったりして……あなたの気持ちなんか、 全然考えてなかった。ごめんなさい!!」 
  (いや、それは違う……! おまえの勘違いだ……)
   とんでもない誤解を解きたいと思っても、今のローゼンにはままならない。
   口を開いたら、即座に再び吐いてしまいかねないからだ。
  「そうよ、あなたにとっては、全部仕方なくやったことだもの。外に出るためとはいえ、 ずいぶん無理をしたのね。優しさやづかいは、もう要らないから、正直に言って。おまえの身体は、 気持ち悪かったって……!」 
  (そんなわけないだろ! この吐き気は、たぶん、ただの……)
   ローゼンは、つい反射的に言葉を発しかけて、 そのまま二度目の嘔吐をしてしまった。
  「……!? ローゼン!? お願い、しっかりして……っ!」
   メイリーズが、泣きそうに聞こえる声音で叫んだ。
   これ以上、彼女に見られ続けるくらいなら、死んだほうがましだ。
   ローゼンは、手洗い場でうつむいたまま、必死に右手を伸ばして後ろを指差した。
  「え、何……?」
   メイリーズが戸惑いの声を上げる。
  (もし魔印による封印を破れるとしたら、おまえだけでも、先に……)
  「向こうの、扉から……出て、行け……。外へ……」
   治まらない吐き気と戦いながら言うと、背後で少女が息を詰める気配がした。
  「……わかったわ。わたしがそばにいないほうが、あなたの気分も 良くなるわよね。待ってて、すぐに助けを呼んでくるから!」 
   メイリーズは、そう言うやいなや、化粧室から飛び出していった。
  (……言い方がまずかったか)
   ローゼンは、少女を余計に傷つけたことを悟ったが、 今は悔やんでいる場合でもない。
   密かに振り向いて、メイリーズの姿を見守る。
   少女は、こちらに背中を向けて、発光する魔印の描かれた扉の前に立っていた。
  (本当に、出られるのか……?)
   ローゼンにとっては、不安が最高潮に達する一瞬――
   メイリーズは、扉に向かって腕を伸ばした。そして、触れる。
   弾かれるような抵抗の代わりに、魔印は白く強い輝きを放って少女を包み込んだ。
  (……!?)
   まさに祝福が与えられているかのような光景。
   輝きが消えたとき、魔印自体も淡い光を失っていた。無効化された証拠だ。
   メイリーズが軽く押すと、両開きの扉は呆気なく開いた。
   彼女は、ちらりとこちらを振り返ると、無言で聖婚室の外に出て行った。
  (あ、おい! 外に出る前に、服くらい着ろ!)
   声なき呼びかけが、相手に届くはずもない。
   一人残されたローゼンは、ぐったりとその場に座り込んだ。
  (取り乱しすぎだ、メイリーズ……)
   監禁状態が終焉しゅうえんを迎えたにもかかわらず、 少女が去りぎわに見せた 表情は悲しげだった。 
   妙な誤解をさせてしまって、申し訳ないと思う。その一方で、 彼女が自分のために心を痛めてくれたという事実は、甘い感覚となって、 ひっそりと心に広がった。 
  (俺たちは、いまだに、ただのクラスメイトに過ぎないのにな)
   肉体的には結ばれても、精神的には 結ばれていない。むしろ、完璧にずれている。
   しかし、互いをいたわろうとする気持ちは、薄い壁一枚へだてて 触れ合いかけているような気もするのだ。 
  (やっぱり……あいつとなら、俺は……)
   ローゼンの中で、進むべき目標とは別の――進むべき目標のために 一度はあきらめかけた夢に対する渇望が、蘇りつつあった。