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題字

―恋人未満たちの初夜―

Chapter2

   ローゼンの顔見知りである少女は、短い悲鳴を上げて息をんだかと思うと、 いきなり床から立ち上がり、逃げるように部屋の隅に移動した。 
  「い、いつ? いつ起きたの? いつから起きてたの?」
   やけに不安げな声で問いかけてくる。
  「起きたのは、ついさっきだよ。それから、おまえが寝てる間、 別に俺は何もしてない。寒そうに見えたから、毛布はかけたけどな」 
  「あ……」
   少女は、床に落ちている毛布に目を向けた。彼女が 立ち上がった拍子ひょうしに肩から滑り落ちたものだ。 
  「あ、ありがとう……」
   おずおずと礼を言う一方で、少女は思い出したかのように慌てて 胸元を腕で隠し、床にしゃがみこんだ。身体の微妙な線まで透けて 見えかねない服を気にしているようだ。 
  「……とりあえず、これでも巻いてろ。その格好じゃ、下手へたすると風邪引く」
   ローゼンは、毛布を拾って少女のほうへ放り投げた。少女は、 また小さく礼を言って、毛布を身体に巻きつけた。 
  「少し話がしたい。俺は一言の説明も受けないで、親に眠らされた揚げ句、 こんな部屋に放り込まれたんだ。ここがどこなのかとか、知ってたら教えてくれよ」 
   ローゼンは、ベッドの隅に腰を下ろすと、少女に向かって手招きした。
  「おまえが嫌がるようなことはしないから、とにかく、こっちに来て座ってくれ」
   まだ逡巡しゅんじゅんの素振りを見せる少女に、さらに呼びかける。
  「仮にもクラスメイトだろ? そこまで警戒されると、さすがに傷つくなぁ」
  「……わかったわ」
   少女は、わずかに顔を強張らせながらもうなずき、部屋にひとつきりのベッドに腰掛けた。
   ただし、ローゼンからは十分に距離を取って。
   この状況では当然と言えば当然の態度なので、ローゼンは特に気にすることなく、 前を向いたまま少女に話しかけた。 
  「おまえって確か……レスティ家令嬢だったよな? それで名前は……エイリーン?」
  「違うわ」
  「あれ……? えーと、メアリーゼ、だっけ?」
  「違うわよ、ローゼン・テンペスト。テンペスト家のご子息様」
   冷ややかに聞こえる声で切り返されて、ローゼンは気まずくなった。
  「……悪い。名前、何だった?」
   ローゼンが尋ねると、その声に含まれていた狼狽ろうばいがおかしかったのか、 意外にも少女はくすり、と笑った。 
  「……もう、ひどい人ね。『仮にもクラスメイト』なのに」
   なじる言葉にも、あまり刺々とげとげしさは感じられない。しかし――
  「でも、仕方ないわよね。わたしは、あなたみたいに目立つ存在じゃないから……」
  (……これって、嫌味……だよな? 絶対そうだよな? たぶん……)
   柔らかくぶつけられた台詞の意図を判断しかねて、ローゼンは自問自答した。
   目立ち方にもいろいろある。少女の言った「目立つ存在」というのは、十中八九、 悪い意味で目立っている、ということだろう。そういう自覚は十分ある。 
  「わたしはメイリーズ・レスティ。ヴェスル・アカデミーの4年生で、 一応あなたと同じクラスに所属してるわ」 
   少女――メイリーズは、石の壁を見つめたまま、自分から自己紹介した。
  「メイリーズ、か。そういや、そうだったよな」
   ローゼンは、身体の向きを変えずに相手の横顔を盗み見た。
   メイリーズは、淡い金髪に薄緑の瞳で、ふんわりと優しげな印象の 可愛らしい顔立ちをしている。ややおっとりとした雰囲気を漂わせており、少なくとも見た目は おとなしげな少女 である。名前がうろ覚えだったのは、クラス内で目立つ  ような存在ではないせいだ。普通の 貴族の娘として、特に変わったところは―― 
  (なくはない、か。何せ、偽装禁書の持ち主だし、その中身がアレだしなぁ……)
   はからずも、クラスメイトの知られざる一面に触れてしまった。
  「……で、メイリーズ。おまえは、現在の状況を取り巻く事情を、全部知ってるのか?」
  「え、ええ。だいたいは……」
   ローゼンが問うと、にわかにメイリーズの表情が かげった。まぶたなかば伏せられ、 視線が床に落とされる。 
  「あなたは、本当に何も言われてないの? わたしたちが、ここで何をすべきかも?」
  「ああ……」
   ローゼンが短く答えると、部屋には静寂が降りた。
   メイリーズの沈黙は、長く続いた。しかし、その沈黙こそが、 心の内の激しい動揺を何より雄弁にローゼンに伝えた。 
   少女の細い指が、膝の上でかすかに震えている。
  「……あ、あの……あのね……わ、わたしたち……わたし……あなたと……」
   かすれた声が、途切れ途切れに響く。
  「もういい、わかった。それ以上言わなくてもいい」
   あえぐように、苦しげに吐き出される言葉の断片を、ローゼンは鋭くさえぎった。
  (女が口にするには酷なことか……)
   配慮が足りなかったと反省しながら、ローゼンはメイリーズに代わって口を開いた。
  「ここでやるべきことっていうのは、要するに、結婚だろ? いや、 結婚なんて言葉じゃ生温なまぬるいな。有りていに言って事実婚。さらに精密に言うと、子作り」 
   ローゼンが淡々と言ってのけると、メイリーズは驚愕をあらわにした。
  「ど、どうしてわかったの? わたしまだ、何も説明してないのに」
   本気で驚いているのがわかるだけに、ローゼンは呆れを抑えられず、思わず呻いた。
  「あーのーなぁ、この状況で、他に何があるっていうんだ? わからない奴がいたら、 そいつは相当な阿呆か相当無知なお子様だ。部屋にベッドがひとつしかないし、しかも に巨大だし、おまえはやけに薄着だし、あからさまに怯えてるし、 明は変に毒々しいし、おまけに俺は意識 を失う直前に16になったばっかなんだよ! わかるか、この意味が?」 
  「あら、あなたの誕生日も春だったの? 偶然ね、私は、ちょうど半月くらい前が 誕生日だったのよ。16歳、おめでとう」 
   メイリーズは、ベッドに座ってから初めてまともにこちらを向くと、小さく微笑んだ。
  「ああ、ありがとう……って、そうじゃない! そうじゃないだろ!?」
   ローゼンは、少女に対して礼を返してしまってから我に返った。
  (天然か? これは天然なのか?! それとも……)
   意識的にしろ、無意識にしろ、露骨な話題を避けようとしている?
  「……俺が言おうとしたのは、俺が16でおまえも16なら、 一応正式な婚姻関係が結べるってことだよ。俺は生まれてから16年間両親の子供やってんだ。 奴らの考えそうなことは大抵 読める。とはいえ今回は、 まんまとハメられて、ここにいるわけだが……」 
   ローゼンは、やるせない心境を平静に近づけるために、一呼吸置いてから先を続けた。
  どうしようもない・・・・・・・・息子がやっとのことで大人になったから、 すぐにでも結婚させて孫を作らせようって腹なんだろ。自分たちの手駒にできる、 できのいい・・・・・孫をな」 
   ルミナスでは男女共に16歳に達すると、身体的には成熟したと見なされ、 結婚も正式にできるようになる。ただし、「成人」と言われるのは18歳を過ぎてからで、貴族 社会においても、 何らかの役職を持って政治に参加できるのは18からである。 
   そうした法と慣習を踏まえた上で、満16歳になるやいなや、この仕打ちとは……まさしく速攻、 恐るべき手回しの早さだ。 
  (きっとずいぶん前から、俺の誕生日をてぐすねひいて待ち焦がれてやがったんだろう)
   両親にとっては、待ちに待った日だったのだ。いつになく機嫌が良かったのも当然だ。
   ローゼンは、自分の洞察力の鈍さに、改めて歯噛みした。
  (それにしても、よりによって、相手がメイリーズとは……)
   彼女のことは嫌いではない。が、特別に好きでもない。クラスメイトと言っても親しい交流があるわけではなく、ただ互いに顔を知っているというだけの間柄。 
   中途半端に面識があるぶん、かえって気まずさは増してしまう。こんな状況に おちいるのなら、いっそのこと全く見知らぬ他人同士のほうがましだ。 
   しかし、自分の相手にわざわざメイリーズが選ばれたことに、理由がないはずはない。
  「……なあ、メイリーズ。おまえ、『先祖返り』の傾向があるほうだったっけか?」
   しばらく黙ってこちらを見つめていた少女に対し、 ローゼンはおもむろにいた。
  「ええ……。お父様やお母様に比べて、多少魔力の値は高いわ」
  「そうか。なるほどな……」
   思った通りの回答に、ローゼンは納得した。
   魔術用語としての『先祖返り』とは、子供がその両親よりも高い資質を持って生まれる現象を指す。子供の資質というのは、親と同等か、親より多少劣ってしまうのが普通 なので、『先祖返り』の子供は非常に珍重されるのだ。 
  「……あなたも、でしょ?」
   メイリーズから問い返されて、ローゼンは頷いた。
  「ああ、そうだ。確か、うちのクラスの連中の半分くらいは『先祖返り』だったろ?」
   ルミナスにおける教育機関としては、最高クラスの歴史と権威を有する名門 ヴェスル・アカデミー。ローゼンやメイリーズの所属しているクラスは、そのヴェスル・アカデミーの でも特に優秀な学生ばかりが集められた、いわばエリートクラスだ。 
   優秀な学生というのは、すなわち優れた資質に恵まれた学生のこと。エリート クラスに『先祖返り』の子供たちが多く集まるのは、必然的な結果とも言える。 
  「……『先祖返り』と『先祖返り』とを掛け合わせれば、より強力な効果が期待できる、か。単純すぎる思考だな。けど、それだけに理解はしやすい」 
   ローゼンは溜め息をついた。
  「メイリーズ。おまえは、両親から何て言われて来たんだ? まさか 自分から望んだわけじゃないよな。どうせ、何から何まで無理やりだったんだろ」 
  「え、ええ。まあ……そうだけど……」
   メイリーズは、なぜか歯切れの悪い返事をして、視線を宙に泳がせた。顔つき には迷いが表れていたが、やがて彼女は、何かを決心したかのように唇を引き結んだ。 
   深刻な翳を宿した瞳をこちらに向けて、ゆっくりと口を開く。
  「……あのね、ローゼン。落ち着いて、聞いてくれる?」
   ささやくように小さな声。口調からは、 躊躇ちゅうちょが完全には消えていない。
  「わたし……直接言われたわけではないけれど……偶然、こっそり、聞いてしまったの」
  「聞いたって、何を?」
   メイリーズの様子に尋常ではないものを感じて、ローゼンは身構えた。
  「……あなたの家と、わたしの家の間で行われた、取引のこと」
  「取引……?」
  「そう。レスティ家はね……テンペスト家と姻戚関係を結ぶために、 あなたを買ったの。5000万という大金で」 
   ローゼンは、頭の中で情報を整理するために一瞬沈黙した。だが、 驚愕を覚えることはなく、むしろ陳腐な展開に心中で苦笑した。 
  「へえ? 5000万とは、俺も結構な値段じゃないか。うちなんかと姻戚関係を結びたいだなんて、レスティ家もたいがい奇特な物好きだな」 
  「物好き? そんなことはないと思うわ。テンペスト家は、由緒ある格式高い家柄。レスティ家のような、歴史の浅い成り上がりの家とは違う、生粋きっすいの貴族だもの」 
  「無駄に高いのは格式だけだ、メイリーズ。100年前ならいざ知らず、今のテンペスト家の政治的な地位は低い。ろくに権力も財力もなく、古い屋敷を持て余している貧乏 貴族に過ぎない。実質的には、財力のあるレスティ家のほうが、よっぽど貴族らしいよ」 
  「そ、それは……」
   メイリーズとて、テンペスト家の現状を知らないわけではないらしく、 すまなさそうにうつむいて口ごもった。 
   テンペスト家の初代は、500年以上前の世界的な争乱の時代、 国を守って戦った英雄的人物である。それ以来、テンペスト家の名はルミナス中に知れわたり、  なくとも100年ほど前までは、大貴族と言っていい地位にあった。 
   しかし、ここ数十年というもの、当主が健康や才覚に恵まれなかったり、 政治的な権力闘争に敗れたり、さらには最も重要な魔術士としての血統まで え気味になったりして、その地位は急降下。今や没落貴族と成り果てている。 
   対照的に、レスティ家は、元は商人の家でありながら近年新しく貴族の地位を得た家柄である。ここ数十年、独占的な外国貿易で大成功してできた富を用いて、国にさまざまな貢献 をしたため、ついには正式に貴族に列せられたのだ。 
  「ごめん、なさい……。いくらお金があるからって、人を物みたいに買うなんて……」
  「おまえが買ったわけじゃないんだから、謝らなくてもいい。 それに、こんなことはよくある話だ。ルミナスに限らず、貴族社会のある場所では、 どこでもやってる」 
   ローゼンは、努めて軽い口調で言うと、さらに詳細な話を相手に求めた。
  「そこらへんの事情、もうちょっと詳しく教えてくれよ。純粋に興味が湧いてきたから」
   メイリーズは、ときおり言葉に詰まりながらも、取引の全容を説明してくれた。
   この取引は、テンペスト家が一人息子の結婚相手を密かに探していたことを きっかけに始まったのだという。候補は何人かいたが、その中でレスティ家はぜひ末娘を テンペスト家に がせたいと考え、メイリーズをローゼンの相手に選ぶなら 大金を払うと申し出た。 
   こうして取引は成立し、両家は互いに望みのものを手に入れたのだ。血統の向上に よる起死回生を狙う斜陽貴族・テンペスト家は、大金と優れた資質の配偶者 を。 外国との貿易で莫大な富を築いた新興貴族・レスティ家は、由緒正しい家との姻戚関係を。 
   いや、正確に言うと、両家は今のところ望みのものを手中に収めては いない。なぜならローゼンとメイリーズはまだ結婚していないし、 結婚に同意してもいないからだ。 
  「……おまえの両親も俺の両親といい勝負だな。新しい貴族、それも元貿易商だったら、 もっと新しい考えを持っててもよさそうなもんなのに。意外だ……」 
   ローゼンは、胸に苦い気持ちが広がるのを感じながら、呟いた。
  「意外……? そう? わたしにはよくわからない。お父様やお母様の考えは……」
   メイリーズは、諦観ていかんにじむ声音で静かに言った。
  「わたしにとっては、あなたの反応のほうが意外よ。どうしてそんなに平然と していられるの? 取引のこと、ショックじゃないの? お金と引き換えにされたのに?」 
  「今更ショックも何もないよ。さっき言ったように、そんなの貴族社会では珍しくもないし、 俺の両親なら、そのくらいの所業は十分やりそうな範疇はんちゅうに入るし……」 
   と、ここまで口にしたところで、逆にメイリーズがショックを受けたように 手で口許くちもとを押さえたので、ローゼンは慌てて咳払いをした。 
  「あー、いや、まあ、うちの親子関係のことはどうでもいいんだ、どうでも。 それより、説明のおかげで事情はよくわかった。そうとわかれば、 こんなとこに長居は無用だ」 
  「……どうするつもり?」
  「出るんだよ、さっさと。今回ばかりは、屋敷に殴り込みくらいじゃ おさまりそうもないけどな……」 
  「……出られないわよ?」
  「ああ、知ってる。変な魔印で出口らしき扉は封印されてるよな。だが、この際、そんなことは気にする必要ないだろ。魔印が作動してることからして、空間に制限は けられてないみたいだし、天井でも壁でもぶち壊して、 々と出て行けばいい。俺たちは、あくまで監禁という犯罪行為の被害者であって、犯罪者は奴らのほうなんだから」 
  「……いいえ、そんなことをすれば、わたしたちが犯罪者だわ」
   いきどおりに任せて息巻いているところへ、少女は妙に冷たい突っ込みばかりを 入れてくる。ローゼンはいらちを隠せずに、声を荒げた。 
  「おいメイリーズ! そんな弱気なことばっか言ってても、始ま……」
   しかし、クラスメイトの少女を叱咤しったする言葉を、最後まで言うことはできなかった。
   彼女の瞳から、透明な液体が零れ落ちるのを目にして、ローゼンは絶句した。
  「……知らないって、幸せなことよね、ローゼン」
  「メイリーズ……?」
  「知らないのは幸せなこと。そう言ったのは誰だったかしら? 本の中の 住人だったかもしれないわ」 
   メイリーズは、一粒の涙を頬に光らせながら、桃色の唇を歪め、声もなく笑った。
   それは、喜びの笑顔でもなぐさめの微笑みでもない。
   ――嘲笑だった。
   柔らかく優しいおもしの少女には、あまりにも似つかわしくない、 凄愴せいそうなる笑み。
  「あなたは何も知らない。状況の本質をまだ理解してない。だからこそ、 そんな前向きなことが言える。いくらでも強気になれる」 
   正視にえないほど痛ましい表情を向けられて、ローゼンはたじろぎ、 思わず目をらした。 
  「俺が……何を知らないっていうんだ?」
  「……ここが、どこかということ」
  「あ……そう言えば……」
   そのことは、一番に気になっていたのに、いまだ確認していなかった。逸らした 視線を戻して、今更ながら改めて問いかける。  
  「……ここは、どこなんだ?」
  「ここはね……」
   少女が答える刹那――ローゼンは、彼女の濡れた双眸そうぼうの中にくらい絶望を見た。
  「至聖殿の、内部よ」


  「至聖殿の、内部……!? ここが、 あの至聖殿の中だっていうのか? まさか……」
   にわかには信じられず、ローゼンは頭を振った。
  「嘘じゃない。ここは、確かに至聖殿の中。それも奥の奥。きっと、 普通の人は入れない中枢部のどこかだと思うわ」 
   メイリーズは、一粒の涙を流したきり、それ以上は取り乱さずに淡々と答えた。
  「どう? ローゼン。この事実を知っても、さっきと同じことが言えるの?」
   ローゼンは返す言葉を見つけられなかった。
   動揺が心を侵蝕し、これまであった余裕を奪い去っていく。
   至聖殿。
   それは、このルミナスの最高神殿。運命の女神を祀る聖所。
   中枢部は建国当時から存在していると言われ、歴史的にも宗教的にも極めて 価値の高い史跡。 
   つまり――わずかな傷を付けただけでも罪に問われかねないほど、貴重な建物。
   壁や天井をぶち壊したりしたら、重罪……いや、それどころでは済まないだろう。
   国の宝を保護する法により、即刻極刑、死罪だ。
   至聖殿がどれだけ尊い聖所か、ということは、この国では5歳の幼児すら 教え込まれて知っている。その聖所をけがす者には、どのような罰が下るのかも。 
  「わかった? ここを魔術で壊すのは、おそらく、いとも簡単なこと。けれども、 それをやったら命がなくなるわ。わたしたちは出られない。逃げられないのよ!」  
   メイリーズの押し殺した叫びは、厳然とした宣告のように ローゼンの上に降ってきて、無知ゆえの大それた意思を押さえ込んだ。 
   さらに彼女は、呆然とするローゼンに対して、容赦なく真実の刃を突きつける。
  「ねえ、この固定魔印、あなたはどんなものか判断 できないでしょ? アカデミーでも、こんなの教わってないものね。でも、わたしにはわかる……」 
   メイリーズは左手で胸元の毛布を押さえながらベッドから離れ、 白く発光している刻印のそばに立って告げた。 
  「この魔印はね、ある有名な魔印の、逆魔印になっているの。わたしは、 その有名な魔印を見たことがあるから、逆魔印の効力も簡単に推測できるというわけ」 
  「俺の知らない、有名な魔印って……何なんだよ?」
   ローゼンは精神力を結集させて、どうにか沈着を装い、尋ねた。
  「……男であるあなたが知らないのは当たり前よ。わたしが言ってるのは、 望界殿の奥にある『処女聖別の刻印』のことだもの」 
  「えーと、それは……あれか? 新たな未来さき読みの巫女を選ぶとき、 試練のひとつとして使われるという?」 
  「そう……」
   メイリーズは短く肯定した。
   ルミナスの王都近辺で最も高い山の上にある望界殿は、 国にただ一人の未来読みの巫女の座所。男子禁制なので、男は見学したくても 入ることを許されないのだ。 
   しかしローゼンも、その望界殿の中に特別な魔印があることくらいは知っている。
  「……『処女聖別の刻印』か。あれもたいがい胡散うさん臭いよなぁ。未来読み の資質が処女であるかどうかに影響されるなんて、実のところ根拠のない迷信なんだよ。未来読みの 巫女 は下界への未練が少しでも少ない女のほうがいいっていう都合 を、もっともらしい宗教的儀式に 仕立ててるだけだろ。俺は……そう思ってる」 
   と、つい自分の考えを反射的に語ってしまってから、ローゼンは、 再びわざとらしい咳払いをする羽目になった。 
   少女が、呆れ半分、恐れ半分と表現できるような複雑な顔をして、 まばたきひとつせず硬直していることに気づいたからだ。 
  「うー、あーっと、今問題にすべきなのは、そこじゃ ないよな。脱線して悪かった。この扉に刻まれてる魔印は、『処女聖別の刻印』の逆魔印。ってことは、 その効力は……」 
   核心にたどり着く寸前、ローゼンは口をつぐんだ。
   思考の先に、あまりにも忌まわしい可能性が見えてきて――
  「そう、この魔印が発揮する効果は……」
   途切れた言葉を引き継ぎ、メイリーズは、右手を扉の刻印に近づけた。
   すると、ローゼンが触れたときと同様に激しい音がして、 少女は身体ごとった。
  「!? おい、大丈夫か?」
  「……大丈夫よ。ねえ、これで証明されたでしょ? わたしが……処女だってこと」
   メイリーズは、こちらを振り返り、うっすらと笑んだ。
  「この魔印……やっぱり、そうなのか」
   望界殿にある『処女聖別の刻印』は、「処女だけが通れる」扉に 刻まれている。目の前にあるのは、その逆魔印。つまり、単純に考えると、「処女は通れない」 扉ということ。 
  「そんな……馬鹿な……」
   ローゼンは愕然として、低く呻いた。『処女聖別の刻印』さえ、 相当阿呆らしいと思っていたのに、ここまで愚かしい魔術がこの世に 存在したということが驚きだった。 
  「この部屋作った奴……絶対正気じゃない……」
  「……あなたって、本当に恐ろしいことばかり言うのね」
   ローゼンの呟きに呼応して、メイリーズが言った。
  「だとしたら、このルミナスという国が狂っているということ になるわ。この『聖婚室』は、たぶん、遥か昔から、ここに存在していた。この部屋ができたのは、 誰か特定 の個人の意思じゃないと思うの。国の意思よ。ルミナスの意思が、 この部屋 を必要としたから、自然と生み出され、実際に使われてきたんだわ……」 
  「ルミナスの意思、か。確かにそうかもな。聖婚室とは、まったくふざけた名称だ」
   ローゼンは、心底からの怒りを込めて吐き捨てた。
   だが、それ以上は何も言うことができなかった。全ての真実を知った今となっては、 現状を打破するための解決策など、ひとつも浮かんでこなかったからだ。 
  「聖婚室送りにされた者の取るべき道は、ふたつ。課された運命を 受け入れて部屋を出るか、課された運命にあらがって死ぬか。そのどちらかよ。晴れて になった女が 部屋から出て行けば、残された夫も出してもらえるけれど、 そうでない限り永久に扉は開かれない」 
   もはや感情を揺らすのにも疲れてしまったのか、メイリーズは、 不思議にいだ無表情で非情なる牢獄の仕組みを述べた。 
  「結婚か、死か。俺たちには、 たったふたつの選択肢しかないと……?」  
   ローゼンの最終確認に、少女は首肯した。
   閉じた空間に二人きりの長い長い時間は、ここから始まった。