題字

―恋人未満たちの初夜―

Chapter4

  「……食事です」
   唐突に、か細い声が、魔印の刻まれた扉の向こうで響いた。
   ローゼンは、はっとして顔を上げた。素早く立ち上がって、扉のほうに歩み寄る。
  「誰だ?」
   短く誰何すいかすると、抑揚に欠けた女の声音で答えが返ってきた。
  「わたくしは女神に仕える者。目覚めたのですね、ローゼン・テンペスト。それでは、 既に聖婚は為されたのですか?」 
  「為されるわけがあるか、阿呆」
   相手は至聖殿の巫女だと判明したが、ローゼンは頓着とんちゃくせずに、 言いたいことを言った。 
  「そう、まだなのですね。一刻も早く、女神に祝福された正しき婚姻を 果たされることを望みます」 
   巫女は、乱暴な物言いに怒ることも怯むこともなく、 ただただ単調に言葉をつむいだ。
   ローゼンは、そんな巫女の態度に応じ、できる限り感情を抑えて反論した。
  「どこが正しいんだよ、どこが。男女を監禁して関係を強要するなんて、 異常な犯罪以外の何物でもないだろ」 
  「わたくしたちは月守りの民の末裔。その誇りを胸に、 神聖な血脈を守っていかねばなりません。聖地ルミナスの民は、正しき婚姻によりて、 その血を び、その血の聖性を守るべし……これは女神のご意思です。女神の 意に った正しき婚姻のみが、 ルミナスをさらなる繁栄に導くことができるのですよ」 
   巫女は聖典の一節をそのまま引用して、ローゼンをさとした。
  「さらなる繁栄? 無理だな。魔術を全ての基盤とし、魔術士のためだけに存在する 文明に、これ以上の繁栄はない。じきに、他の国に追いつかれて追い越される」 
  「メイリーズ・レスティとの聖婚を……女神の与えたもう運命を 受け容れなさい。逆らうのは、愚かな振る舞いとしか言えません」 
  「女神は人間に運命を押し付けたりはしない。ただ月の光と共に地上に振りまく だけだ。たまにあみのごとく避け難いものもあるにしろ、基本的に運命とは自ら選び取るもの」 
   ローゼンは、姿の見えない巫女に対して、諭し返すつもりで扉越しに告げた。
  「……女神の与えたもう運命を受け容れなさい」
  「しかし、どうしても自分で選ぶことのできない運命もある。それは、どの時代に、 どの国に生まれるかということと、 んな親の子として生まれるかということ。そればかりは 運命の女神の采配さいはいゆだねられる。まさに運次第ってわけだ……」 
   ローゼンは、腹に溜まった毒気をありったけ込めて、痛烈な皮肉を吐き出した。
  「幸い、俺は素晴らしい時代、素晴らしい国で、素晴らしい両親の間に生まれたから、 今この素晴らしい部屋において素晴 らしい時を過ごしてる。こんな貴重な体験ができるのも 定められた運命の賜物たまもの、 俺を退屈しない人生の舞台に上げてくれた女神に感謝 してるよ。まあ、もし選べたなら、もうちょっと全体的に 平凡な設定の脚本でも良かったんだが」 
   巫女は、皮肉を皮肉として受け取らなかったのか、 それとも毒の通じない不動の精神の持ち主なのか、少しも反応しなかった。まともな議論どころか、 噛み合ったり取りすらする気がないらしく、同じ台詞を繰り返す。 
  「……女神の与えたもう運命を受け容れなさい」
   まるで、可愛げのないオウムか、魔動器仕掛けの人形である。
   ローゼンは、会話の成立を期待しないで、自分自身に言い聞かせるように答えた。
  「受け容れるよ。もう、とっくの昔に受け容れてる。この時代、この国に、 ああいう親の子供として生まれたことが俺の運命なら、俺には された道がある。そして俺は…… その道を進むと決めたんだ」 
  「……食事はここに置いておきます。迷える若き者たちに、 女神の導きがあらんことを。聖婚が為された暁には、この扉の『聖母聖別の刻印』が 祝福を与えるでしょう」 
   最後まで一方的な台詞で締めくくると、巫女の気配は遠ざかっていった。


   言葉は通じるのに意志の疎通はできないも同然の相手と接したことで、 ローゼンは強い虚脱感に襲われた。 
   しかし、どうにか気を取り直して、魔印の扉の脇にある壁の隙間に目を向ける。
   巫女が去る直前、この隙間の奥で、カシャン、という物音がした。どうも、 ここが食事の受け渡し口になっているらしい。 
   腰あたりの高さに位置する横長の隙間をのぞいてみると、 確かに食器の載ったトレイが見えた。その向こうには、壁の裏側から取り付けられた があるので、 部屋の外の様子をうかがい知ることはできない。構造や見た目は、少し郵便受けに似ている。 
   ローゼンは隙間に手を入れて、置かれていたトレイを引き出した。
   トレイの上に並んでいたのは、二人ぶんのパンと、果物やチーズなど、 ごく簡素な食事だった。 
  (正確な時刻の判断は無理だが……このメニューだと、朝食か?)
   ここに入れられてから、あるいは誕生日に意識を失ってから、 どのくらい経っているのか推測するのは困難だった。 
   テンペスト家の屋敷のある王都ティアンから、至聖殿のある聖都シャールまでは、 魔動車で二時間余りの距離。ゆえに、これが朝食 だとすると、今がまだ自分の誕生日の翌日の朝であるという 推測もできる。だが、それ以上時間が流れている可能性も捨て切れない。 
   トレイの上には、食事の他にガラスのボトルが二本、横倒しに置かれていた。
   一本の中には透明な液体、もう一本の中には琥珀色の液体が入っている。
  (透明なほうは飲み水だとして……こっちのは何なんだよ。まさか、酒か……?)
   ――怪しい。
   直感的にそう感じて、琥珀色の液体のボトルを手に取り、開けてみる。
   睡眠薬入りの夕食をうっかり口にしてしまったがために、無抵抗で聖婚室送りの憂き目 に遭ったローゼンは、食品に対する注意を強めていた。 
   ふわりと漂う独特の香りからして、中身の液体は、思った通り酒類のようだ。
   添えられていたグラスに注いで、ごく少量を口に含んでみる。
  (……っ!?)
   予想よりも遥かにきついアルコールの味が、最初に味覚を直撃した。
   その後、慎重に舌の上に広げて、より深く味わっていくと、神経を研ぎ澄ませた 舌先にピリッとした刺激がかすかに触れる。 
   甘いような、苦いような、酸っぱいような……複雑で形容し難い、異様な味。酒本来の 持つ味とは明らかに異なるそれを余韻として残す何かが、 くわずかでも 含まれているのは確実である。 
  (やっぱり薬物……エセ媚薬だな、きっと)
   人間ワイトの社会には、本物の媚薬というのは流通していない。とはいえ、 その効果をうたったまがい物ならごまんと 売られている。そして、 い物は紛い物なりに何らかの効能を持っているから 厄介なのだ。 
   たぶん、この酒には、そうした薬物の一種が混入されている。
  (どうせ単純な興奮剤の類だろうけど、アルコールとの相乗効果を狙ってんのか?)
   ローゼンはグラスを置くと、トレイの上の食品を、ひとつひとつ疑惑の目で眺めた。
   薬物が盛られているのは、酒だけとは限らない。ほとんど味のしないものもあり、 工夫すれば、どんな食べ物にも仕込むことができるのだ。 
   何が混ぜられているかわからない代物など口に入れたくはない。だが、この部屋にいる 限り、生命を維持するために、最終的には食べざるを得なくなるだろう。 
   自分の正気を奪いかねない薬物を摂取することを想像すると、 ローゼンはぞっとした。 
  (メイリーズと、どうしても正面から話し合う必要がありそうだな……)
   感情的にならず、平静に、真剣に、どうすればいいのか二人で考えなければならない。
   けれども、この状況で、心を乱さずに向き合うことが果たして可能だろうか?
  (無茶だ……)
   ローゼンは、またも暗澹あんたんたる気分になってきた。
   何もかもが悪い夢で、もうすぐ覚めるのならば、どんなにいいか。
   自分らしくない、と自分の中の強靭きょうじんな部分が囁く一方で、 脆弱ぜいじゃくな部分は現状から精神的に逃避して楽になりたいと叫んでいる。 
   もう、全ての苦悩を拒絶し、全ての煩悶はんもんを放棄してしまいたい、と。
   現実に絶望したときの少女の気持ちは、こういう感じだったのかもしれない。
   ローゼンは、今こそメイリーズの心を、その近い場所に立って理解できた気がした。
   絶望的――現在の状況を一言で表すと、そうなる。
   強要された結婚と死以外に、ここから抜け出す方法が見つけられないのだから。
   魔術の行使によって、牢獄自体を破壊することは容易いが、 それは自ら破滅を招く行為だ。至聖殿には、数百人もの巫女や神官 がいるはずで、その全員が極めて優秀な 魔術士と想定される。優秀な魔術士は、当然ながら魔術による戦闘にもけている。 
   そんな巫女や神官たちの手を逃れて、至聖殿の奥から二人で脱出するなど、 まず不可能だ。時代と共に増築や改修が繰り返されてきた建造物は、最高神殿に相応ふさわしい広さと威容を誇り、 中で迷ったら二度と抜け出せない迷宮とも かれている。右往左往しているうちに捕まったら最後、 国の神聖な宝を傷つけたかどで、合法的に処刑されてしまう。 
   ――本当に、どうしようもない。
   つくづく実感する。
   現実を正確に分析すればするほど、楽観の上に成り立つ希望は失われていくのだ。
  (メイリーズの親なんか、どういうつもりで娘をこんな状況に追い込んだんだろうな)
   よもや、自分の娘が死んでも構わないとまでは思っていないはずだ。絶対に ……そうであってほしい。 
   少女の両親は、もしかすると、存外気楽に構えているのかもしれない。
   裕福に生きてきた16の娘が死を選ぶはずはない、選べるわけがない、と高をくくって 決めつけて、さほど深刻には考えていないのだろう。 
  (まあ、うちの場合は、まず間違いなく殺意込みだけどな……)
   ――親に従わない愚息、家にあだなすれ者は要らない。
   ――死ぬなら死ね。いや、むしろ死んでくれ。孫が得られないなら、 養子を迎えるだけ。 
   両親の本音の呟きが、どこからか聞こえてくるようだ。
  (……とにかく! メイリーズと話そう。まず謝って……それから、行動は別にしても、 互いの意志だけでも確認しておかないと……) 
   ローゼンは、勢いよく膝を叩いて立ち上がり、底なしのふちに沈んでいきそうな 精神状態に歯止めをかけた。 
   ベッドを離れて、そろそろと部屋の隅の少女に近づく。
  「メイリーズ……」
   そっと呼びかけてみたが、返事はない。
  「メイリーズ?」
   一瞬、無視されたのかと思った。だが、さらに近寄っていくと、 呼吸の調子などから、眠っているらしいと判断できた。 
  「また寝てるのか……?」
   道理で、巫女が来たときも無反応だったはずだ。
   ローゼンは呼びかけを続けながら、メイリーズの身体を揺さぶった。
   少女は、吐息と共に小さな呻きを漏らしはしたが、すぐに目覚める様子はなかった。
  (……仕方ないな。寝かせてやろう)
   ローゼンは、思い切って少女を毛布ごと抱き上げた。そのままベッドまで運ぶと、 少女の身体を天蓋てんがいの垂れ布の中に入れて、マットレスの中央に横たわらせる。 
   そして自分は、さっきまでメイリーズのいたあたりに座り込み、 彼女がしたように壁に寄り掛かった。 
   こうして眺めると、この部屋は古びているのにちりほこりが落ちておらず、 不気味なくらい清潔で、冷え冷えとしている。そんな空間の中で硬い壁や床に身体からだを預けていると、 少女の温もりや柔らかさが、やけに後を引いて腕に残った。 
  (なあ、メイリーズ。おまえはこれからどうしたい? おまえの意思は……)
   眠る相手に無言で問いかけると、不意に、先刻の場景が鮮やかに脳裏に浮かんだ。

   ――情けない虜囚の身で、『ルミナスを変えてみせる』なんて、 よく言えるものだわ。今このとき自分を取り巻く、狭い現実すら変えられないくせに……! 

  (……もっともな批判だよな)
   自分自身とクラスメイトの少女一人さえ、社会の呪縛から解き放つことができず にいる身では、どんなに威勢のいいことを言っても妄想や 大言壮語にしか聞こえないだろう。 
   自分は彼女の目に、虚栄心の塊のような口先男として映っているのかもしれない。

   ――あなたみたいな人に犯されるくらいなら、迷わず死んでやる!!

   もしも、この台詞が正真正銘彼女の本音で、ひるがえることがないとしたら、 もはや自分たち二人に未来はない。 
  (俺は、無力だ……)
   これまでの人生で、こんなにも思い知らされたことはない。
   しかし、その一方で、さっき巫女に向かって最後に投げつけた言葉は、 紛れもなく自分の本音として今なお胸に刻まれているものだ。 
   自分とメイリーズ、どちらが夢想家でどちらが現実主義者かはさておき、 いずれにしろ相反する性質を持つ人間である以上、互いの意思は衝突するしかないのではないか―― 
  (どうすればいい? どうすれば、最良の結論を出せる……?)
   虚空を睨み据え、おのれの心中を模索したところで、何も見えてはこない。
  (……やめよう)
   ぐるぐると回り続ける、終わりのない思考の渦には、もううんざりだ。
   自分一人であれこれ思い悩んでいても始まらないのだから、相手が起きるまで、 余計なエネルギーは使わないほうがいい。 
   ローゼンは食事に手を付けることもなく、目を閉じて、 微睡まどろみに意識を浸していった。 


   メイリーズは、紗の垂れ布に囲まれたマットレスの上で目覚めた。
  (……! わたし……いつの間に……?)
   半身を起こして、薄い布越しに周囲を見回す。
  (ローゼン……)
   自分が座り込んだはずの床の上には、うつむいて片膝を抱えている 少年の姿があった。 
   なぜか互いの位置が入れ替わっている。
  (わたしが眠ってたから、運んでくれたの……?)
   自分がかぶっていた毛布は、今も変わらず身体を覆っている。一方、 ローゼンは、着ていた服以外に何も身につけることなく、寒々しい部屋の片隅で じっとしていた。 
  (あんなにいろいろ、悪口ばかり言ったのに……)
   本当に少しも怒ってはいないのだろうか?
  (……やっぱり、謝ろうかな……? そうよ……謝らなきゃ……)
   気分を害すようなことを最初に言ったのは彼かもしれないが、言い過ぎたのは 明らかに自分のほうだ。自分から謝罪すれば、きっと彼は受け入れてくれるだろう。 
   二人きりで閉じ込められているのに、会話もできない状態が続くのは、苦しい。
  「……ローゼン」
   ベッドに座ったまま、小声で名前を読んでみる。
   しかし、返事はない。
  (眠ってるのね……)
   こんな場所では、することが何もないから――特に一人では、 どうしようもないから、睡眠に時間を費やすのは賢い選択だ。 
   ローゼンが床で寝て、自分がベッドの上にいるのは悪い気がしたが、 自分の力では彼を持ち上げることなどできないし、起こしてしまうだけになるだろう。 
  (じゃあ、謝るのは、もう少ししてから……)
   メイリーズは、再びマットレスに身体を倒した。仰向けに横たわり、 ぼんやりと上方を眺める。 
  (……でも……謝った後で、わたしはいったい、どうすればいいの?)
   最も根本的な問題なのに、ここに来てから一度もまともに考えていなかった ような気がする。闇雲やみくもな不安や恐怖がずっと頭の中を支配 していたので、自分はどう行動すべきかという 前向きな思考をする余裕がなかったのだ。 
  (どう、しよう……わたし……どうしたい? 本気で死にたいと 思ってる? マリアベルさんのように……) 
   メイリーズは自問自答しつつ、以前からあこがれていた乙女に思いを馳せた。
   その乙女の名はマリアベル・ランスリット。大変な家出事件を引き起こしたことで 有名な人物である。 
   彼女は、ルミナスの大貴族ランスリット家の娘だった。
   ランスリット家は、極めて長い歴史を有し、現在に至るまで高い地位を保ち、 政治的にも非常に強い権力を持つ家柄だ。 
   そんな名家に生まれたにもかかわらず、マリアベルは今から20年ほど前、 父親であるランスリット家当主レドモントに逆らって家を飛び出した。 
   まだ少女だった彼女は、公的な名目でルミナスを訪れていたサーヴェクト 使節団の一員と、恋に落ちていたのだ。それで彼女は、あろうことか、彼が帰国 する際に家を捨てて、 自分もサーヴェクトについて行った。 
   その行為は、大貴族の一人娘としては許容されることではなく、 ルミナス国民としては安全すら保証されないことだった。 
   東の隣国サーヴェクトは、かつて十分な魔力を持たないというだけの理由で 非国民扱いされ、ルミナスを追い出された人々が中心 となって建てた国なのだ。建国から数十年後、 サーヴェクトが国家として力をつけてくると、ルミナスは新しい国の台頭 を認めずに戦争まで仕掛けた。その戦争は、 周辺諸国からの批判の高まりなどを受けて勝敗が曖昧あいまいなまま休戦となったが、双方に甚大な損害を与え、 悲惨な結果をもたらした。 
   それから約60年経った今なお、ルミナスに対するサーヴェクトの国民感情は 最悪だと言われている。ルミナスとサーヴェクトの間には、いまだに正式 な国交はなく、休戦協定の更新を兼ねた 平和使節の交流が辛うじて行われているのみだ。 
   ルミナスの魔術士にとって、因縁いんねんの深い隣国サーヴェクトに個人的に 足を踏み入れるということは、自殺行為に近い。マリアベルは、恋人と一緒 にいたい一心で、それをやって のけた。ところが彼女は、わずか二年後にルミナスに ってきた。1才になるかならないかの 小さな赤子を連れて……。 
   彼女は、素性を隠して恋人の母国であるサーヴェクトで結婚し、 子供も設けたのだが、幸せな生活は伴侶の突然の死によって呆気あっけなく幕を下ろしてしまった。サーヴェクトで 夫の支えなしに生きていくすべを見出せなかった彼女は、 い息子を連れて、帰国するしかなかったのだ。 
   一度は捨てた母国に舞い戻ったマリアベルを待っていたのは、 父親からの冷たい仕打ちだった。レドモントは、家と国を裏切った娘を許さず、勘当 を 言い渡した。しかし、そのとき、彼女の連れていた赤子だけは引き取り、家の唯一の跡継 ぎとして 手元に置くことを決めた。こうして、マリアベルは帰る家を失い、息子とも引き離された。 
   行き場をなくした彼女は、しばらくの間、叔母に当たる未来さき読みの巫女ミラルダのいる 望界殿に身を寄せていた。だが―― 
   ある夜、彼女は叔母の目を盗んで望界殿を抜け出し、近くの崖から身を投げた。
   ――20歳にも満たない若さでの、自殺。
   それが、この家出事件の結末である。
   メイリーズには、ランスリット家との直接の縁などない。にもかかわらず、 一連の事情を知っているのには訳がある。 
   衝撃的な悲劇の全容は、一冊の本を通じて、社会に広まったのだ。
   マリアベルの死から、およそ三年後、『満ち欠ける娘』と題された長編小説が ルミナスで出版された。 
   この小説は、あくまでも創作作品として世に出され、登場人物の名前や舞台となる 国名なども全て架空のものである。とはいえ、その内容から判断 して、これはランスリット家の娘の引き起こした 事件を題材にしているのではないか、と誰かが囁き始めると、その説はまたたく間に世間に流布し、 定着した。『満ち欠ける娘』は、フィクションを ったノンフィクションであると、 多くの人々が確信するようになった。 
   この小説の作者は不明だ。マリアベルが死ぬ直前に共に過ごしたミラルダ から何者かが話を聞き出して書いた、という説が有力なものの、 しいことは謎に包まれている。作者が判明すれば、 厳罰を下されるのは必至だから、名乗り出ないのも無理はない。 
   恋愛小説云々うんぬん以前に、スキャンダラスな内容である『満ち欠ける娘』は、 ランスリット家当主の怒りの声もあって、すぐさま禁書に指定された。だが、それは人々 の口と記憶を 封じるには手遅れだった。書店から本が消えても、物語は密やかに語られ続けた。 
   メイリーズは、今では幻となった『満ち欠ける娘』の初版本を所有している。何らか のルートで外国に流出していたものを、商人を通じて逆輸入したのだ。 
   とても高価だったが、それだけの価値はあった。外国製のどんな恋愛小説よりも、 『満ち欠ける娘』は、心に響き、消えない余韻を残す。気取らない文体でつづられた物語は、 時に生々しくさえあるが、それが一層の現実味を感じさせる。 
   メイリーズが、自分の秘密コレクションの中で一番気に入っているのは、 他ならぬ『満ち欠ける娘』だ。しかし、あいにく装丁 が偽装本ではないので、ここに持ち込むことはできず、 泣く泣く自室に隠して置いてきたのだった。 
  (マリアベルさんは、自分の望む生き方のためにルミナスを捨てて…… 自分の望む生き方を妨げたルミナスに抗議するために命を捨てた……) 
   激しくもはかない人生を送った「悲劇の乙女」に、メイリーズは 憧憬どうけいいだいていた。
   本を開くたびに、自分もあんなふうに生きられたら……と思い、 そう思うたびに、勇気も行動力もない自分をかえりみて、情けなさに落ち込んできた。 
  (現実を変えるだけの力はなくても……せめて、死によって最後に自分の意思を 示すことができれば……生きてきた意味はあるはず、よね……) 
   これは、憧れのマリアベルに少しでも近づく絶好の機会なのかもしれない。
   ――やはり、自殺してみせるべき?
   両親の意思とルミナスの意思に対して反逆する、唯一の手段であるはずの、死。
   逆に、結婚は、両親の意志とルミナスの意思に対する屈服を意味する。
    (わたしが死んだら、お父様やお母様は泣いてくれるかしら……?)
   ふと、そんな疑問が頭をよぎって、胸がふさがる心地がした。決して 泣きたいとは思わないのに、勝手に両目の奥が熱を帯びてくる。 
  (……駄目よ。感傷や自己憐憫に浸ってたって、何も進歩はないんだから……!)
   メイリーズは自分をいましめると、凪いだ心境になって、改めて死ぬ決意を固めた。
   最初で最後の一歩――何もできない自分から、前進するために。
  (ローゼンに、自分の口で謝りたかったけど……死ぬなら、今のうちかもしれないわ)
   自分の死は、彼にとって良い方向に働く可能性が大きい。それが何よりの謝罪だ。
   メイリーズは、わずかに明るい気分になって、ベッドから起き上がった。
   きちんとした遺書を残したいが、残念なことに、この部屋には筆記用具すらない。
   鏡台などの家具の中身は、部屋に来てすぐの頃に、一通り確認済みだ。引出しに 入っているのは、ローブの着替えやタオルくらいで、ほとんど空っぽだった。 
   メイリーズは少々思案した末、自分の使っていた毛布を取って、 そっとローゼンの身体に掛けた。 
  (お願い、これでわかって……。あなたを嫌悪して死んだわけじゃないってこと……)
   この毛布と、偽装禁書が、遺書の代わりだ。
   後は、どうやって死ぬかだけが問題だが――
   とりあえず、布やタオルでひもは作れそうなので、首を吊るのが妥当だろうか。
   だが、できた紐をうまく引っ掛けられるような場所が、この部屋にあるのかどうか。
   メイリーズは再びベッドに戻り、立ったままマットレスに上った。
   天蓋を見上げて、外側や内側のどこかに、紐を掛けられそうな構造がないか探す。
   ところが、適切な構造は、なかなか見つからない。
  (……ここでは、首吊りは難しいかもしれないわ。でも、魔術での自殺なんか 成功させる自信はないし……) 
   行き詰まりを感じながら、メイリーズは視線をさ迷わせた。
   そのとき――
  (……? あれ、何かしら……?)
   天蓋の内側の、目立たないところに、何か細かい傷のようなものを見つけた。
   顔を近づけると、それは単なる傷ではなく、木製の天蓋に 刻まれた文字の羅列だった。
  (何か、書いてある……?)
   メイリーズは、吸い寄せられるように文字を凝視して、文章を目で追った。
  (……!?)
   文章の内容を理解した瞬間、喉の奥から自然と声なき悲鳴が漏れた。
   全身が激しく震え出して、とても立っていられなくなり、マットレスにくずおれる。
   メイリーズは、ベッドの上に膝をついたまま、しばらく放心していた。
   しかし、この発見が自分の意思を助けるものだと認識すると、おもむろに ベッドから降りて鏡台の前に立った。 
   遠い昔にのこされた思いの欠片かけらを、受け取るために……。