エピローグ@ 墓碑銘は『忌むべき……』
黒龍が目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは……淡く輝く月と、涙を湛えた春明の瞳だった。
「梟武!!」
春明が目を見開いて叫んだ。その拍子に零れ落ちた大粒の涙が、黒龍の頬を濡らす。
「もう、脅かさないでよ! こんなときに死んだふりするなんて……」
(死んだふり、だと……? 馬鹿な……!)
どうして覚醒することができたのか、黒龍は自分でもわからなかった。
(あり得ない……)
だが、実際に自分は生きている。
頬に落ちた涙の熱さも、腹部に負った傷の痛みも、全ての感覚が現実――夢ではない。
痛みが残っているのに、傷口からの出血は止まっているようだ。その上、失血に伴って生じる脱力感、だるさというものが、身体から完全に消えていた。
「……それとも女神様が、私の祈りを聞き届けてくださったのかしら」
半ば冗談のように……しかし、ひどく嬉しげに春明が呟いた。
(女神? 祈り? まさか……)
月涙召喚――!?
(いや、それこそ、あり得ない)
狠毒娘娘のために、この自分を裏切り、あまつさえ攻撃した娘が、それほどの純粋意思を持てるなどということは……。
本気ではない口調からして、春明本人も、これが『奇跡』と呼ばれる魔術の効果だとは思っていないのだろう。
黒龍は、深く考えるのをやめることにした。
力が戻って楽になった身体を動かし、『動いちゃ駄目よ!!』という春明の制止を聞かずに半身を起こす。それから、目の前の相手を見据えた。
「春明……俺は確か、おまえに親切な助言をくれてやったはずだが……従わなかったようだな。運命を左右する忠告を無視して、自分が人殺しにならずに済んだということを単純かつ呑気に喜んでいるわけだ。まったく浅はかな……!」
「え……?」
ハラハラした顔でこちらの挙動を見守っていた娘は、きょとんとした目つきになった。
「これだから、おまえは愚か者なんだ」
黒龍は胸の奥でくすぶる苛立ちを、言葉にして春明にぶつけた。
「俺が事の顛末を本家に漏らせば、おまえは単なる極刑どころではない処分を受けることになるんだぞ。止めを刺して、俺の口さえ封じておけば、逃れる望みもあるものを……。どうして、その程度の判断ができない!?」
「……処分を覚悟しないで裏切りができると思う? 逃れようなんて思ってないわ」
春明は、こともなげに言い切った。
「ねえ、梟武。すごく厚かましいけど、お願いがあるの。私が死んだら、髪の毛一本でも拾って、どこかにこっそりお墓を建ててくれない? その辺に落ちてる石を拾って、上に載せるだけでいいから。それで、墓碑銘は……」
どこか夢見るような口調で懇願してくる。
「……『忌むべき裏切り者、ここに眠る』。そう刻んでおいて……」
あまりに奇妙な願い事を聞いて、黒龍は眉を顰めた。
「おまえも異なことを言う。そんな墓碑銘を刻んだ墓など……見るたびに踏みつけにして唾を吐きかけたくなるだけだ」
「いいの、それでも。蹴られようが踏みつけにされようが、私はそれで満足だから……」
「なぜだ?」
ひたすら不可解に思いながら、問い掛ける。
「だって……裏切りって、確かに忌むべき悪行だけど、それなりに強い意志がないとできないことでしょう? 『役立たずの足手纏い』よりは、ずっと上等な墓碑銘だわ。それは私が少しだけ強くなれたことの証になる……」
そう言って、春明は翳りのない微笑みを浮かべた。
「梟武……起き上がれて、それだけ喋れるなら大丈夫よね? もう心中を疑われる心配はなさそうだわ。あなたなら、自分で伝言鳥を飛ばして人を呼ぶこともできるし、今なら、あなたも心置きなく私に報復できるんじゃない?」
脇に落ちている短刀を拾い、先刻と同じように、こちらに手渡す。
「あなたが敢えて私の処分を本家に委ねたいのなら、それでも構わないけど……できればやっぱり、あなたの手で制裁を……!」
臆することなく振舞う娘を、黒龍は呆然として眺めた。
恐慌状態のときに、『殺してくれ』だの『自殺する』だのと口走るのとは訳が違う。
「あなたは裏切り者の私を完全には見放さずに、最終的に救ってくれた。そう、子供の頃から、あなたはいつもそうやって、出来損ないの私のことを守ってくれた。それなのに、私は……あなたを傷つける選択をして、悔やんですらいない」
春明は平坦な声音で、ことさら憎悪の念を煽るような言い方をした。
「国より家より先に、私はまず、あなたを裏切った。だから、あなたには、一番に私を罰する権利があるのよ。二重の裏切りに、然るべき報いを与える権利が……」
やけに潔い態度――『弱虫』や『臆病者』とは対極の位置に立っているように見える女が、そこにはいた。
この女は、かつての春明……二年前まで黒龍が知っていた、か弱い娘ではなかった。
「いいのか? そんなことを言って。別に特別な道具などなくとも、この刃物だけで相手に最大限の苦痛をもたらす拷問法を、俺は心得ている。後で処分されるよりは楽に死ねると考えているなら、それは大きな誤りだ」
試すように、低く脅しつける。
「いいのよ。あなたの心が晴れるまで、好きなようにして……」
春明は、わずかな恐怖心も表に出すことなく、告げた。
(……! 春明のくせに、粋がったことを……!)
黒龍はカッと頭に血が上った。
目の前で正座して、そっと目を閉じた娘を見て、不意に激しい衝動を覚える。
殺意ではなく、全く別種の欲望に突き動かされ、相手の肩に手を掛けた。
そのまま地面に押し倒す。
右手に握った短刀を、娘の首のすぐ横に突き立てる。
そして、薄く開かれた紅い唇を、乱暴に奪った。
「んっ……!?」
黒龍は相手の両肩を押さえつけたまま、いったん唇を離し、驚きに目を見張る娘の顔を間近から見下ろした。
「暴れるなよ。下手に動けば、首の皮が切れるぞ」
警告を与え、再び口接ける。
表面だけに止まらず、もっと奥へ、より深く。
刃の牽制が効いたのか、春明は抵抗らしい抵抗をしなかった。
次いで、娘の上衣の胸元を押し開き、手を差し入れて、柔らかで張りのある肌の感触を存分に味わう。
「ん……んっ……!」
くぐもった呻き声が、娘の鼻から漏れる。黒龍が唇を解放し、責める対象を首筋に移すと、その声は明瞭なものになって高く響いた。
「あ……あっ! ち、ちょっと待っ……ぁう……」
慌てた調子ながらも艶かしい喘ぎ声にそそられ、口接ける位置をさらに下にずらそうとしたとき――
(っ……!)
あまりに不埒な行いを咎めるかのごとく、腹部の傷が激痛を伝えてきた。
極度の興奮状態から我に返った黒龍は、娘の上から身を起こした。
「梟武!? 痛むの?」
こちらの表情の変化を見て取ったのだろう。春明が飛び起きて、気遣わしげに問うた。
陵辱されかけたようなものだというのに、嫌悪する様子はない。
この娘が抗わなかったのは、刃のせいではなかったのかもしれないと黒龍は思った。
どうせ春明のことだから、暴れると傷に障るとでも考えたのだろう。
この娘は、昔からそういう娘なのだ。
見違えるほど美しく、裏切るほど賢しくなっても、その稀少な本質は不変らしい。
(やはり……春明は、春明か)
黒龍は、ここにきて確信するに至った。
娘の細腕を取って引き寄せ、柔らかく抱き締める。幼い頃、何度かそうしたときと同じように。
先程の熱を帯びた行為と、今の温かい抱擁を通じて、今更ながら改めて思い知る。
自分が、長年、どれほどそうしたいと望んできたのかを。
「どうして……?」
春明が、吐息に乗せて疑問の言葉を口にした。
「おまえが好きにしろと言ったから、好きにしただけだ」
素っ気なく言い捨てた後、黒龍はしばらく間を置いて、正直に告白した。
「俺に、おまえは殺せない……」
自分が欲しくて堪らないものを、どうして自分の手で壊すことができようか。
「春明……おまえは、俺の妻になれ。それが、おまえの罰だ」
「は……?」
おとなしく抱かれていた娘が、急に顔を上げた。両目を丸くして、口をポカンと開けている。噴き出したくなるほど間抜けな表情だ。
「どんなに嫌だろうが、おまえに否やを唱える権利はない。これから先、俺が生きている限り、おまえは俺に逆らえない。他人に弱みを握られるとは、そういうことだ」
黒龍は、冷酷を装って宣告した。
「おまえとて、いくら覚悟を決めているとはいえ、進んで八つ裂きになりたいとは思っていないはず。俺にいいようにされるくらいなら死を選ぶというなら、また話は別だがな。それ以外に、俺から逃れる方法は、たったひとつ……」
――殺して、永久の口封じをすること。
「まだ遅くはない。一生、俺に弄ばれる人生を送るなど、ぞっとするだろう? ならば、そこの短刀で、この胸を抉るがいい」
黒龍は自分の左胸に手を当て、心臓の位置を指し示した。
この娘にそんなことができるわけがないと知った上での、底意地の悪い挑発だ。
「そ、そんなこと、できるわけないじゃない!」
まさにそのままの答えが、春明から返ってきた。
「では、観念して俺のものになるんだな」
「………………………………」
春明は沈黙した。
それでも、追い詰められて困窮した様子ではない。首を傾げ、真面目な顔で何やら考え込んでいるようだ。
「……あの、梟武?」
「何だ?」
「確かに、私たちは、もともと夫婦になるように定められていたけど……今はその関係に縛られてはいないのよ? あなた、せっかく二年前に解放されたっていうのに、どうしてわざわざ……そんな血迷ったようなことを……」
心底不思議そうに、春明は言った。
「私なんかを妻にして、あなたが得することってある? ないと思うわ。他に何人も伴侶候補がいるんだから、何も私を娶らなくたって……」
この反応を受けて、黒龍は呆れると同時に、少々不愉快になった。自分が相手を求めるほど、相手は自分を求めていないという事実を示す態度だったからだ。
「今のおまえには、いくらでも利用価値がある。傍に侍らせて自慢するもよし、毎晩夜伽を務めさせるもよし。殺すより生かしておくほうが、俺の溜飲も下がるというもの」
「えっ? え? じ、自慢? 私を? あり得ないわ! そ、それに私を相手にしたら、生まれてくる子供に優れた資質は望めない……! だからこそ、本家は……」
春明は、しどろもどろになりながら、目を白黒させる。
「何を寝惚けたことを言っている!? この俺に術を仕掛けて殺しかけておきながら……」
黒龍は容赦なく一喝した。
春明はビクッと身を竦ませた。
「わ、わかったわ。あなたが望むのなら、妻に、なる……」
と、言った後――まだなお疑念を含んだような口調で、おずおずと続ける。
「けど、本当に私でいいの? ほら、私の身体って、いろいろと傷が多すぎるし、私自身は特に気にしてなくても、やっぱり男の人の目から見ると……。あっ、でもジェシスさんは綺麗だって言ってくれた……」
「何、だと?」
娘の台詞の最後に付け加えられた、何気ない呟き。しかし、それは到底聞き流せるものではなかった。
「おまえ、あの男に……!?」
肩をつかんで問い質すと、春明はさっと顔色を変えた。首を何度も左右に振る。
「違うわ! 彼にどうしても信用してもらいたくて、私が強引に身体検査を迫っただけ」
「……嘘じゃあるまいな?」
疑いの眼差しを向けると、春明は気分を害した様子で、きっと睨みつけてきた。
「嘘じゃない! ジェシスさんが、そんなことするわけないでしょう? あ、あなたじゃあるまいし……」
「ほう。俺じゃあるまいし、か。おまえも、ずいぶんな口を利く」
手痛い皮肉の言葉は、逆に黒龍の興を栄した。
「確かに、あの男はおまえをこんな目で見たりはしなかったんだろうな」
言いながら、目の前で膝を突いている娘の身体に、舐めるように視線を這わせる。
服の胸元は、はだけかけていて、布の隙間から素肌が覗いている。その上、春明は自分の下衣を脱いでこちらの身体に巻きつけたので、下半身は下着姿。腿から下の部分が剥き出しになってしまっていた。
邪な劣情を掻き立てずにはおかない、ひどく乱れた姿態だ。
「……先刻の続きは、俺の傷が癒えてから……高みの見物人がいない場所でな……」
黒龍は、娘の耳に囁きを吹き込んで、頭上の月に一瞥を投げた。
視線を戻すと、春明の頬は、月光でもそれとわかるくらい紅潮していた。今になって、時間差で羞恥心が込み上げてきたのだろう。
「怖いか?」
からかうように尋ねる。
「……まさか。あなたが私をどう扱おうと、今夜の私からあなたへの仕打ちより酷いってことはないはずだわ」
「……!」
否定の返答だけでも予想外だったが、それがどこか挑むような硬質な響きを帯びていたことに、黒龍は度胆を抜かれた。
「……おまえ……本当に、いつの間にそんなに強くなった……?」
もはや素直に感嘆しつつ、娘に問い掛ける。
方術の腕前にしろ、度胸のある言動にしろ、まさしく目覚ましい変身ぶりだ。
「やはり……二年前に狠毒娘娘と接触したことが関係しているんだな? 裏切りを働いてまで、あの女を助けようとしたのは、そこに理由があるんだろう」
ジェシスとかいう『国家守護者』と対峙していた間は、まともに考える余裕がなかったが、今となっては、そうとしか思えなかった。
「ええ……」
春明は頷いた。
「その身体を切り刻まれる以外に、いったい何があったというんだ?」
「……言葉じゃ、うまく表せない。でも、一番はっきりしている事実だけを、敢えて言うな
ら……」
春明は、唇に笑みを湛えて、明るく言った。
「彼女は、私の命の恩人よ」
「命の、恩人?」
あの女は、確かに、捕えた春明を殺しはしなかったが……それだけで『恩人』と呼ぶのは無理があるような気がする。
「……私ね、二年前のことで、あなたに内緒にしてたことがあるの。もちろん、本家にも報告してないわ。おじいちゃんにだけは言ったけど……」
「……? それは……?」
黒龍が先を促すと、春明は視線を地面に落とした。
「……直接情報戦で負けた後、実際に毒を呑んで自殺しようとしたこと」
「なっ……!?」
全くの初耳だった。鋭い衝撃が、心の芯を貫く。
「生きて返っても……母様は喜んでくれないだろうし、あなたやおじいちゃんや、周囲の他の人たちにも迷惑を掛けることしかできないなら、生きていても仕方ないと思ったの。役立たずの足手纏いは、さっさと世界から消えるべきだって……」
やや沈んだ声で、娘は告げた。
「毒を呑んだ私は、あちらの組織のお医者様の適切な処置のおかげで一命を取り留めた。だけど……そのときの私は、もう生きる意欲がなくて、ソフィシエに『殺してくれ』って改めて頼み込んだのよ。でも彼女は、そんな私を突き放して嘲って馬鹿にして……」
当時のことが思い出されるのか、娘の口調が揺らぎを示した。
「言われた直後は、激しい悔しさと怒りに駆られただけだったわ。彼女が私を叱咤して、死の誘惑から救い上げてくれたってことに気づいたのは、少し後になってから」
春明は顔を上げて、黒龍を真っ直ぐに目線で捉えた。
「尋問中に受けた傷が癒えるまで、ソフィシエやお医者様には、本来の意味で、ずいぶんお世話になったのよ。あちらでは、『無言の協定』が厳格に守られているって実感したわ。それから、私は解放されて、天華に帰ってきた。だから、梟武……」
真摯な面持ちのなかで、唯一、瞳だけを悪戯っぽく輝かせる。
「もしも、あなたが……今、私を手に入れて少しでも嬉しいと思ってるなら、ソフィシエに……その、感謝したって、いいくらいよ?」
そう口にしてから、自分で恥ずかしくなったのか、娘は再びうつむいた。
「ソフィシエが私を励ましてくれなければ、私はきっと……解放されても天華には戻らずに、どこかの山奥にでも入って自殺してたと思う。彼女の強さと優しさに、私は憧れて、彼女みたいな影の兵士になれたらいいと思って……この二年間、修練を積んだの。そう、まさに、一度死んで生まれ変わったつもりで……」
「そんな……そんな、ことが?」
打ち明けられた真実は、黒龍にとって、すんなりとは受け容れ難いものだった。
春明が人質にされていたとき、その目から零れる涙を見て、自分は相手が、気が狂れたわけでもなく裏切ったことを知った。
(だからこそ、余計に許せなかったものを……。裏にそんな過去があったとはな)
「……ごめんなさい。帰還してすぐに詳しい話をしていれば……もしかしたら、あなたは復讐なんて思い止まってくれたのかもしれないのに。私には、勇気が足りなかった」
春明は悲しげに謝った。
だが、黒龍には、相手の隠し事を責めることなど、とてもできなかった。
二年前の、あの時期、自分は多くのものを失ったことによって、半ば自暴自棄になり、荒れに荒れていた。
春明が話をできなかったのも当然だ。話したとしても、焼け石に水だっただろう。
(春明が今も生きているのは……狠毒娘娘と、『無言の協定』を忠実に守ろうとする偽善者たちの組織のおかげ、か)
改めて、そう考えてみると、何だかもう、どうしようもなく笑いたくなってくる。
――自分自身のことを。
春明は、二年前の経験を撥条にして、これほどまでの成長を遂げたというのに。
狠毒娘娘と交戦したとき、春明を守りきれずに逃げ帰ったことは、ずっと深く後悔していた。あれ以来、自分は変わるために、強くなるために、何をしてきただろうか?
狠毒娘娘に復讐してやりたい一心で、方術の腕は磨いたが、それだけでは強くなれたとは言えない。今夜の自分を振り返ってみれば、わかる。
目先の現実だけに囚われ、事の本質も、自分の本心さえも見極められなかった。
一歩間違えば、大事な存在を失うところだったのだ。
黒龍は、ちらりとジェシスの顔を思い出した。
春明を人質に取り、こちらを脅し、揚げ句の果てに自分自身を餌にして狠毒娘娘から魔の手を逸らそうとした、とんでもない『国家守護者』。
あの男が脳裏で考えていたことと言えば、誰がどこからどう見ても、たったひとつ。
――狠毒娘娘の命を守ること。
首尾一貫して、それだけだった。心理戦で読み合いをする必要などなかった。
その恐るべき単純思考の持ち主のことを、黒龍はほんの一瞬、羨ましいと感じた。
(選択したとき、自分に嘘さえ吐いていなければ、選択したことを後悔はしない。あの男は、そうほざいていたな……)
ならば、自分がこの先、すべき『選択』は――?
「ねえ……梟武。あなたが私を殺すより妻にすることを選ぶのなら、一生かけてでも今夜のことを償おうとは思うけど……本家が許してくれるかしら?」
春明が、ふと思い当たったように言った。
「私、あなたの伴侶には相応しくないって判断を下された身なのよ。本家は、私とあなたの結婚をたぶん認めない。どうすれば……」
「そんなことは関係ない! 自分の伴侶を選ぶのに、どうして本家に伺いを立てる必要がある?」
黒龍は反射的に口に出した台詞に、内心、自分でも驚いた。
「えっ!? で、でも、あなた、本家に逆らったりしたら、昔のおじいちゃんみたいに勘当同然にされちゃうかもしれないのよ? それでも、いいの?」
春明は意外そうな顔で、慌てて問い掛けてきた。
「……いいんだ。どうせ俺も、次期当主候補から外された身の上。勘当されたところで、さして状況は変わらない」
黒龍は今度こそ、はっきりとした意思の下に言葉を紡いだ。
「このままでは変わりようのない現状を変えるには、いっそ自分から家を出なければならないだろう。俺は決めた! もう、本家の命には従わないと……」
「本家から、離反するつもり……?」
春明が、心持ち青ざめた顔色になって訊いた。
「離反……? 違うな。俺が志すのは、反逆だ」
「反逆!?」
高い叫びが娘の口から発せられた。
「おい、春明。別に誰も聞いてはいないだろうが、声が大きいぞ」
黒龍が窘めると、相手は引きつった表情で言い返した。
「だ、だって、あなたがあんまり恐ろしいこと言うから……」
「何も明日、事を起こすとは言ってない。これからじっくり時間をかけて、計画を練り、足場を固める。たとえ何年後になろうとも……俺は必ずや本家を転覆させて、当主の座を……李家の実権を奪ってみせる」
さっき自分は一度死んだ。春明ではないが、『死んで生まれ変わったつもり』になって、既存の価値観、その呪縛を断ち切ろうではないか。
「この俺と、おまえのことを、散々虚仮にしてくれた本家の連中に、たっぷりと煮え湯を飲ませてやろう。これこそ正当なる復讐。独りでは無理でも、おまえとなら、きっと……」
「私、そんな大それたことできな……」
「へえ。今夜、俺と家と国とを裏切ったのは、どこの誰だったか……」
拒絶の声を上げかける娘に対し、黒龍はすかさず切り返した。
「……っ! わかったわ……。私の命は、すでにあなたのもの。反逆計画が失敗して処刑されることになっても、文句なんか言わない!」
半泣きに近い顔で叫ぶと、諦めたように娘は肩を落とした。
「そのときは、そのときだ。捕まる前に、おまえを連れてどこへなりとも逃げてやる」
黒龍は、春明を再び引き寄せて、腕のなかに囲う。
娘は、どこか安心したように、力を抜いて身体を預けてきた。
「……とにかく、あなたがソフィシエへの復讐以外の目標を持ってくれて、嬉しいわ」
ポツリと呟く。
「……おまえは心底、狠毒娘娘……ソフィシエ・シェスタに惚れ込んでいるんだな」
黒龍は、ひどく複雑な心境で苦笑を浮かべた。
「だが、復讐云々は別にしても、互いに影の兵士である以上、また戦場で見える可能性がないとは言い切れない。もしそうなれば……おまえはどうするつもりだ?」
たぶん『天兵を辞めたい』と言い出すだろうと予想して、尋ねた。
しかし――その予想は、残念ながら外れた。
春明は、二人の『国家守護者』たちを乗せた船が消えた方角に目を向けて、言った。
不敵と不安とを共に内包した、儚くも力強い声音で。
「そのときは、そのときよ……」