シ ウ   シ   イー   シャ
題字

―シャドウ・ジハード特別編―

エピローグA  夜明け――『有給休暇』の結末

 さてと……ジェシス。わたしに、何か言うことは?」 
 船縁(ふなべり)の脇に立ったソフィシエは、こちらを振り返りざま、そう訊いてきた。
 おまえに許してもらおうとは思ってねえよ」
  ェシスは短く言葉を返した。
「最高最悪に()(きょう)な答えを、どうもありがとう」
 少女は、ニコリと微笑(ほほえ)んだ。 
 とても愛らしいのに、(せつ)()、目を合わせただけで、心臓が凍って(くだ)けそうな心地になる最凶(さいきょう)の笑顔――彼女の得意技のひとつだ。
 ここは、定期船の後部甲板(かんぱん)の上。
 要するに、ジェシスたちは、ソフィシエが昨日(きのう)乗って帰ろうと思っていた定期船に追いつき、途中乗船したのだった。 
 法外なスピードの小型船で追いかけてきて、港ではなく大海のど()んなかで乗船しようとする客など、常識では考えられない。 
 果たして受け容れてもらえるのかどうか、ジェシスは気を()んだ。
 しかし、案じる必要はなかった。(ション)(フウ)が定期船に合図を送り、船長かそれに準ずる立場と見られる相手に軽く話をすると、あっさり乗せてもらえたのだ。 
 交渉(こうしょう)とも呼べないような会話で話がついたことに、ジェシスは驚かされた。雄虎という老人は、天華において、存外(ぞんがい)大きな影響力を持っているのかもしれない。
  うして船に乗り込んだ後、二人には、きちんと休息の取れる船室があてがわれた。
 案内されて部屋に入ったとき、ジェシスは疲労困憊(こんぱい)していた。
 一昨晩(いっさくばん)は十分に眠れず、次の朝から夕方まで天華観光をして、夜には天兵たちとの戦闘と黒龍との駆け引きを経験したのだから、当然と言えば当然である。 
  ぐにでも眠りたいところだったが、その前にソフィシエから『ちょっと話をしたい』と言われてしまった。何の話をしたいのかは予想できたので、彼はおとなしく少女の(あと)に続いて甲板に出たのだ。 
 最凶の笑顔を前にして、ジェシスは弁解する気もなく、(だま)って立っていた。
  っくに真夜中を過ぎて、夜明けも近い今の時刻、自分たち二人以外に甲板に出ている船客はいない。 
 (あかつき)静寂(せいじゃく)のなかで、ソフィシエは微笑みを顔に()り付けたまま、口を開いた。
 わたしが何を許せないと思ってるか、あなた、本当にわかってるの?」
 俺たちを助けようとした春明を人質に取って、手首を傷つけて、その揚げ句に殺すとか何とか言っておまえを(おど)したことだろ?」  
  えて具体的に、ジェシスは答えた。
 もちろん、それもあるけど……。わたしが許せない最大のことは、それじゃないのよ。わからない?」 
 ジェシスは、しばし黙考(もっこう)したが、それほど迷わずに解答を導き出した。
「俺が、おまえの身代(みが)わりになろうとしたこと、だな」
 ……大正解」
  女の恐ろしい笑顔の迫力が、さらに二割ほど増した。
 自分を犠牲にして助けてもらっても、わたしはちっとも嬉しくないって……知ってて、あなたやったでしょ?」 
「ああ。あれは(まぎ)れもなく俺のエゴだ。だから、許してもらおうとは……」
 どうして! どうしてなのよ!! あなたは、どうしてそうなの!?」
 ソフィシエは表情を一変(いっぺん)させ、怒気も(あらわ)に叫んだ。
 あなたには、わたしを恨むだけの理由こそあれど、そこまでわたしを大事にする理由はないはずよ。そう……あなたには、さぞ(シャオ)(ウー)の気持ちがよく理解できたはず! 彼と一緒になってわたしに報復しようとするほうが、 夜あなたが現実にとった行動よりも、まだ受け()れやすいくらいだわ」
 早口で、(かす)れたような声音は、この前の晩、(ファン)(ディエン)の部屋で聞いたものと同質だった。
 思い詰めた心が、そのまま反映された、()(もん)の叫び。
「いくらわたしがクレバーくんのパートナーだからって、必要以上に気を(つか)う必要なんかない。あなたが優しいのは知ってるけど、無理してまで優しくしないで!」  
 おいソフィシエ。てめぇ、それ以上ほざいたら、キレるぞ」
 ジェシスは、本気で低く恫喝(どうかつ)した。
 春明も言ったが、あんまり『どうして』って連発(れんぱつ)するのは、失礼もいいとこだ。おまえは、俺が仲間として……長年付き合いのある友人として、 まえ個人をごく普通に大事に思う気持ちを疑うんだな?」 
 え……」
 ソフィシエは(めん)()らったように目を(しばた)かせた。 
「確かに、おまえはクレバーからの(あず)かりもんだが、それだけの理由で世話(せわ)()いてるわけじゃねえ。ふざけんなよ。 年前のあの日から、俺がずっと無理しておまえと接してきたとでも思ってんのかよ!?」 
 ジェシスは、激しい(いきどお)りに任せて叫ぶ。 
 もう忘れちまえ! 昔の嫌なことは、さっさと全部! 綺麗さっぱり!」
  ―やっと言えた。たぶん、もっと早く言ってやるべきだった言葉。
「反省するのは勝手だし、悪いことじゃねえが、それぞれにつき一回で十分だ。()め込むと身体(からだ)に毒だぞ。俺みたいになっちまったら、どうする気だよ……」
 最後は口調を(しず)めて、短く(さと)した。
 すると、なぜかソフィシエは、微妙に顔を(こわ)()らせた。そこはかとなく気まずげだ。
 そうね……困るわね、あなたみたいになっちゃったら。だけど、あなたをそんな困った状況に追い込んだのは、わたし、なのよ……」 
 ……!? しまった!!)
  ェシスは即座に気づいた。またしても失言だ。
(うう……俺は、どうしてこう、会話の運びが下手(へた)くそなんだろうな……)
 心中(しんちゅう)(ひそ)かに嘆いていると、ソフィシエが小さく笑い声を漏らした。 
 ……四年前、わたしとの模擬戦闘時に負傷したことによって、あなたの(ひだり)(あし)には後遺症が残った。そのせいで一般の白兵戦要員から退(しりぞ)くことを余儀なくされて、あなたはやむを得ず銃を手に取り……暗殺者(イレイザー)になった。それ以来、あなたは一度も標的の抹消(イレイズ)に失敗したことがない。だから、『パーフェクト・イレイザー』……」  
 そう言うと、少女の表情は、(あき)れ顔へと変化した。
「直接情報戦において、あそこまで惜しげもなく真実を()れ流す影の兵士は、世界広しといえどもあなたくらいよ。 なたは経験が少ないから、慣れてないのは仕方ないけど……基本理論を完全無視するのはどうかと思うわ。ひとつの嘘さえ()かずに自分の素性を敵に教えるなんて……『馬鹿正直』っていうのは、あなたのためにあるような言葉ね」 
 揶揄(やゆ)めかした(そし)りに対し、ジェシスは言い返すことを断念して、(うなず)く。
 ……そうだな。だが、あれが俺にとっての限界だ。俺は嘘も演技も下手だから、まともに交渉するには、本当のことを言うしかないと思った。(きょ)(じつ)とを()()ぜて相手を翻弄(ほんろう) するなんて器用な真似(まね)は、俺には無理なんだよ」
 ハイペリオンの駆け引きでは、最強なのにね……」
「カードゲームとは全然違うだろ。(ばん)の大きさも種類もな。直接情報戦が不得手(ふえて)な俺は、ちょうど狙撃手(スナイパー)に向いてるってわけだ」
 ジェシスは、結論めいた台詞(せりふ)を口にして、話をまとめようとした。 
  っきの失言から続く会話の流れを、どうにかして早く打ち切りたかったのだ。 
  かし――
 向いてる……? よく言うわ!」
 目の前にいる少女は、(つたな)いごまかしが通用するような甘い相手ではなかった。
「仕事を一件(かた)()けるたびに、服用する睡眠薬や精神安定剤の量が増えていく人の、どこが暗殺者に向いてるっていうのよ!?」 
 一気に顔つきを(けわ)しくして、噛み付いてくる。ジェシスの台詞は、むしろ逆効果だったようだ。 
 あー、頼むから、いちいち口に出して言わないでくれ。いくら明け方だからって、誰か甲板に来ないとも限らねえし、誰も聞いてなくたって格好悪いだろ……」 
 (たま)らず(ひたい)に手を当て、うつむいて懇願(こんがん)する。 
「仲間(うち)どころか、国外に来てまで『影の兵士に向いてない』って評価されたくせに、暗殺者が天職だとでも言うつもり? 笑わせないで……」  
 (とど)めとばかりに、重ねて辛辣(しんらつ)な言葉を発した後――少女は、ふっと吐息を漏らした。
 ……だけど今回は、わたしも言われちゃったのよね。『影の兵士失格』って……。本当にそうだわ。あらゆる面で、まだまだ未熟。やっぱり、もっと……もっと強くならなきゃ」 
 ……!」
  ェシスは、ギョッとしてソフィシエを見た。
 彼女の(つぶや)きを耳にして、何もかもが振り出しに――一昨晩の状態に戻ってしまったかのような感覚に襲われたのだ。 
 俺……結局のところ、任務失敗、か?)
 そう考えた瞬間、ジェシスは不意に立ち(くら)みがして、木の甲板に膝を突いた。
 肉体の憔悴(しょうすい)と、それより激しい精神の消耗(しょうもう)――『疲れ』という名の毒が、急激に身体に回って、四肢(しし)の筋肉を()(かん)させてしまったようだ。
 ジェシス!?」
 少女が駆け寄ってきて、(そば)にしゃがみ込んだ。
「……おまえ、帰ったらまた、訓練()けの毎日を送るつもりなのか?」
 虚脱感(きょだつかん)と共に尋ねると、意外なことに、相手は首を横に振った。 
 いいえ、違うの……。わたし、もう思い詰めたりなんかしない。訓練はするけど、(まわ)りの人に無茶だと思われるようなやり方は(ひか)えるわ。いろいろ心配かけて、ごめんなさい」
  フィシエは、落ち着いた態度で、はっきりと言った。 
 それから……さっき変な非難を口走ったことも、謝らせて。あなたの心は、全く過去に囚われていないって……あなたは単なる責任感によってだけじゃなく、仮にも相棒(パートナー)としてわたしを守ろうとしてくれたって、よくわかったから」 
 ソフィシエ……」
 沈みかけていたジェシスの気分は、一転して高揚(こうよう)した。自分の苦労が報われたという満足感によって、精神的な疲労が(いや)されていく。
「ただし、『自分は狙撃手(スナイパー)に適任だ』なんて言い分は、絶対に認めないわよ。私の負わせた怪我が、あなたを不本意な道に進ませたという事実だけは、決して変わらない」 
 ………………………………」   
 (ゆる)んだ心に不意打ちを食らって、ジェシスは沈黙した。 
 ほんとに、不思議なのよね。春明といい、あなたといい。『言うな』って言われたって、どうしても言いたくなるわ。『どうして』って……」 
 ソフィシエは、少し(せつ)なげに言った。
 あなたと、春明と、梟武……三人とも、わたしの手で消えない傷を刻まれてる。なのにどうして、こうも感情が(こと)なるのか……わかるようで、わからないの。わたしとしては、梟武の反応が一番自然だと思えるんだけど」 
 それを聞いて、ジェシスは、黒龍に(とら)われていたときの少女の態度を思い返した。
  讐者である男を『いやな顔』などと呼んだ彼女だが、それは男が春明を泣かせたことに対して怒ったからであって、自分への逆恨みに(いきどお)ったからではない。 
 逆恨みだろうが何だろうが、恨みは恨みよ。正当じゃなくたって、復讐の確かな理由として存在してるわ』 
 そんな台詞(せりふ)からしても、ソフィシエは黒龍の復讐を、むしろ当たり前のものとして受け止めていた(ふし)がある。
 このわたしを恨んで、殺したいと思ってる相手は、世界中にごまんといるはずよ。影の戦場にも、その外にもね。そして、 ぶん……わたしやクレバーくんのこと、恨みがなくても殺そうとする人間は、もっと多い……」 
  女は、すっと目を細め、針のような視線をジェシスに突き刺した。  
「いい? ジェシス。今更繰り返すまでもないけど、()(てい)に言って、わたしたちはいつ死んでもおかしくない身の上よ。そんなわたしたちはね、危険にさらされたとき、ろくに躊躇(ためら)いもせず身代わりになろうとするような人の(そば)にはいられないの!」
 どこまでも冷厳(れいげん)に、あらゆる反論を封じるような強さで、告げる。
 この機会に、改めて言っておくわ。わたしたちを友人と思ってくれるなら、わたしたちのために命を捨てないで!  し、もう一度、今夜みたいなことが起きたら……クレバーくん共々(ともども)、あなたとは絶交よ!」
 クレバー共々、か……。そりゃきついな」
 ジェシスは、即時に()いた心情を、そのまま吐露(とろ)した。  
 ……クレバーくんも、ずっと前だけど、わたしに漏らしたことがあるのよ。『僕たちは、ジェスの傍にいちゃいけないんじゃないか』って……」 
 なっ……! それ、いつのことだよ?」
 未知の情報を伝えられて、わずかながら動転(どうてん)する。
「わたしたちを狙った『クラウ狩り』の眉間を、あなたが一発の銃弾で()ち抜いた、あのときのこと。あなたはまだ、銃を所持するようになってから日が浅くて……仕事でも、人を(あや)めた経験はわずかしかなかったのに、 たしたちを守るために発砲した。あなたが薬を日常的に服用するようになったのも、確か、あの頃からだったわね」 
  フィシエは、容赦のない的確さで指摘した。どこか責めるような口調だ。
 それは、ジェシスが暗殺者に転向した件に関して、彼女がまだ、自分自身を責めている(・・・・・・・・・・)という証拠でもあった。 
 どうやったら、真の意味でこいつを解放してやれるんだ……?)
 無茶は()めると宣言し、スランプからは脱したように見える少女だが、ジェシスは個人的にすっきりしなかった。 
 暗殺者であるジェシスの普段の(おも)な仕事は、サーヴェクト国内の武器密売人の抹消(イレイズ)だ。 
 禁じられた銃器や爆薬の対外取引で、私腹を()やそうと(たくら)()(とど)きな(やから)は、国内に大勢(おおぜい)いる。国王への忠誠と国民たちの結束が国家の繁栄を支えていると(うた)われるサーヴェクトも、やはりそうした内憂(ないゆう)(かか)えているのだ。
 摘発(てきはつ)されて再三(さいさん)の警告や処罰を受けても、それを無視し、裏に(ひそ)んで活動を続けようとする悪質な密売組織も少なくない。そうした『国を(むしば)(びょう)(そう)』を『(あら)(りょう)()』するのが、PSB所属の暗殺者(イレイザー)たちの任務である。
 ジェシスは、狙撃手(スナイパー)となってすでに四年。その間、暗殺者として()け負った仕事をしくじったことはない。 
  もかかわらず、特に親しい人々から『不適任である』との見方をされているのは――彼が暗殺に従事し始めた途端、さまざまな体調不良に悩まされるようになったからだ。 
 具体的には、夜間の不眠、頭痛、食欲不振、突発的な(おう)()感など。これらの症状の原因は精神的な負荷(ふか)だと、組織のドクターは診断した。 
 表層意識では納得していても、深層心理が殺人という行為を拒絶している』せいだと。
  んなことを言われたところで、ジェシスは困るだけだった。深層心理は自分でも制御できないから深層と言うのであって、どうしようもないし、自分は暗殺者(イレイザー)を辞めるつもりは全くない。 とあるごとに、『身体に悪いから、さっさと辞めろ!』と説教するドクターには、正直なところ辟易(へきえき)していた。 
 ……仕方ねえな。この際、言っちまうか……) 
  や硬い表情をこちらに向けている少女を見て、ジェシスは決心した。
 (あたま)ごなしに『忘れろ』と命じても効果がないなら、一部でも真実を伝えるしか、彼女の苦痛を取り除く手段はないだろう。 
「人を殺すと、俺の身体が不調を(うった)えるってのは、否定しようのない客観的事実だ。それでも、俺はこれまで、与えられた任務はきっちりこなしてきた。 から、いつも言ってるが、今の俺の立場について他人からとやかく言われる(すじ)()いはねえ。それに……」
 この先を本当に言ってしまっていいものかどうか、一瞬、逡巡(しゅんじゅん)する。
 ひと呼吸置いてから、(げん)を継いだ。
 もともと俺には、暗殺者になるだけの理由が……強力な動機があった」
 動機……?」
「銃って代物(しろもん)はな、俺の親の(かたき)なんだ」
 思い切って告げると、ソフィシエは瞠目(どうもく)した。
 ……!? いきなり何なの? そんなの、全くの初耳よ?」
「初耳で当然だ。両親の死に(ざま)なんか、誰にも言ってねえからな。クレバーだってピアスだってチーフだって知らねえよ」 
「どういうことなの? 銃が仇って……あなたの親は、銃で()たれて死んだってこと?」
 ……まあな。それ以上は訊かないでくれ。話すと長……くはならねえと思うが、かなりくだらねえし、ひたすらつまらねえ。 いたい、今こんな場所で、身の上話なんぞしたくもねえんだよ。朝から気が滅入(めい)るのは、おまえも()(めん)だろ?」
  っ込んだ質問をやんわりと拒絶すると、少女は不満げにぼやいた。
 まったく、あなたにしてもピアスにしても、みんな秘密主義者なんだから……!」
 ジェシスは、曖昧(あいまい)に苦笑して追及を避けるのが精一杯だった。
「別に……秘密って言うほど大仰(おおぎょう)なもんでもねえんだがな。親の命を奪った武器を、俺は憎んでる。世界に広めたくないどころか、できるなら、さっさと根絶(ねだ)やしにしちまいたいくらいだ」 
 親の(かたき)を恨み憎む――考えてみれば、自分も天兵たちの同類だと、ジェシスは思った。
売国(ばいこく)()粛清(しゅくせい)』と言えば聞こえはいいが、暗殺を正義の制裁と見なすのは危険であり、誤りでもある。それは『自国の安全を維持する』という、ある(しゅ)独善的な目的を達成するための手段に過ぎない。あるいは自分にとっては……極力、私情を(はい)して任務に(のぞ)むようにしてはいても、私的な怨恨(えんこん)を晴らすための復讐にしかなり得ないのかもしれなかった。
  分が、ある面で身勝手な罪人であることを、ジェシスは少女に白状したのだ。
「まあ、要するに、左脚の後遺症は、むしろ都合のいいきっかけだったんだ。俺が暗殺者(イレイザー)になったのは……」 
 自分自身の『選択』。だから、銃を取ったのは断じてわたしのせいじゃないし、不本意に人殺しを続けてるわけでもない。あなたはあくまで、そう言い張りたいのね?」 
 ソフィシエは、ジェシスの口から出るはずの台詞を、ほぼ完璧に(さき)()りした。
 でも、銃を憎んでるのに銃を取るなんて、それは……」
 呟くように言いかけて、途中で口を(つぐ)む。 
 いえ……いいわ。嘘が苦手なあなたの言うことだから、納得してあげる。この話題は、もうおしまいね」 
 含みのない、無垢(むく)微笑(ほほえ)みを浮かべて言い切ると、やおら立ち上がる。
  のとき、少女の横顔が、明るい光に照らされて輝いた。  
 ジェシスは一瞬、思わず見惚(みと)れた。それから船縁(ふなべり)の向こうに目を向けると、紺青(こんじょう)の海と(うす)(むらさき)の空の間から、(まばゆ)い光が(あふ)れているのが見えた。
 (あか)く染まっていた水平線から、いつの間にか太陽が、その姿を(のぞ)かせていたのだ。 
「綺麗……。昨日、(ユエ)宮廟(ゴォンミャオ)春明(チュンミン)と見た夕暮れと同じくらいに……」
 ソフィシエは、どこか(さみ)しげな調子で呟いた。
 朝焼けの色にも似た(しゅ)(きん)の刺繍のドレスを背後から眺めているうちに、ジェシスはふと思い出した。 
 ……そういや、俺、普通の荷物は、全部飯店に置いてきちまったんだよな。自分のも、おまえのも、クレバーたちに買った土産(みやげ)も……」
 一応、常識として、現金の入った(さい)()は身につけている。シュリとキアラの生活実態を(しる)した調書は、飯店を出る前に()かりなく処分した。その他の、天兵たちに収得されても特に問題は生じないであろう物品は、持ち出す余裕がなかったのだ。 
 じゃあ、天華の品物で、持ってこれたのは……わたしの着てるドレスと、これだけってことね」 
 言いながら、ソフィシエは首筋(くびすじ)に手を()って、(にび)(いろ)の鎖を服の下から引き出した。 
 それは、(バイ)(ホワ)()でジェシスが選んだ、()(はく)と紫水晶のアクセサリーだった。 
 そのペンダント……つけてたのか」
 ねえ、ジェシス。あなたが少しだけ自分の秘密を明かしてくれたから、そのお返しに、わたしもあなたにちょっとした秘密をさらしてもいいわ。教えて欲しい?」 
 突然の申し出に、ジェシスは多少、()(まど)った。
 おまえの、秘密……?」
 だが、好奇心を刺激され、聞きたいという欲求は(おさ)えようもなく湧き上がってくる。
 ソフィシエは、ジェシスの前に来て(ひざ)を突くと、内緒話に誘うように()(まね)きした。
  れに応じて、彼は身をかがめ、相手に顔を近づけた。
  ―すると。
 不意に伸ばされた繊手(せんしゅ)が、左右の(ほお)を捕えて、さらに近くに引き寄せる。
 ……!?」
  の瞬間、少女の唇が、ジェシスのそれに重ねられた。
 愕然(がくぜん)として()(じろ)ぎも忘れた彼の視界には、少女の閉じられた(まぶた)と、長い(まつ)()が映った。 
 やがてソフィシエは顔を離し、小さく口の()を上げると、舌先で自分の唇をなめた。
 ……クレバーくんとはまた違うけど、悪くない味」
 あどけない容貌の少女は、(よう)()を思わせる甘い声音で感想を述べた。
「だ、(だま)した、な……?」
 甲板に手を突いて、完全にへたり込んだジェシスは、(うめ)きながら相手を見上げた。 
 表面が触れ合うだけの軽い(くち)()けだったのに、()(ざけ)を胃の()に流し込まれたほどの効果があった。全身が火照(ほて)り、(とろ)けるような心地良さが精神を酔わせる。
 騙してなんかないわ。見て……」
 ソフィシエは、くす、と笑うと、閉じていた両目を(ひら)いた。
 ……!」
  ェシスは息を詰めた。
 普段は、妖術を応用した自己暗示で左目と色をそろえてるけど……これが真の右目……妖魔の(ひとみ)よ」
 ()(すい)色であったはずの少女の右目が、ペンダントの宝石と同じ色に変化していた。
 上質の蜂蜜(はちみつ)金粉(きんぷん)を混ぜて固めたような……甘美な色合い。
「瞳と同じ色の()(はく)は、紅き霧の民(フロウルージュ)が最も好む宝石のひとつなの。あなた、知ってた?」
 いや……」
 クラウである彼女が、色違いの瞳の持ち(ぬし)であることは知っていたが、実際に見るのは初めてだ。異種族の瞳は、それぞれ宝石に(たと)えられるが、妖魔の瞳が琥珀であるとは伝え聞いたこともない。 
 ずっと見つめていたくなるような、至宝のような(きらめ)きの瞳だ。
 しかし、心身を(おか)す酔いに似た感覚が、だんだん深くなってくるにつれて、ジェシスはなぜか苦しくなり、自然と目を()らした。
  瞬後、少女に視線を戻すと、その瞳はすでに翡翠色に戻っていた。
「何も知らずに、これを選んだのね。やっぱり……あなたの直感は並外(なみはず)れて鋭いみたい。恐れ入るわ」 
 感嘆(かんたん)交じりの賞賛を浴びたとき、ジェシスの胸に、昨晩の春明からの賛辞が(よみがえ)った。
 あなたは直感に優れているからこそ、私の素性に疑いを抱かず、警戒しなかったのかもしれない。なぜなら……』 
 自分やソフィシエのことを、心から好きだと言ってくれた娘の顔が、脳裏を()ぎる。
  ェシスは、おもむろに口を開いて、目の前の少女に告げた。 
「……誰もが認める(・・・・・・)、俺の抜群(ばつぐん)に優秀な直感によるとだな、おまえと春明は、またいつか会える。何年、何十年先になるかはわからねえが、きっと生きて……友人として」 
  んな言葉は、ソフィシエにとって気休めにしかならないだろうが、言わずにはいられなかった。実際に、自分は今、そう感じたのだから。 
 ……そういうのは、直感っていうより、単なる希望的観測なんじゃない?」
  ずかに目を見張った後、ソフィシエは、ごく冷静な反応をした。  
  だ――
「でもまあ、あなたの(かん)は、とにかくよく当たるんだから……信じてみても、いいかも」
 そう(つぶや)く少女は、ほんの少し、嬉しそうではあった。
 ソフィシエの(とし)相応(そうおう)の表情を見届けると、ジェシスはついに精根(せいこん)尽き果てて、甲板の上で身体(からだ)を伸ばし、(あお)()けに()(ころ)んだ。
 (まぶた)を閉じながらも、(せま)り来る(すい)()(あらが)い、伝えたい言葉を紡ぎ出す。 
「遥か遠い未来に、どんなに儚い希望しかなくても……そこまで辿(たど)り着ければ、叶うかもしれねえだろ。そんな可能性を……生かすためにも、 まえの命は……おまえたちの明日は……まだまだ、終わらせねえよ」 
  れからも、自分の意思で、自分の身近にいる大事な存在と、自分たちの暮らす母国を守ること。  
  れが、自分の純粋な望みだ。 
  の兵士としても、一人の人間としても、再確認する。
 このような望みを、この世に生きる多くの者たちが(いだ)いている以上、衝突は()まず、影の戦争も終息することはないだろう。 
 今もどこかの影の戦場では、光を()けた争いの果てに血が流されているかもしれない。
 ソフィシエ・シェスタと李春明も、(まぎ)れもなく敵同士なのだ。
 しかし、たまには日常の戦いを忘れて、平和な非日常に身を(ゆだ)ねるのも、必要悪(・・・)として許されるのではないか。 
 どんな人間の心にも()るはずの、最も大切な感情を凍らせてしまわないために……。
 もはや否応(いやおう)なしに夢と(うつつ)の境界へと引き()られていく意識のなかで、ジェシスは、そう思った。 
  を貫いて差し込む陽光を、いつになく温かく、貴重なものに感じながら。