題字

―恋人未満たちの初夜―

Prologue

   これは、銀色に輝く月が見下ろす世界での出来事。
   この世界の北大陸東部には、建国2000年近くの歴史を誇る大国がある。
   魔術大国ルミナス。
   この国の聖都シャールには、月にいます運命の女神をまつる神殿 ……「至聖殿しせいでん」が存在する。 
   そこは、ルミナス国民なら誰もが生涯に一度は必ず訪れる聖所であると同時に、 中枢部は建国当初のまま保存されているという貴重な遺跡でもある。 
   しかし、広大な迷宮のように複雑な構造をした至聖殿の内部には、 民に知られざる秘密の部屋があった。 
   忌まわしき、非情なる牢獄が――




Chapter1

   メイリーズ・レスティは、薄暗い部屋の中で、 天蓋てんがい付きの大きなベッドの端に腰掛けていた。 
   赤みを帯びた明かりが、少女の陽光色の髪を妖しい色に染めている。 ようやく女として完成しつつある肢体を覆っているのは、頼りない 生地の白いローブ一枚だけ。 足元は裸足で、装飾品のたぐい一切いっさい身につけていない。 
   メイリーズは、ほとんど無意識のうちにローブの胸元の生地を片手で握り締めたまま、 同じ姿勢で長い間じっとしていた。 
   いったいどのくらいの時間、こうしているのか。
   メイリーズ自身にも、すでに判断できない。
   時計もなく、昼も夜もわからないこの部屋では、時間の感覚が麻痺してしまう。 定期的に運ばれてくる食事が、時間経過を把握するための唯一 の手掛かりだが、 今のメイリーズには、食事の回数を数える余裕さえない。 
  (もう、このまま……いっそ石にでもなってしまえれば、いいのに……)
   メイリーズは、ぼんやりとそんなことを考えながらも、やがて胸元から手を離して、 脇に置いてある小型の本をつかんだ。 
   最初のページを開いて、並んだ文を目で追う。さらに次々とページをめくりながら、 メイリーズは必死に本を読もうとした。 
  「……駄目だめ……やっぱり、読めない……」
   あきらめ悪く、半分くらいまでめくったところで、つぶやいて本を閉じる。
   異国の言葉で書かれているわけではない。
   難解な内容が記されているわけでもない。
   お気に入りの本、大好きな一冊なのだ。
   いつもなら、ページを開いて目を落とした瞬間に、あらゆる現実から自分を解放してくれる。 自分の望む世界を見せてくれる。 
   どんな魔術よりも、素晴らしい道具である。
   なのに、今はその道具も、全く効果を発揮してくれない。
   いや、違う。本が効果を発揮しないのではなく、自分が効果を引き出せないだけ。
   うまく本の中の世界に入っていけないのだ。
   全ては、現在自分を取り巻いている、あまりにも生々しく救いのない現実のせい。
   本をめくっているときは耳をふさぐこともできず、限りなく無音に近い環境においてはかすかな寝息すらも響いて聞こえるから。 
   狭い部屋の中では、気配を感じないで済むほど離れることもできないから。
   だから……現実から、逃げ切れない。
   メイリーズはベッドに座ったまま、少し身体をひねって後ろを振り返った。 同じベッドの上に目を閉じて横たわっている少年を、半透明の垂れ布越しに黙って見下ろす。 
   顔立ちは全体的にシャープで、端整と言えないこともない。暗めの茶髪は、特にセットしてある様子もなく、自然な感じで短く切ってある。 このような短髪 は、貴族にしては珍しい。 
   実用第一のように見受けられる簡素な衣服に包まれた身体は、それほどたくましい感じではない。 どちらかと言うと、痩せ気味である。所詮しょせんは、自分と同い年に当たる少年なのだから、肉体的に完成しきっていないのかもしれない。 
   とはいえ、男性は男性だ。女である自分よりも、遥かに力は強いだろう。
   改めてそう思うと、また急に恐怖心が湧いてきた。
   怖い。逃げたい。恥ずかしい。
   爆発的に、限界まで心を膨らませる負の感情の嵐。
   嫌、嫌、嫌ぁ――!!
  (どうして……わたし、こんな……)
   そして限界を超えると、まさにせきを切ったように涙が溢れ出してくる。
   泣いても何の解決にもならないことなど、わかりきっているのに。
   しかし、この涙はきっと必要だからこそ流れるもの。心が破裂してしまわないように、 感情を溶かして外に流し去るための防衛反応として……。 
   この部屋に来てから何度目かの「発作ほっさ」は、精神的に疲労していたメイリーズから 意識を奪い去り、代わりに束の間の安息を与えた。 


   ローゼン・テンペストは、深い眠りから覚めて、ゆっくりと目を開けた。
   最初に視界に飛び込んできたのは、古い木の天井――ではなく、ベッドの天蓋の内側。 
  (……!?)
   見慣れない光景が、途方もない違和感を生み、一気に意識を覚醒させる。
  (ここは……?)
   普段寝起きしている自分の部屋でないことだけは確かだ。
   ローゼンはベッドの上で跳ね起きて、周囲を見回した。 天蓋から垂れた、ごく薄い紗の布を通して、小さな部屋の様子がうかがえる。 
   淡灰色の石造りの天井、そして同じく石造りの壁。窓はひとつもない。 天井付近に通気孔らしき隙間がいくつかあるが、そこから光は射し込んでいない。 
   空気はよどみ、息苦しくなるような閉塞感がある。 壁に取り付けられた照明が、室内を赤紫色に照らしているのも、どこか異様な印象だ。 
   木製のタンスや鏡台などが部屋の隅に据えつけられているが、 どれも恐ろしく古びて見える。絵や花のような、観賞用のインテリアの は全く見当たらず、かなり殺風景だ。壁や天井を含めて眺めていると、まるで廃墟か、 もなくば古代遺跡の内部にでも放り込まれたような気分になってくる。 
  (いったい、どこなんだよ……! なんで、俺はこんなとこに……)
   ローゼンは、やたらと広いベッドの上であぐらをかくと、右手でひたいを押さえた。
   頭の中の、最も新しい記憶をたどってみる。
   昨日は……いや、正確には「意識を失う前」は、自分の16歳の誕生日だった。
   ひとつ年を取り大人になるということに全く感慨を覚えないわけでもないが、 お祝いと称して騒ぐほどのことでもない、というのが自分の考えだ。 
   だから、別に何をするでもなく、いつも通りアカデミーから下校して、 訓練所に寄ってから屋敷に帰って、それから―― 
  (そうだ、夕飯を食ったんだ。やけに豪華なメニューを……)
  『さあ、ローゼン。今日はあなたの誕生日。今年もお祝いの料理を用意したわ。 たくさんお食べなさい』 
   どこかねっとりとした母親の声が、耳の奥にこびりついている。
   夕食の席での両親の態度に、薄々不審さは感じていた。
   確かに、子供の頃は毎年の誕生日を祝ってくれたものだが、 ここ数年、自分と両親との仲が険悪になるにつれて、祝いの規模は縮小する一方 だった。 昨年などは、まともな言葉すらかけてもらえなかったのだ。 
   誕生日祝いが今年になって急に復活する理由はどこにもない。 しかし、心の片隅には、実の両親の好意を信じたいという 持ちが残されていて、それが警戒心を鈍らせた。 
  (俺も、まだまだ甘い……)
   心の中で激しく自嘲しながら、ローゼンは唇を噛み締めた。
   一服盛られたのは間違いない。
   夕食後、不自然にぷっつりと記憶が途切れているからだ。
   薬で眠らせてまでこんなところに放り込んだということは、必ず何か目的があるはず。
   ローゼンの頭は、いくつかの要素から、既に両親の目的を八割方推測していた。 だが、正確に突き止めるためには、 分の置かれている状況をもっと詳しく知る必要がある。 
   ローゼンは、部屋の中央に鎮座している大きなベッドから降りて、改めて冷静に室内を見回した。 
   自分以外の人間の気配が感じられる。
   その気配を頼りにベッドの向こう側へ目を向けたとき、推測は十割の確信へと変化した。 
  (……!? 女、か……)
   自分が降りた側とは反対側のベッドの端――天蓋の垂れ布の向こうに、 乱れた長い髪が広がっている。髪は淡い色をしているようで、 い布越しでも透けて見えにくく、すぐには気づけなかったのだ。 
   動かないことからして、どうやら眠っているらしい。
   ローゼンは、足音を立てないように注意を払って、そっと近づいた。
   その女はベッドの端で、マットレスのへりに頭を引っ掛けるようにして突っ伏していた。 両腕は下に垂らされ、背中は丸められ、脚は正座に近い状態 でそろえられて冷たい床の上にある。 あまり楽な姿勢には見えない。というより、少しでも頭を動かしたら に横倒しになってしまいそうな、不安定な寝姿である。 
   顔は見えないが、年齢的には、かなり若そうだ。自分と同年代かもしれない。
   起こしたほうが、状況把握には役立つだろう。けれども躊躇ためらう気持ちのほうが大きく、 ローゼンは敢えて声をかけなかった。 
   室温はそれほど低くないが、肌の色が透けるほど薄着の肩のあたりが寒そうだったので、 ベッドの上から毛布を取ってかけてやる。 
   そのとき、ローゼンは女の膝の横に、一冊の本が落ちているのを発見した。
   表紙を見ると、それは『レイリス聖典』だった。月に在りて人の子の運命をつかさどるという女神が信仰されているルミナスでは、 第一の聖典として広く読まれている。 
   この『レイリス聖典』は、初代の「未来さき読みの巫女」が女神から受けた啓示の内容を、 女神の教えとしてまとめたありがたい書物 、とされている。しかし、ローゼンに言わせれば、 そんな話は、おそらく全くのでっち上げだ。 
   まず、初代の未来読みの巫女が受けた啓示と言いながらも、 成立が確認できるのは建国1200年以降という点がおかしい。また、この世界において普遍的 に信じられている運命の女神は、 その名の通り、人の運命を紡いで下界に投げかけるだけの存在 。人間に教訓的な啓示をしたり、 あれこれ指図したりするなどということはあり得ない。 
   『レイリス聖典』の主要な内容は、明らかに政治的な民衆教育を意図している。 「魔術大国ルミナス」を維持するために都合の良い項目が、数多く盛り込まれているのだ。 
   そうしたことから、ローゼンは、当時の巫女や神官が王室と相談するなどして 創作したものではないかと踏んでいた。 
  (こんなもんを、こんなとこにまで持ち込んでるってことは、相当に敬虔な聖典信者ってわけか?) 
   もしかすると、この女、とんでもなく厄介な相手かもしれない。
   ローゼンは、そこはかとなく嫌な予感を抱きつつ、 『レイリス聖典』を手に取って、何気なしにパラパラとめくった。 
  (え……? な、なんだこりゃ!?)
   ローゼンは、この『レイリス聖典』の異常に、すぐに気づいた。
   この書物は、見た目こそ『レイリス聖典』だが、その中身は似ても似つかぬ別物だ。
   要するに、偽装本。
   興味を引かれて、軽く読んでいるうちに、ローゼンはだんだん背中がむずがゆくなってきた。 
  (こ、これは……いわゆる、恋愛小説……?)
   偽装本の中身は、男女の偶然の出会いから始まって、愛の告白あり、波乱の展開あり、 最後は男女が結ばれてハッピーエンドのキスシーンで終わる という、ベタベタなロマンス物の小説だった。 全編にわたって歯の浮くような台詞せりふ満載 で、ローゼンにしてみれば、「こんな男が世の中にいるか!」 という突っ込みどころ満載の代物しろものだ。 
  (これが、この女の愛読書だとすると……別の意味で厄介な気が……)
   ローゼンは、額にうっすらと脂汗を浮かべながら、超濃厚なロマンス小説を閉じた。
  (……しかし……こんな小説を聖典に見せかけるとは、やるもんだなぁ、おい)
   神をも恐れぬ大胆な所業。まるで男がエロ本を隠すときの手口である。
   しかし、こんな偽装をしなければならない理由はわかる。 身分違いの恋だの、駆け落ちだの、 由恋愛を賛美するような内容の作品は、この国ではことごとく禁書扱いなのだ。 
   よって、ルミナス国内には、そんな小説を手掛ける人間はほとんどいない。 この偽装本の中身である恋愛小説も、隣国のひとつエスティマの作家が書いた外国作品のようだ。 
   キス以上の描写はどこにも出てこない、一見健全な作品さえ禁書にされてしまうのは、 他ならぬ『レイリス聖典』に原因がある。 

  『聖地ルミナスの民は、正しき婚姻によりて、その血を尊び、その血の聖性を守るべし』

   聖典の中に出てくる、この一節によって、ルミナス国民は縛られている。
   ここで言う「正しき婚姻」とは、魔術士としての血統と、 そこから生じる資質を何より重視して結ばれる関係のことだ。 すなわち、好き嫌い、れたれたは二の次、あるいはそれ以下の問題。 
   恋愛小説などは、「正しくない婚姻を助長する」として、血統至上論者たちからは目の敵にされている。そして、過激な血統至上論者の大半 はこの国の政治に 携わる貴族なので、必然的に禁書という大仰おおぎょうな処置が取られることになってしまうのだ。 
   しかし、規制の対象は恋愛小説だけではない。自国ルミナスの国風や体制を批判する本は無論のこと、外国の国家体制を良く評価 した本や、外国の斬新な文化を紹介した本なども、 時には禁書指定にされることがある。 
  (この偽装禁書……どうやって入手したのかが気になるな……)
   禁書とはいえ、こうした本は、庶民たちの間では密かな娯楽として裏で細々と流通している。 ローゼン自身も、最新の外国の情報 を得たいと思ったときは、庶民街の路地などにいる禁書専門の 闇商人のもとをしばしば訪れる。 
   だが、ローゼンの推測からすると、この女はまず貴族の一員に違いない。周囲の 監視の目も決して緩くはないだろうに、よく手に入れたものだ。そこは素直に感心できる。 
   ローゼンは少し好奇心が湧いてきて、女と話をしてみたいとも思ったが、 とりあえずは室内の調査を優先することにした。 
   何がともあれ、確かめなければならないのは……この部屋から出られるのか、否かだ。 
   窓はない。あるのは、ふたつの扉だけ。
   ローゼンは、まず目の前にある木の扉に手をかけた。朽ちかけていると 言っていいほど古びていることを除けば、特に何の変哲もない扉だ。 
   開けてみると、その向こうには、洗面台を備えた化粧室と簡易的な入浴設備があった。 
   こちらも部屋と同じく主に石造りで、こけが生えていてもおかしくないくらいに見える。だが、試してみると、ちゃんと水は出た。 
   化粧室や入浴設備を見つけたことで、ローゼンは懸念を強めた。
   なぜなら、これらは人間を長期監禁する際、健康を損なわせないために必要な 最低限の設備でもあるからだ。 
   ローゼンは、開けた扉をいったん閉めてから、反対側の壁の扉に向き直った。
  (……出口があるとしたら、こっちの扉のほうか。けど、問題は……)
   両開きの扉を前にして、ローゼンは目をすがめた。 二枚の扉にまたがって描かれている複雑な紋様を、間近で凝視する。 
   紋様は、淡い白色の光を帯びて、くっきりと浮かび上がっている。
  (見たことのない魔印だな……)
   この複雑な紋様は、魔術用語で「固定魔印」と呼ばれるものだ。
   本来、一過性のものである魔術の効果を、長く継続して発揮させるために使われる刻印で、 魔術ごとに紋様は異なる。発光 しているのは、魔術の源たる魔力が注がれて、刻印がその効果を発揮している証拠である。 
   この固定魔印に見覚えがないということは、 どんな効力を持っているかも不明だということ。何が起きるかもわからないのに、迂闊うかつに触れるわけにはいかない。 
  (俺だって、勉強そのものはアカデミーでけっこう真面目にやってるつもりなのにな)
   全く見知らぬ固定魔印の存在に、ローゼンは少々悔しさを感じた。
  (……でも、まあ、死にはしないだろ)
   その悔しさも後押しとなり、ローゼンは思い切って固定魔印に手を伸ばした。
   指先が、触れる。その次の瞬間――
   バチィッ!!
   驚くほど大きな音がした。
  「うぁ!? 痛つつつつぅ……!」
   思いのほか強烈な反動に、ローゼンはうめきながら、刻印に触れた手を握り締めた。
  「く……やっぱりな……」
   自分が、いや自分たちが、ここに閉じ込められているということは、もはや疑う余地もない。 
   やはり女を起こして事情を聞いてみるべきだ。もちろん、自分と同様に、 何も知らないまま問答無用で連れて来られただけ、という可能性も大いにあるわけだが……。 
   ローゼンは、いまだに眠りの中にいる様子の女のそばに歩み寄った。
  「……おい、あんた。悪いが、ちょっと起きてくれないか」
   肩に手を置いて、軽く揺さぶる。
  「ん……あ……?」
   女は、小さく声を漏らして身じろぎした。
   ひどく緩慢な動作で、頭を上げる。そして、いまいち焦点の合っていなさそうな瞳で、 ローゼンを見上げた。 
  「……え?」
   ローゼンと目が合った途端、女は……少女は、瞠目どうもくした。
  「……え!? おまえ……!?」
   しくも同時に、ローゼンも少女の表情を真似まねるがごとき反応をしていた。
   この少女の顔には、見覚えがあったのだ。