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題字

―恋人未満たちの初夜―

Chapter5

   不意に部屋を満たした緊張感――張り詰めた不穏な気配。
   それが、ローゼンの意識を覚醒へと導いた。
  (……?)
   目覚めた直後、最初に気づいたのは、自分が毛布をかぶっているということだった。
   かすかに甘いような匂いが鼻腔に触れる。
   ほのかな残り香は、少女が使っていたことを示す証拠。そんな毛布が今、 自分の身体に掛けられているということは―― 
  (……起きてるんだな)
   なぜだか、途方もなく嫌な予感がして、ローゼンは意味もなく叫んだ。
  「メイリーズ!」
   名前を叫ぶのと、少女の姿を視界に捉えるのとは、ほぼ同時の出来事だった。
   唐突に呼ばれたメイリーズは、びくりとして振り向いた。
   彼女は、部屋に置かれている鏡台の前に座り込んでいた。その右手には――照明の 光を鈍くね返す何かが握られている。 
  「それは……!?」
   ローゼンは立ち上がり、メイリーズの右手を見つめた。
   銀色をした、薄い金属。小さいが、それは人間を殺傷し得る凶器に見受けられる。
   形状は細長い長方形で、下半分は柄の代わりに布が巻いてあるようだ。カミソリの 刃に近いものだろう。 
  「メイリーズ……それを、どこで……?」
   まさか、最初から所持していたとでもいうのか。
  「起きてしまったのね……。でもそれ以上、近寄ら、ないで……」
   メイリーズは、問いかけには答えず、弱々しくローゼンを拒絶した。
  「おい、そんなもの握って……どうするつもりだ!?」
  「わたし……死ぬって決めたの。それが……わたしの出した結論……」
  「なっ……!」
   はっきりと宣言されて、ローゼンは、さすがに立ちすくんだ。
  「……誤解しないで。あなたのせいじゃないわ。さっきはごめんなさい。これは、 相手に関わる問題じゃなくて……わたし個人の問題なのよ」 
   メイリーズは、平坦ながらも断固たる口調で告げた。
  「わたしは……わたしに許された唯一の手段で、両親とルミナスの意思に 反抗するの。マリアベルさんや……エイシアさんのようにね」 
  「マリアベル……? あの『満ち欠ける娘』……?」
  「……読んだことがあるの?」
   メイリーズは、青ざめて見える顔に、わずかな驚きをにじませた。
  「あるよ、もちろん。俺が外の世界に憧れるように なったのは……あの本がきっかけだ」
  「……恋愛小説なのに?」
   少女に不思議そうな眼差しで見つめられたローゼンは、きっぱり正直に 答えてしまったことを、ほんの少し後悔した。あせりつつ、言葉をにごす。 
  「いや、恋愛小説というか……確かに、そうではあるけど……あれは それだけじゃないというか……」 
   自分たちが生まれる二年くらい前に出版された小説――『満ち欠ける娘』。
   あれはまれに見る傑作だ。それまで 長らくルミナスを包んで新しい風をこばんできた 堅牢なからに、くさびを打ち込んだという意味で……。 
   かつてルミナスを震撼させた実際の事件が題材とされるだけあって、 その描写は緻密で克明。特に、マリアベルがモデルと思われる主人公 が、サーヴェクトがモデルと思われる 国で生活する様子は、多くのページをいて丁寧に描かれている。 
   そこから伝わってくるのは、今のルミナスには存在しない、異質なもの――敢えて 命名するなら、「自由の喜び」や「家族の幸せ」――形はなくても尊い「何か」。 
   開いた本から明るい笑い声が聞こえると錯覚するほど溢れ出してくる「何か」を 初めて浴びたとき、ローゼンは、ただちにさとた。 
   ――自分が、その「何か」に飢えているということを。
   小説の筋書きでは、最終的に主人公は捨てた母国に戻り、そこで「何か」を全て 失って死ぬ。その結末は、ルミナス人として「何か」を求めることのリスクをも感じさせる。 
   それでも、ローゼンは、「何か」を得たいと望む気持ちを抑えることが できないのだ。 
  「あの小説に興味を抱いて読んでみて、感化された人間は、意外と 大勢いる。男も少なくないんだ。別に、俺の趣味が妙ってわけじゃ……」 
   ローゼンの申し開きを聞いて、少女は逆に、怪訝けげんな顔つきになった。
  「あなた個人の趣味は別にしても……男の人が恋愛小説を読むことって、 そこまで変なのかしら?」 
  「えーと……そういうわけでも……ないよな、うん」
   メイリーズに指摘されて、ローゼンは落ち着きを取り戻した。
   出版されて以降、『満ち欠ける娘』は、男女を問わず若い世代に影響を 及ぼしていると言える。ルミナスでは禁書指定にされているものの、 は外国では堂々と売られていたり するので、今も禁書屋に行けば外国で製本された『満ち欠ける娘』が入手できるのだ。 
   この小説の作者は不詳だが、現在のルミナスに不満を持つ何者かが死ぬ前の マリアベルに接触し、取材した上で書いたのだろうとローゼンは考えている。 
   その何者かは、執筆した作品がルミナスに与える衝撃を十分承知した上で、 発表したに違いない。貴族社会において最大級の発言権 と影響力を有するランスリット家のスキャンダルを、 最も効果的な爆弾に仕立てて、ばらまいたのだから。 
   そう、『満ち欠ける娘』は、その威力的に、楔よりは爆弾と言うほうが 相応ふさわしいのかもしれない。閉鎖的な社会の殻に、大きな亀裂を入れた―― 
  「……メイリーズ……おまえも、読んだんだな?」
   ローゼンが一応確認すると、メイリーズは、ふわりと微笑んだ。
  「ええ。一番のお気に入りよ。わたし、マリアベルさんが大好きで、 彼女に憧れてるの」 
   だが、少女の婉麗えんれいな表情は、健全さを欠いていた。
   うまく形容することはできないが――決定的に、どこか壊れている。
  「だから、自殺するっていうのか?」
   ローゼンは声音を抑えて、慎重に尋ねた。
   メイリーズは微笑みを顔に張り付けたまま、沈黙を保った。
  「結婚よりも、死を選ぶ……。それが、おまえの偽らざる意思なんだな?」
   質問を重ねると、メイリーズは、ようやく口を開いた。
  「……そうよ。わたしは死ぬことで全ての現実を切り捨てて、ルミナスに勝つのよ」
   少女の双眸そうぼうには、狂気めいた本気が静かにきらめいていた。
  「そうか……わかった。対等なクラスメイトとして、互いの意思は尊重すべきだよな」
   メイリーズの意思を受け止めたローゼンは、 まぶたを伏せ気味にした。
  「おまえがどうしても死ぬ気なら、俺に止める権利はない。だが…… 少しだけ待ってくれないか? 何もしないで見送るのは、いくら何でも気が引けるんだ」 
   重々しく切り出しながら、扉近くの床に置きっ放しにしてあるトレイを指し示す。
  「永遠に戻らない旅に出る前に、せめて、別れのさかずきを……。この狭い現実を 打破することすらできない、不甲斐ふがいない俺の心の整理のためだと思って、付き合ってくれ」 
   少女は迷うような素振りを見せていたが、切なる頼みに、とうとう黙って頷いた。
   ローゼンは、それを視認するやいなや、相手を刺激しないようにベッドを挟んだ 反対側を通って、食事のトレイを取りに向かった。 
   ふたつのグラスに、例の琥珀色の酒を少量ずつ注ぐ。そして、その片方を メイリーズに向かって差し出した。 
   メイリーズは、銀の刃を右手に握り締めたまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。
   左腕が、伸ばされる。指が、グラスをつかもうとする、その直前――
   ローゼンはグラスから指を離した。
   ――絶妙のタイミング。
   酒の入ったグラスは、わずかな時間差で少女の手を擦り抜けて石の床に落下した。
  「あ……!」
   メイリーズは反射的に足元に目をやった。
   刹那せつな、彼女の注意は砕け散ったグラスに集中する。ローゼンは、 すかさず相手の右腕を捕らえ、軽くひねり上げて、手の力が緩んだところで素早く 凶器を奪い取った。 
  「……!?」
   あっという間の出来事に、メイリーズは数瞬、呆然としていた。やがて だまされたことに気づいたらしく、恨めしげにめつけてくる。 
  「ひ、卑怯だわ……!」
  「残念だったな。俺はそんなに物わかりのいい人間じゃない」
   ローゼンは、咄嗟とっさの機転がうまく成功したことに胸を撫で下ろしながら告げた。
   悪びれることなく、突き刺すような少女の視線を受け流す。
  「これまでに把握したおまえの嗜好や性格からして、何となく、こういうのに 弱いんじゃないかと思ったんだよ。物語の中に てくるような、ドラマチックなシチュエーション。こういう演出、 嫌いじゃないだろ?」 
  「な……! ま、また馬鹿にして……っ!」
   メイリーズは、さあっと頬を紅潮させると、普段の彼女からは想像できないほど 険悪な形相ぎょうそうで怒鳴った。 
  「馬鹿にしてるのは、おまえのほうだ!」
   ローゼンは、負けじと鋭く怒鳴り返した。
  「目の前で自殺しようとしてるクラスメイトを、はいそうですかとあっさり 死なせる人間がいるか? おまえが死んで、俺が何事もなかったかのようにいられると 思うのか!?」 
   その剣幕に、メイリーズは少々たじろいだようだった。
  「だって……考えてみて。わたしが死んだら、あなたは、きっとここから出して もらえるはずよ。閉じ込めておく意味がなくなるもの。だから、あなたにとっても……」 
   ローゼンは、相手の言い訳を終わりまで聞かなかった。
  「自殺を考えたのは、俺のためでもあるっていうのか? ふざけるな! おまえが 死んでも、別の女が連れてこられるのがオチなんだよ!!」 
  「……対等なクラスメイトは、互いの意思を尊重すべきじゃないの?」
  「やかましい!! 俺がちょっと寝てる隙に、凶器まで取り出し やがって! どこに隠し持ってたのか、つべこべ言う前にさっさと白状しろ。吐かないと、 今すぐ犯すぞ?」 
   ローゼンは、ついに言葉遣い自己最凶モードに突入した。
   いつになく頭に血が上って、軽くキレたのである。
  「あ…………」
   脅迫を突きつけられた瞬間、メイリーズは目を見開いた。
   けれども、乱暴な物言いに、どういうわけか少女はおびえなかった。怯えないどころか、 人間らしい生気のある表情がかき消えて、にわかにうつろな空気に包まれる。 
  「……ぁ………………!?」
   あえかな声を漏らしたきり、メイリーズは口をつぐんだ。顔色は再び青白くなり、 仮面のようにさえ見える。一瞬前に見せた怒り顔とは、あまりにも大きな落差だ。 
   その変化はまるで、燃えかけたロウソクの炎が、 ふっと吹き消されたかのよう。あるいは、自分に魂が宿っていないことを思い出して 踊るのをやめた、おとぎ話の人形の姿。 
   メイリーズが、どこか壊れた危険な状態に逆戻りしてしまったの を感じて、ローゼンの頭も一瞬にして冷えた。 
  「メイリーズ……!? どうしたんだよ、おまえ……」
   自分が凶悪な台詞せりふを口走ったせいか? しかし、それにしては反応がおかしい。
   そもそも、メイリーズは、さっきからずっと変なのだ。
   いきなり刃を手にして、半分正気を失ったような態度を取って。
   自分が微睡んでいる間に、何か刺激されるようなことでもあったのだろうか。
   少なくとも、口喧嘩くちげんかの前後では、メイリーズはここまで情緒不安定ではなかった。
   すぐさま死に突っ走るような精神状態ではないと思われた。
  (けど……考えてみると俺だって、さっき一人で起きてたときは、やばかったよな)
   底なしのうつ状態に見舞われかけて、絶望に沈んでいくところだった。
   こういう辛い状況において、一人で延々と思考を巡らすことは、 危うさをはらんでいる。
   そのことを、ローゼンは身をって知ったばかりだ。
   元から現実に絶望しているメイリーズのこと。彼女一人だけが起きていたとき、 本人も気づかぬうちに忍び寄る鬱に囚われたとしたら―― 
  (マリアベルにならって自殺するとかいう結論に至るのも、 無理はない……か。だが、それにしたって、今のは……) 
   たった今展開された、奇妙な様子の急変だけは、どうしても不可解に感じられる。
   困惑して立ち尽くすローゼンの前で、メイリーズが唐突に、ぽつりと呟いた。
  「あそこ……」
  「えっ?」
  「あそこを見て。見れば……あなたの知りたいことが、わかるから……」
   少女は、顔をベッドのほうに向けた。
  「あそこって、どこだよ?」
  「……天蓋の内側の、隅よ……」
   それを聞いたローゼンは、まず床に散らばったグラスの破片を手早く集めて、 手持ちのハンカチで包み、メイリーズから遠ざけた。その みと奪った凶器をしっかり自分で確保したまま、 ベッドに上り、相手の言う問題の箇所に目を向ける。 
  「これは……」
   古い木に刻み込まれた文字。おそらく、小型の刃物の尖った先端部で 書いたのだろう。 
  『これは私たちの遺書です。私はこれから死にます。大切な妹、エイシアと共に』
   文章の書き出しを読んで、ローゼンは息を呑んだ。
  『私は最初から、短刀を隠し持ってここに来ました。それが必要になるような予感が したからです。そして残念なことに、その予感 は的中してしまいました。私と妹は、 この部屋に入れられてから10日経っても外に出られなければ のうと決めていたのです。今日はその 10日目。いまだに父も母も迎えにきてはくれません。だから は死ぬのです。許されざる罪を 作らないために。置き去りにすることを、どうか許してください、ファリーヌ』 
   ここから先は、筆跡が変わり、文字も小さめになっている。
  『兄様の助けを借りて、わたしもここに最後の言葉を刻みます。最後だというのに、 今、心からき上がってくるのはみにくい恨み言ばかり。女神よ、なぜ、わたしたちにこのような運命をもたらされた のですか? わたしは兄様が好きですし、兄様もわたしを可愛 がってくださいます。でも、わたしたちは 兄妹。兄様には愛する女性がいて、わたしにも う方がおりますのに、どうして望まぬ 禁忌を犯すことなどできましょう』 
  (実の兄と妹が、この聖婚室に閉じ込められた……!?)
   あまりのことに、ローゼンは立ちくらみに似た感覚に襲われた。
   それでも辛うじて平静さをとどめ、どうにか姿勢を保つと、遺書の続きに目を通す。
  『魔術士の血を濃く引き継ぐためには、何をしても良いのでしょうか? 月守りの民の 血は尊いけれど、こんなことをしてまで るべきものでしょうか? 魔術に頼らなくても、人には生きていくすべが あるはずなのに……。この国は っています。ローレル家に呪いあれ、ルミナスに呪いあれ! きっと、遠からず 滅びるでしょう……』 
   本文を構成する文字は、後半、その中でも最後に近づくほど 乱れている。しかも、最後の露骨な呪詛じゅその部分は、文字を形作るみぞがとりわけ深くなっている。 
   よほど力を込めて書き殴るように刻んだのだろう。溝の深さは、そのまま書き手 の恨みの深さを表しているかのようだ。 
   本文の下には、『エディン・ローレル、エイシア・ローレル』という 名前が並んでいて、その次に日付が記されていた。 
  「月降暦1867年、冴月8日……今から120年近くも前だな……」
   呟きながら、ローゼンは、遠い過去の痕跡をさらに追った。
  『死ぬときは、兄様の短刀を使います。わたしの持ってきたものは、鏡台の一番下の 引き出しの裏側に隠しました。万が一、ここで死ぬしかなくなった誰かのために』 
   本文に付け加えられるようにして刻まれた一節。これが、この遺書の結びの文句だ。
  (なるほど……メイリーズは、エイシアとやらの遺産を受け取ったわけだ)
   ローゼンは、少女から奪った凶器を改めてじっくりと眺めた。
   確かに、このくらい薄い刃物なら、引き出しの裏に貼り付けるようにして、 目立たないように隠すことが可能だ。遺書の日付 が正確なら、エイシアの遺産は約120年もの間、 誰にも見つからずに存在していたことになる。 
   長い時を経ながらも、刃にさびひとつ浮いていないところが不気味に思えた。
  (万が一、ここで死ぬしかなくなった誰かのために、か……ある種の親切 ではあるよな) 
   だが、現在のローゼンの心境からすれば、余計なお世話、ありがた迷惑である。
   自分が目を覚ますのが、もう少し遅ければ、メイリーズは――!
  (そうか……。この遺書と遺産こそが、あいつの心に、 とどめを刺したんだ……)
   凝縮された負の感情を濃厚に漂わせる遺物は、死への強烈な後押しと してメイリーズに作用したに違いない。 
   ローゼンは、メイリーズがおかしくなった原因を理解した。
   先刻は、自分との会話中、怒りなどによって気がまぎれて、一瞬だけ死から 意識が逸れていたのだろう。しかし、自分が凶器 について言及したことで、彼女はエイシアたちのことを思い出し、 二度目の衝撃を受けて、半狂乱状態に引き戻されたのだ。 
   ローゼンは、簡単には手の届かない天蓋の上に、グラスの破片と刃と いう二種類の凶器を放り投げた。それから、背後を振り向く。 
   少女は、床の上に四肢をつけて、うずくまっていた。その背中が、震えている。
  「メイリーズ……」
  「ね? わかったでしょ? わたしは、エイシアさんの形見を受け継いだの……」
   メイリーズの声は、れている。
  「ひどい……本当に、ひどすぎるわ。それぞれ好きな人がいたのに、 兄妹で死ななければならなかったなんて。死に追いやった張本人が、実の親だなんて……!」 
   少女は急に顔を上げ、そして絶叫した。
  「どうして!? どうしてこんなことが起こるの!? こんなことが許される 世界なら、生きていたくなんかないのよ! お願い、死なせて……っ!!」 
   裂帛れっぱくの叫びを放つと、少女は力きたように、再びぐったりとうなだれた。
    可哀相かわいそうなエイシア……可哀相な二人。きっと、マリアベルさんだって、 この国を恨んで死んでいった……。呪われたルミナス! わたしも…… 死んで呪ってやるわ……」 
   大粒の涙が床に落ちる音が、降り始めの雨音のように部屋に響いた。
   死者の運命をいたむ純粋さと、冷酷な世界を憎む激情とが混じり合って 溶け出した熱い涙
――その雫が、冷たい石の床の上で、次々と儚く砕け散っている。 
   ローゼンは、かける言葉も見出せず、しばらくは黙って見守るしかなかった。
   眼前の光景は、ひどく痛ましいものであると同時に、美しくもあった。
   この少女は、こんなふうに泣けるのだ。ルミナスに生まれながら、ごく普通の 優しさと憐れみと、しなやかな感受性を失わずに育っている。 
   若い世代を中心に、徐々に思想に変化のきざしが見え始めている昨今とはいえ、 伝統的な文化や制度の影響はまだまだ根強く、血統至上主義に染まってしまう者も 少なくはない。 
   そんな現状の社会において、メイリーズのような人間は、おそらく稀有けう
   もしも彼女を得られたら、自分の心に秘められた最大の念願は叶うのでは ないか―― 
  (って、何考えてるんだ、俺。こんなときに……)
   ローゼンは、ふと頭をよぎった考えをすぐに打ち消した。あらゆる意味で 不謹慎ふきんしんだったからだ。自分の中で、慌てて思考を切り替える。 
  (……この聖婚室の存在そのものが、ルミナスをむしばむ悪性の病巣のひとつ。その内部で、 極めつけの重病の証拠 を見つけられたわけだからな。これは重大な発見だ)
   ルミナスが重病にかかった原因は、もしかすると建国の経緯にまで さかのぼれるのかもしれない。ルミナスの歴史は、遥かな過去、古代の伝説より始まる。 
   およそ2000年の昔、女神の御使いが月より遣わされ、地上に降り立った。彼らは 「つくりの民」――レイリスセレスと呼ばれる。女神 の眷属けんぞくでもある月守りの民レイリスセレスたちは、世界を見て回り、やがて地上で 最も無力な種族であった人間をあわれむに至った。そこで彼らは、人間の中でも特に 清廉せいれんな生活を送っていた 者たちを選んで、自らの持つ力を分け与えることにした。 
   その力こそが魔術――魔力によって『見えざる手』を動かし、 世界の運命律に干渉して望む現象を引き起こす技術だ。 
   現在のルミナスのシャール付近に、当時住んでいた人々は、 月守りの民に「選ばれし」人間となった。人間の村に れて溶け込んだ月守りの民は、 村人との混血という形で血に宿る力を人間に伝えた。そして、その力の正しき扱い方を教え、 人々を繁栄に導いた。 
   ルミナス王国が建国されたのは、それからまもなくだ。初代の王は、 月守りの民だったとも言われている。 
   月守りの民の血を引く人間たちが魔術の利用法を確立し、 自らを魔術士と称するようになると、純血種の月守りの民は歴史 の表舞台から姿を消す。しかし、 その後もルミナスは魔術文明を飛躍的に発展させ、世界に を見ないほど高度な社会を築き上げて、 長らく栄華を極めた。それが、「魔術大国」と畏怖を込めて呼ばれる所以ゆえんである。 
   だが、800年ほど前から、その絢爛けんらんたる栄華のところどころに、 虫食いのようなみが生じ始めた。国民の中に、魔術を扱う能力の低い者がちらほらと 現れ始めたのだ。 
   月守りの民の血が次第に薄れてきたことが原因と考えられるが、ルミナスは 国家としてその状況を憂い、危機感を くようになった。『レイリス聖典』の記録が初めて歴史に 登場するのも、この頃である。 
   それから時代が下るにつれて、国民全体の魔術士としての能力低下は じわじわと進んでいき、ついに顕著けんちょな問題として表面化するまでになった。とりわけ、300年前から100年前に かけての期間が、問題のピークだった。この期間 には、魔術を扱う能力の低い国民、及び魔術を扱えないに 等しい国民に対して、たびたび国家的 な弾圧政策が取られた。生活全般や結婚の制限、国外追放はもちろん、 時には かに大量虐殺まで行われていたのだ。弾圧を受けた国民たちは、約150年前に集団で ルミナスをのがれ、数十年後、東の森林地帯を切り開いて新たな国を建てた。それが、 今日の機械王国サーヴェクトだ。 
   60年ほど前、サーヴェクトに仕掛けた戦争が思うように いかなかったこともあり、ここしばらくは国家規模の迫害は鳴りをひそめている。だが、貴族社会を中心に、 低能力者や無能力者に対する個人レベルでの弾圧 は、いまだに続いている。そのため、サーヴェクトに 亡命する者が後を絶たない。 
   なぜルミナスは、国民には違いない低能力者や無能力者に対して、 それほど過激な行いをするのか。それは、国民の能力低下が、国家の存亡に 直接関わってくるからだ。 
   ルミナスの高度な魔術文明は、国民総魔術士時代に構築され、発展してきた。つまり、 ルミナスの繁栄は、国民全員が一定以上の能力 を持つ魔術士であるという前提をもとに成り立っているもの。国家として 生活・文化水準を維持 するため、ルミナスは本来保護すべき社会的弱者を 切り捨てる道を選んだ。 
   たとえ全く迫害などされなくても、低能力者や無能力者たちは、結局ルミナスに いられなかっただろう。日常生活に欠かせない道具 や設備さえ、ほとんどが魔力をエネルギー源にしている からだ。魔力なしでは夜間の照明にも困るような有様ありさまでは、魔術士以外の者は非常に暮らしにくい。いや、 とても暮らしていけない。 
   ルミナスとは、まさに「魔術士の、魔術士による、魔術士のための王国」――
   そんな国に生きる人々は、魔力を失うことを極端に恐れ、いつしか魔術士の資質に 異常なまでに固執こしゅうするようになっていた。特に貴族社会では、貴族たる資格を得る最重要条件として 魔力の高さが挙げられているため、血統への執着が一層強い。 
   ローレル家の兄妹を襲った残酷な運命……そして至聖殿内の 聖婚室の存在は、明らかにそうした現実を反映している。 
  (だが……ローレル家は、もはや絶えて久しい家だ)
   大貴族の一員として歴史に名を残すローレル家も、今は亡い。今から100年近く前に、 家系は完全に断絶してしまっているはずだ。 
  (エイシアの呪いのせい、なのか……? そうかもな……)
   そんなことを考えていると、ローゼンは背筋に寒気を感じた。
   この部屋が、いつ頃にできたのかは定かではない。
   しかし、少なくとも120年以上前から存在していたことは、ほぼ確かと言える。
   これまでに閉じ込められたのは、エイシアたちだけではないだろう。そして、 自殺したのもエイシアたちだけとは限らない。 
   何組もの男女が、ここで不本意な結婚を強いられて、 苦悩や葛藤の果てに死んでいった可能性がある。幾多の血が、この部屋で流されてきた可能性が……。 
   そう思い至り、戦慄せんりつを覚えた瞬間、不意に 視界が真っ赤に――鮮血の色に染まった。
  (……!)
   刹那の幻覚。まばたきすると視界は正常に戻ったが、心臓の鼓動は速まった。
   自然と荒くなる息を抑えながら、床に片膝をつく。
  (はは……意外と、俺の両親の名前も、この部屋のどっかに刻んで あったりして……) 
   笑えない冗談を思いついて、ローゼンは脳裏で無理やり笑った。
   聖婚室送りにはされていないとしても、結婚を強要されたことは 変わりないだろう。 
   ルミナスでは当たり前の、愛のない結婚。愛のない結婚で生じるのは、 愛のない夫婦。愛のない夫婦から生まれた子供 が、まともに愛されるはずはない。幼い頃、愛情のように 感じられたのは、全て『先祖返り』の能力に対する期待の副産物に過ぎなかった。 
  (……わかっていながら奴らのわなに引っかかるんだから、 まったく、どうかしてるよなぁ)
   冷え切った夫婦関係に、冷え切った親子関係。家族という名目で同居しているだけの、 空虚な他人。それでもなお、自分は何かにすがりたかったのか。 
   いっそのこと、外の世界のことなど何も知らなければ……何もかも 当たり前のことだと割り切っていれば、苦しまずに済んだのだ。 
  『満ち欠ける娘』との接触は、希望の始まりであると同時に 苦痛の始まりでもあった。
  (メイリーズにとっても、似たようなもの、だったのか……?)
   ――自分と彼女は似ている。
   ローゼンは、唐突に確信した。
   性格や価値観は正反対かもしれないが、ある面では非常に似ている。単純に、 似た理想を抱いているという意味ではなく、もっと深い部分で……。 
  『満ち欠ける娘』によって、ルミナスの堅牢な殻には亀裂ができ、 新しい風が吹き込んできた。自分やメイリーズは、その風が んでくる新鮮な空気を吸い込んでしまったがゆえに、 この国のよどんだ空気では満足できなくなってしまったのだ。 
   息苦しくて仕方ないから、どうにか楽になろうとして、あがき、 もがいている。そこは全く同じ。ただ、あがき方が異なるだけ。 
   どちらが現実主義者で、どちらが夢想家かなのかは、どうでもいいこと。実のところは 同類なのだ。ならば、対立などせずに、うまく協調する方法があるはず。 
   ところが、なぜか今も、自分と彼女の意思 はこうから対立している。彼女が 強く死を望む一方で、自分は―― 
  (絶対に死にたくない)
   メイリーズの意思を知ったことで、今や相反する自分の意思は 浮き彫りになっている。 
   自分には目標がある。生きて、この国を変えるという目標が。こんな場所で 死ぬという人生の結末を迎えるために生まれてきたわけではない。 
   たとえ無力でも、精一杯あがいてみたいのだ。あがくための手段も既に 見つけているというのに、ここで死を選べば、今までの苦労がふいになってしまう。 
  (……メイリーズも、死なせたくはない)
   それもまた、正直な気持ちだった。どういうわけか、その気持ちは自分の 心の中で急速に膨らみつつある。 
   二人でここを出たい。そのためには――
   ローゼンは、すっと目を細めて、まだ泣きやまない少女を見つめた。
   覚悟を決めねばならないときが、近づいているようだった。