14. 老兵講述 歴史が語る憎悪の真相
「……なあ、じいさん。この船って、動力は何なんだ?」
大海に船出してまもなく、ジェシスは、最も素朴な疑問を口にした。
外見はごく普通の小型船なのだが、やはりスピードが異様に速い。おまけに、操舵手であるはずの老人は、何もせずに甲板に突っ立っているだけだ。
「最新式の内燃機関を搭載したとしても、ここまで速くはならねえと思うんだが……」
「推進力を生み出すのも、舵を取るのも、全て魔術制御らしいわ。単純に言えば、この船の燃料はおじいさんの魔力で、動力は固定魔術ってこと」
疑問に回答したのはソフィシエだった。先刻、老人と二人だけで船に乗っていたときに教えてもらったのだろう。
「へえ……。ってことは、じいさんも有能な方術士なんだな」
ジェシスは、顔面に吹きつける強風に目を細めながら、春明の祖父を見遣った。
小柄で痩せた老人ではあるが、背筋は真っ直ぐに伸び、立ち姿からはまるで弱々しさが感じられない。総髪の黒髪に白髪が交じってさえいなければ、後ろ姿は若者と見紛いそうである。
前方の海を眺めていた老人は、ジェシスの声に反応して振り向いた。
「まあ、そういうことじゃ。この船は、わしの意思ひとつで速度から進行方向まで自在に変えられるようにできておる。趣味の海釣りをするために買った船を、大幅に改造したんじゃよ。近頃は仕事が忙しくて、とんと使っておらんかったがのう」
老人は少し自慢げに説明してから、溜め息を吐いた。
「この船は、一時期あの岬に隠してあったこともあってのう。それで梟武の奴が嗅ぎつけたんじゃろう」
「……あなたの孫娘は……春明は、これからどうなるの?」
ソフィシエが尋ねた。その声は沈着ながら、微妙に上擦って揺れている。
影の戦場の一般的な規則に照らし、彼女にも春明の未来は予測できているはずだが――それでも、尋ねずにはいられなかったのだろう。
「敵を国外に逃がすために、仲間を裏切った揚げ句、攻撃して殺害したとなれば……極刑は免れんのが当然じゃと思わんか?」
「殺害……」
その生々しい響きを耳にして、ジェシスは唇を噛んだ。
「あの男は、やっぱり死ぬのか?」
ソフィシエは、考え込むように目を閉じた。
「……彼を閉じ込めてた膜、あれは『絶望の檻』だったわ。でも、彼の身体には、外傷があって出血していた……」
北大陸で『絶望の檻』と称されるのは、黒い膜のように見える障壁に対象を閉じ込め、その内部の空気を薄くして、呼吸困難に陥らせる魔術だ。
空気濃度の加減によって、対象の意識を失わせることも、窒息死させることもできる。
当然、魔術の詠唱を抑制する効果もある。
だが、身体に傷を負わせるという効果はないはずだった。
「おそらく、立て続けに二種類の術を発動させたんじゃろう。梟武ほどの実力を持つ術士を完全に封じるには、檻だけでは不十分じゃからのう」
「まず何らかの術で攻撃して、行動不能になる程度の外傷を負わせてから、『絶望の檻』に閉じ込めた……ってこと?」
少女の推測に、老人は頷いた。
「だけど……春明には、彼を殺すつもりはなかったはずよ! 少なくとも、彼を殺したいとは思ってなかったはずだわ」
ソフィシエは、きっぱりと断定した。
「じゃが、現実として梟武は重傷を負った。あのまま死んでも何ら不思議はない。春明は術の制御に失敗したのかもしれんが……いずれにしろ、自分で意図して梟武を攻撃したのは事実じゃ。あの娘は、もとより重い制裁を受ける覚悟を決めておった。仲間殺しの罪が加わったとて、今更取り乱しはすまい」
「じいさん……それは違うんじゃねえか?」
ジェシスは咄嗟に反駁した。
「春明が黒龍を殺したくなかったとしたら、それは殺すと罪が重くなるっていう理由からじゃねえだろう」
すると、老人は興味深げに双眸を光らせてジェシスを射た。
「……ほう。おまえさん、どうしてそう思う? 春明が梟武との関係について、何か言及したか?」
この老人、顔立ちだけ見ると温和な感じだが、目の奥に潜む眼光は鋭く、見つめられると落ち着かない気分になる。
「そう言えば、ジェシス。あなた、春明を人質に取ったとき、最初からやけに強気な態度
だったわよね。さては、春明から何か聞かされてたんでしょ?」
ソフィシエも、問い詰めるような口調で迫ってきた。
「べ、別に俺は何も聞かされてねえよ。春明は、黒龍のことを同僚だって言っただけだ」
老人と少女から探るような目で見られ、ジェシスは狼狽する。
「春明に人質としての価値があると思ったのは、半分は勘だ、勘! 残りの半分は、黒龍の言動だよ。あの男の表情や言葉の端々には、内面の感情が如実に表れてたからな。春明の裏切りを知って、あれほど激昂したのも……つまり、要するに、アレだろう、アレ」
「……『可愛さ余って憎さ百倍』?」
「そう、それだ」
ソフィシエの示した表現に、ジェシスは同意した。
すると、彼女は脱力したように肩を落とした。
「あなたにしては冷静な対象分析だと褒めてあげたいけど、結局は直感ね。確かな根拠はどこにもない。それでよくあんな大胆な行動を起こす気になれるわね……」
(そりゃあ、ああするしかおまえを助ける道はなかったからな!)
ジェシスは、心中でこっそりと独り言ちる。
自分の直感の的中を確信した後も、綱渡りの駆け引きが続いた。あの状況においては、春明の存在が、唯一の命綱だったのだ。
「直感で梟武の心理を見抜いたか。あやつもひねくれたように見えて、わかりやすい性格をしておるからのう。未熟で阿呆で困ったものじゃ」
その辛辣な批評の直後に続いた老人の台詞に、ジェシスは目を見張った。
「……まったく、わしの若い頃に似て、愚かな孫息子じゃわい」
「ちょっと待て! じいさん、あんたは春明のじいさんなんだろう?」
慌てて指摘すると、老人はニヤリと笑った。
「おまえさんたちが、今回のことを、影の戦争から派生した事件としてドライに割り切るなら、何も話すまいと思ったんじゃがなぁ。やはり、そういうわけにもいかんか」
老人の口から決定的な語句が飛び出した瞬間、ジェシスは身を強張らせた。
これまで何気なく会話してきたが……この老人は、表も裏も、全てを知っているのか?
「じいさん、あんたは……?」
「まずは自己紹介しようかのう。わしの名は李雄虎。二代前の黒龍で、元天兵じゃ。春明と、おまえさんたちの言う黒龍……梟武の祖父でもある」
「元天兵……」
ソフィシエは、警戒心の混じった視線を老人に向けた。
「これこれ、そう恐い顔をするでない。わしが春明との約束を破って、おまえさんたちを海の藻屑にするとでも思うか?」
老人――雄虎は苦笑いしながら言った。
「おまえさんたちは、わしの孫娘と親しくなりすぎたようじゃな。すでに影の兵士としての意識を逸脱してしまっている。おまえさんたちは、春明と梟武が互いに深い関係にあると読んで、それがどんなものか気になっておるのじゃろう? 春明の友人としてな」
「深い関係って……単なる血縁関係以上の関係があるの? それは……もちろん、気にはなるけど……」
ソフィシエは、うつむきながらも正直に言った。
「では教えてやろう。春明と梟武はな、許婚同士じゃ」
衝撃的事実は、あまりにもさらりと述べられた。
ジェシスは、たっぷり一呼吸ぶん硬直してから――
「い……い、許婚!?」
仰け反った。
「ちょっと待て! じいさんが同じの男女が結婚するって、アリだったか?」
「落ち着きなさいよ、ジェシス。アリでしょ? 二人は従兄妹同士なんだから……」
ソフィシエは、さして驚いた様子もなく、冷静だった。
「特に、魔術の資質を持つ家系では、その資質を保持するため、あるいは高めるために、血族結婚が奨励される場合が少なくないわ。従兄妹同士なんて、典型的な例よ」
「その通り。比較的近い親戚間の結婚は、北大陸のルミナスでも、我らが天華でも、しばしば見られることじゃ」
雄虎はソフィシエの言葉を全面的に肯定した。
「じゃが、厳密に言うと、春明と梟武は、元許婚同士。今は、その関係はない。二年前に解消されてしまったからのう」
「二年前……? もしかして……」
少女の顔が、わずかに曇った。
「ああ、まあ、直接のきっかけとなったのは、あのときの春明の失態じゃが、そんなものは口実に過ぎん。春明は、生まれたその瞬間に梟武の許婚と定められたものの、成長するに従って、梟武の伴侶とするには不適格だと見なされるようになってな。李家は、婚約を解消させる機会をずっと窺っておったんじゃよ」
「二年前、わたしと関わったことがもとで、春明は婚約を解消されて、そして……黒龍は家の次期当主候補から外された……」
「おお、そうじゃ。その話は聞いたんじゃな?」
重く呟くソフィシエとは対照的に、雄虎の喋り方はむしろ軽快だった。
「天華では、方術士は皆、二つの名前を持っておる。二つ目の名は、術士としての身分を示す称号のようなものじゃ。なかでも『黒龍』という称号には特別な意味があってのう。ひとつの世代ごとに、一族内で術士として最も優れた資質を持つ者に授けられる」
「そういうことなら……『黒龍』の称号を得た者は、必然的に、家の当主に選ばれる確率が高くなるのね」
ソフィシエが言った。
「そうじゃ。最も若い世代において『黒龍』の称号を持つ梟武は、次期当主の最有力候補じゃった。おまえさんたちが知っているであろう事情で、その地位を剥奪されたがのう」
「なあ、じいさん。さっきから『李家』だの『一族』だの言ってるが、いったいどういう家柄なんだよ? これまでの話からすると、あんたも春明も黒龍も、その『李家』の人間ってことになるんだろ?」
ジェシスが忌憚なく質問をぶつけると、雄虎は眉を動かした。
「全く何も知らんか。まさか『国家守護者』相手に面と向かって李家を語る日が来るとはな……」
しわがれた低い声に、ありありと驚きの色が表れる。
「李家というのは、天華で最も有力な方術士の一族……この国を守る剣となることを宿命づけられた家じゃ。そう言うと聞こえはいいが、その実態は、国の暗部を担うという役割にがんじがらめに縛られた、哀れで愚かな罪人どもの集合体じゃよ」
老人の皮肉げな語り口には、自嘲の念が見え隠れしていた。
「……春明も、哀れな娘。あの娘の持つ、優しさや思いやりという美点は、李家においては『無能』『臆病』『意気地なし』としか評価されん。貶され続けて育ったせいか、方術の資質も二年前まで、ろくに開花せんかった」
「春明は……不幸なの? 生まれたときから、ずっと……?」
ソフィシエが、やや躊躇いがちに訊いた。
「この家に生まれたことは、まさに不幸としか言いようがないじゃろうな。ただ、李家のなかでも、わしを除いてたった一人だけ、春明の持つ性質の価値を見抜き、それを愛でてきた者がいる」
「春明にとって、不幸中の幸いってやつか……」
「不幸中の幸いか、不幸中の不幸かは、解釈次第かもしれん」
「……? 誰なんだ?」
意味深な言葉に、ジェシスが首を傾げると、雄虎は口の端を上げた。
「梟武じゃよ」
「げっ!? そういうことかよ……」
ジェシスは思わず眉間に皺を寄せた。
「梟武は幼い頃、許婚だった春明と共に育った。そのうちに、李家における『異端の娘』の貴重さを悟ったんじゃろうな。あやつは子供のときから、強く春明に執着しておる」
「……けれど春明のほうも、彼のことを嫌ってはいないわよね。そうじゃなきゃ、あんなふうに涙は零れないもの」
ソフィシエは独白めいた呟きを漏らした。
「確かに嫌ってはおらん。兄代わりの幼馴染みとして、梟武を慕っておる。じゃが、それ以上の感情についてはわからんよ。二年前、許婚の立場を失ったときも、春明はあっさりと受け容れて、嘆くことはなかったしのう」
「じゃあ、婚約の解消は、ある意味僥倖だったんじゃねえか? あんな危ない男に、春明みたいな女はもったいねえからな」
ジェシスの口を突いて出た率直な感想に、雄虎は喉を鳴らして笑った。
「そうか、梟武に春明はもったいないか。ついにあの二人も完全に評価逆転じゃな。そう言うなら、おまえさん、梟武に代わって、あの娘の伴侶になってやってくれんかのう?」
「なっ……」
突拍子もない依頼に、ジェシスは一瞬、思考停止状態に陥った。
「じ、冗談だよな?」
「何じゃ、そんなに嫌か?」
「嫌とかどうとか、そういう問題じゃねえだろ!」
からかわれているのだと知りつつも、反射的に怒鳴り返す。
すると、なぜか雄虎は急に真顔になった。
「……そういう問題じゃよ」
「……………………………」
ジェシスは戸惑いを覚えながら、黙って老人を見返した。
「体中、傷だらけの娘を妻に迎えてもいいという男が、この世に何人くらいいるか……。つまりは、そういう問題じゃ」
ジェシスの隣で、ソフィシエがビクリと反応した。
「勘違いするな。おまえさんを責めてはおらん」
春明を傷つけた張本人である少女に、老人は意外にも穏やかな眼差しを向ける。
「わしが言おうとしたのは、今も昔も、春明に用意された選択肢は極めて限られておるという現実じゃよ。梟武との婚約が破棄されようとされまいと、李家に生まれた以上、普通の男と結婚して幸せになる望みはない」
雄虎は淡々と、冷徹とも言える口調で断言した。
「もっとも、選択肢がないのは梟武のほうとて同じ。家の都合で引き合わされ、家の都合で引き裂かれた……本当に、どうしようもない孫たちじゃ」
「……だが、じいさん。黒龍……いや梟武が春明に執着してるなら、そう簡単に諦めたりはしねえよな。こいつが……ソフィシエが憎まれたのも、右脚切断で次期当主の座が云々っていうより、むしろ春明を傷つけて婚約解消の原因を作ったからじゃねえのか?」
ジェシスは、思いついた推測を口に出した。
将来、自分のものになる予定だった許婚の女を、文字通りの『キズモノ』にされた男の怒りは、決して小さくなかったはずだ。
「確かに、そのせいもあるじゃろう。しかし、理由は、まだ他にもあるぞ」
雄虎は、思い掛けないことを言った。
「梟武を含めた天兵たちが、おまえさんたち『国家守護者』を恨む理由……そのぶんじゃと、何もわかっておらんようじゃな」
「……!」
その台詞を聞いたとき、ジェシスは咄嗟に叫んでいた。
「教えてくれよ、じいさん! その理由……!」
自ら元天兵だと名乗った老人は、ジェシスの要求に応じて頷いた。
ソフィシエとジェシスを見送った春明は、自分の展開した術をすぐさま解除した。
血を流して倒れている青年に駆け寄る。
「黒龍! 梟武、梟武! しっかりして! 今、手当てするから」
方術の檻から解放された黒龍は、大きく喘いでいた。空気の薄い空間に閉じ込められていたのだから、当たり前だ。
喘ぐたび、表情が苦しげに歪む。呼吸をすると、腹部に負った傷が痛むのだろう。
春明は下衣を脱ぎ捨て、引き裂いて帯状にした。それを包帯代わりとして、黒龍の傷口に何重にも巻きつける。
ところが――出血は簡単には止まらなかった。見た目はそれほど大きな傷ではないにもかかわらず、じわじわと血が滲み出してくる。
(もしかして、内臓が傷ついてる……?)
その可能性が高かった。
(やっぱり私は一人前なんかじゃない! とんだ未熟者だわ……)
発動させた術によって、ジェシスまで吹き飛ばしてしまったときは、胸が凍りついた。この自分の紡いだ術が、あれほどまでの衝撃を生むとは予想外だったのだ。
その事実が示すように、自分は術の威力調整を誤った。
首を絞められるジェシスの姿を目の当たりにして、感情が昂っていたせいだろうか。
言い訳ならいくらでもできる。しかし現実は変わらない。
「春明……もういい。俺のことは、捨て置け」
黒龍は、薄く目を開け、掠れ声で言った。
「おまえは……俺ではなく、狠毒娘娘たちを選んだ。俺が、おまえの命ではなく、自分の復讐を選んだようにな……」
「でも! あなたは結局、私のこと見捨てなかったわ!」
春明の反論が聞こえなかったかのように、黒龍は続けた。
「空術によって、できた傷なら、刃物で刺された傷と言っても通用する。本家には、適当に報告しておけ。俺は、間抜けにも狠毒娘娘に捕まったおまえを、助けようとして、返り討ちに遭ったとでも言えばいい」
「報告なら自分で行って! 私、あの家には近づきたくない!」
「それは……無理だ」
「梟武!」
「おまえごときに、こんな目に遭わされるとは……俺も終わりだ。もう死んだほうがましというもの」
「な、何よそれ! 馬鹿にするのもいい加減にして! 私だって、強くなったんだから」
春明は、あらゆる意味での憤懣を込めて、文句を吐き出した。
だが、黒龍が切り返してくることはなかった。
彼の呼吸が、少しずつ弱くなってきているのを感じて、言い知れぬ恐怖に駆られる。
黒龍の傷は――致命傷? 彼はここで死ぬのか?
恐ろしさに耐え切れなくなった春明は、やおら行動を起こした。
近くに落ちていた黒龍の短刀を拾い上げて、それを持ち主の手に握らせたのだ。
「梟武、裏切った上に文字通り刃向かった私が憎いでしょう? だったら殺して。どうせ私は遠からず制裁を受けて死ぬわ。それなら、いっそあなたの手で、今!」
「馬鹿を言え……。そんなことが、できるか」
黒龍は、ひどく忌々しげにこちらを睨みつけた。要するに、こちらを刺し殺すだけの力が、もはやないということだろう。
「じゃあ、あなたが死んだら、私はここで自殺するわ」
しかし、春明の考えは見当違いだった。
「この痴れ者が……! 俺がやっても、自分でやっても、同じことだ」
黒龍は、さらに表情を険しくした。
「こんなところで……二人仲良く死体で発見されてみろ。狠毒娘娘と戦って戦死したと、普通に解釈されれば、問題ないが……ことによっては、曲解されて、とんでもない誤解をされる、ことになるぞ!」
「誤解……?」
「そうだ。元許婚同士……引き裂かれたことを、苦にしての、心中だとな……!」
「えっ……?」
意外なことを言われ、春明は動揺する。考えてみれば確かに、そう思われる確率も低くはないかもしれない。
「ただの心中なら、まだいい。下手をすれば、無理心中だ。この俺が……死の真相をごまかすために、『国家守護者』が現れた、という虚偽を吹聴したなどと……疑われたら……どうしてくれる?」
黒龍の絞り出すような声には、恨めしげな響きすらあった。
「虚偽だなんて、まさか……」
実際、ジェシスは天兵たちと交戦しているのだし、全てが狂言だったと思われることはないはずだが。
「ただの心中と……解釈されたとしても、まずいことに変わりない。末代までの恥だ」
「あなたって人は! この期に及んで、体裁なんかを気にするの?」
彼らしいと言えば彼らしいが、呆れたくなる。
「ねえ、なら死なないで! あなたが死んで私が生き残ったら、最悪よ? 私、本家に、あなたがどれだけ無様な死に方をしたか、面白おかしく話してやるんだから!」
耳元に顔を寄せて怒鳴ると、相手は顔をしかめた。
「うるさいな……。脳味噌の欠けた……おまえと喋っていると……やたらと疲れるんだ。少し、休ませて、くれ……」
呟くように悪罵を漏らして、瞼を閉じる。眠りに入るときのように、ごく自然に。
「自分の立場を……守るために……おまえはむしろ……俺に止めを、刺すべきだ。その刃を……向けるべき……なのは、自分ではなく……俺の……」
黒龍の言葉は、ここで途切れた。
「ちょっと! 梟武! 起きて……!」
どれだけ呼びかけても、目を開けてくれない。
口許に手をかざすと、かすかな息が触れた。だが、本当に弱々しい。
(どうしよう……)
――どうしようもない。
出血のひどい黒龍を、この場から動かすわけにはいかない。人を呼びに行くにしても、ここからでは相当時間がかかってしまう。
(伝言鳥を自力で生み出せるなら、助けを求めることも不可能じゃないのに……)
あれほど高度な術は、術符の力を借りなければ使えない。飯店を出るとき、祖父の部屋から密かに持ち出した術符は、さっき使ってしまった。
――彼はここで死ぬのだ。
(これが……これが、私の選択の結果……)
黒龍の死。
それが、選択の代償として支払わなくてはならないもの。
友達を救うために、自分は幼馴染みを殺した。
子供の頃、ずっと傍にいて、さまざまな脅威から自分を守ってくれた従兄を……。
(……今も後悔はしてない)
ジェシスには死んで欲しくなかったし、ソフィシエには自分を責めて欲しくなかった。
選択したとき、自分に嘘は吐かなかった。
(だけど、私……一方で恩返しを気取って、もう一方では恩を仇で返してる)
三人ともを救うことはできなかった。運命を完全に捩じ曲げることはできなかった。
自分には所詮、これが限界なのか。
そもそも、欲張りすぎる願いだったのか。
春明は、天上の月を振り仰いだ。
(月亮娘娘、もしも見ていらっしゃるなら、どうか……)
――この人を死なせたくないんです。
(自分の持ち物ならば、命でも何でも差し上げますから)
――助けてください!
女神に祈ることも、またひとつの選択か。
涙を堪えるために、春明が、きつく目を閉じたとき――
銀色の小さな光の粒が、虚空に降って湧いた。
それは、意識を失った青年の身体の上で、一瞬だけ輝き、そして弾ける。
春明は、自分が喚んだ『奇跡』に気づかなかった。
「影の兵士の世襲制……!?」
老人の告げた事実は、思っていたよりも、ずっと単純なことだった。
だが、それだけに、ジェシスにとって大きな驚きだった。
天華では、いくつかの特定の家が、代々影の兵士を務めるよう定められており、天兵の職務は親から子へ、そして孫へと受け継がれていくものだという。
長い影の戦争の歴史のなかで、この事実がどういう意味合いを持つのか……少し考えてみればわかる。
天兵の子は天兵、つまり、影の戦争で命を落とした天兵がいて、その天兵に子供がいたとしたら、その子供にとって、親を殺した相手は、通常の意味での『敵』であると同時に『仇』でもあるということになる。
代々そんなことが続けば、敵対する組織に恨みを抱くようになってもおかしくない。
親兄弟の仇、祖父母の仇、先祖の仇――どうやら、PSBは、天兵たちにそういうふうに認識されているらしい。複数の世代を経て凝縮されてきた恨みと憎しみが、現役の天兵たちの胸にも根付いているというのだ。
その事情は……心情は、同じ人間として理解できないこともない。
しかし――
「だからって、そういう理由でわたしやジェシスが恨まれるのは、納得できないわ」
ソフィシエが、憤慨したような調子で言った。
「……だよな。俺たちは、そういう過去とは直接的な関わりを持ってねえ。そんな因縁を知ってたら、半ば休養目的で天華に来るわけねえし」
ジェシスは困惑を感じながら、軽く溜め息を吐いた。あの五人の天兵たちの態度の真相は判明したが、どうにもすっきりしない。
「やれやれ、おまえさんたちは本当に世代交代が激しいようじゃのう。わしらにとっては昨日のこと同然でも、おまえさんたちにとっては与り知らぬ過去、か……」
雄虎は、薄く苦笑を浮かべてこちらを見ている。
「まあ、それも仕方ないことよ。『国家守護者』は世襲制などではないんじゃからな」
彼の口調に、責めるような響きはなかった。
「当たり前のことじゃが、天兵が敵視する組織は、何もPSBだけではない。ただ、過去の一時期、天華とサーヴェクトは影の戦場で激戦を繰り広げたことがあってな。ゆえに、そのときのことを引き摺って、今でも『国家守護者』を特に憎む天兵が多いんじゃよ」
「過去の一時期って……具体的には、いつ頃なんだ?」
ジェシスが尋ねると、老人は、しばし瞼を伏せた。
「……それほど遠い過去というわけでもない。そう、このわしが現役だったころじゃ」
しわがれ声が、ふと緊張感を帯びて、鋭いものに変化した。
「当時、わしは敵対する『国家守護者』たちから、通り名である『黒龍』ではなく、本名をもじった『凶虎』という名で呼ばれておった。なぜだかわかるか?」
こちらと真正面から向き合って、雄虎は告げた。
「殺したからじゃよ。この手で、おびただしい人数の影の兵士を、無慈悲にな……!」
その瞬間、老人の目を、昏い何かがギラリと過ぎった。
それはまさに、血に飢えた猛獣の瞳の輝き、あるいは刃物の切っ先が宿す冷光。
ジェシスの身体に震えが走った。
隣を見ると、ソフィシエが、少し青ざめたような顔で身構えている。
(な、何なんだ、このじいさん……!)
この威圧感、この禍々しい迫力は、まともな人間の持ち得るものではない。
黒龍……梟武の身に纏っていた気配にも類似しているが、こちらのほうが何倍も濃い。
「天華の国益を追求する天兵として、わしは何度も『国家守護者』たちと戦い、何人もの敵を殺害した。無論、ただ殺しただけではなく、長い拷問の果てに死なせた相手も少なくなかった。若い頃のわしは、何年もそうした行為を続けていた……」
そこまで言うと、雄虎は表情と声音を改めた。
殺気じみた気配が消え失せ、もとの温和な雰囲気に戻る。
「……ある出来事をきっかけに、人殺しが嫌になって、天兵を辞めてしまうまでな」
「ある出来事……?」
威圧感から解放されたジェシスは、やっと肩の力を抜いた。
「わしの妻であった娘……春明や梟武の祖母にあたる女は、あるとき敵方に捕われ、若くして獄死を遂げたんじゃよ。殺す者は殺される覚悟を同時に持たねばならん……。わしの場合、殺した報いは、自分の命ではなく妻の命じゃった。それ以来、人を殺めるのが恐ろしくなってな。わしは早々に影の戦場から身を引いたんじゃ」
「あなたの伴侶もまた、影の兵士だったのね……」
ソフィシエが、そっと呟いた。
「ああ、そうじゃとも。わしは妻を亡くした後、人殺しに嫌気がさして、医者の真似事をしたりもしたが……自分の娘や息子たちが、同じく影の兵士として戦場に出るのを止めることはできんかった。梟武の両親と、春明の父親は、もうとっくにこの世におらん」
「春明のお父さんも……!?」
悲痛な声を上げかけた少女を、老人は軽い身振りで制した。
「……重ねて言うが、全員がPSBとの衝突で命を落としたわけではないぞ。天華はサーヴェクトに匹敵するくらい敵の多い国じゃからのう。ただ、梟武の母親については、『国家守護者』との戦闘で死んだとされておる」
「なるほどな。そういうことも、俺たちに対する感情に影響を与えてるってわけか……」
黒龍の憎悪は、いくつもの要因が複雑に絡み合って増幅された末に生じたもの。
そう考えると、やはりジェシスの気分も複雑だった。
「梟武が憎むべきなのは、勝手気ままな采配で人生を狂わせた本家の連中じゃ。実際は、あやつも悟っておるに違いない。それでも、おまえさんたちに怒りの矛先を向けたのは、そのほうが楽だからじゃろう。身内よりも、仇敵を恨むほうがな……」
「……ねえ、おじいさん。あなたは、孫息子と似たような感情を持っていないの? 古い出来事はともかくとして、たった二年前、わたしが春明をどんな酷い目に遭わせたのか、あなたにはわかっているはず」
ソフィシエが、不意に老人に問い掛けた。ことさら冷淡に聞こえる声で。
「春明との約束を守って、わたしたちを船に乗せてくれているけど……あなた自身の本音は、どうなの?」
(……きわどい質問だな)
ジェシスはドキリとした。
しかし雄虎は、穏やかだが底の読めない顔つきを崩さずに答えた。
「さっきも言ったと思うが、二年前の件でおまえさんを責める気は、ない。孫娘がサーヴェクトで捕われたと知った時点で、わしはすでに諦めておった。妻のように、もう二度と会えんじゃろうとな。それが生きて帰ってきたんじゃから、素直に感謝感激したわい」
「……わたしは『無言の協定』を守っただけよ」
「いいや、おまえさんは、命を救っただけではなく、別の意味でも春明を救った。二年前から、あの娘は目に見えて良い方向に変わったんじゃ。何より、春明本人がおまえさんのことを好いているようなのに、どうしてわしがおまえさんを悪く思う必要がある?」
「………………………………」
老人の好意的な言葉を受けても、少女は浮かない顔をしていた。
「そうそう、わしの薬湯はよく効いたじゃろう? わしからの、せめてもの感謝の気持ちじゃと思ってくれ。ちいとばかり効きすぎたようで、春明から大目玉を食らったがのう」
雄虎は悪怯れずにカラカラと笑った。
(こ、このじじいは……!)
ジェシスは両手を握り締めた。その突っ込みの延長線で、勢いに任せて口を開く。
「……おい、じいさん。過去の因縁にこだわらずに、今こうして俺たちを助けてくれてることは、ありがたいと思ってる。だが、ひとつ言わせてもらっていいか?」
「何じゃ?」
「春明に命懸けで助けてもらって、のうのうと逃げてきてる俺が言えた義理じゃねえかもしれねえが……あんた、何でそんなふうに笑えるほど落ち着いてんだよ?」
「ふむ……? 落ち着いておったら悪いか?」
「あのなぁ、今の状況を、もう一度よく考えてみろよ。春明はあんたの孫娘で、黒龍こと梟武はあんたの孫息子だ。春明は極刑に処されるのを覚悟の上で、梟武を攻撃した。その攻撃で、梟武は瀕死と見られる重傷を負った。この二人は同僚で、従兄妹で、幼馴染みで、しかも元許婚同士なんだろ? そんな孫娘と孫息子が、対立して、殺し合ったようなもんなんだぞ? もちろん、全ての元凶は、俺たちが二人に関わったことだがな……」
飄々とした態度をとる老人に、少々怒りを覚えながら捲し立てる。
「自分の孫二人が、極めて重大な危機に直面してるってのに、放っておいていいのかよ!?」
つい叫んでしまってから、ジェシスははっとして、手で自分の口を押さえた。
悟るまでもなく、最後の言葉は完全に失言だった。
「……確かに、放っておくのは祖父として無責任かもしれんのう。では戻るか。それこそ春明の願いを粉微塵にする行為じゃが」
「……っ」
雄虎は失言を聞き流してはくれず、ザクリと反撃してきた。
「悪かった……。俺も、春明の意志は承知してる」
ジェシスは、うつむいて詫びた。
「今回、春明も梟武も、誰に命じられたわけでもなく自ら行動を起こし、あのような結果を招いた。その結果を引き受けねばならんのは、あやつら自身じゃ。薄情なようじゃが、二人とも現役の影の兵士である以上、とるべき責任というものがある」
老人は厳しい顔で、ゆっくりと言葉を紡いだ。その後、ふと眉尻を下げる。
「とはいえ、あの二人ならば、どうにか最悪の事態を切り抜けるのではないかと期待する祖父心もあってのう。今は、せいぜい女神に幸運を祈ることくらいしか、可愛い孫たちにしてやれることはないが……全ての道理を捨て、単なる祖父馬鹿に成り下がって言わせてもらえば、二人の孫には、生きて夫婦になってもらいたいんじゃよ」
戯言めかしてはいるが、これこそが、この老人の本心なのだろう。
「梟武は同類嫌悪なのか、わしのことを敬遠しておるが、とにかく昔のわしに似ておる。そして実はな、春明は、わしの妻だった娘に気立てから何からそっくりなんじゃ」
内緒話でもするように声を潜めて囁くと、雄虎はソフィシエを見た。
「おまえさんに唯一、恨み言を吐くとしたら……初ひ孫を拝む機会をわしから遠ざけたということかのう」
「春明にそっくりなら……あなたの伴侶は優しい女性だったということね」
ソフィシエの言葉に、老人は深く頷いた。
「そうじゃ。それゆえ、戦場で早死にした……」
その声音には、やるせなさが含まれていた。
「優しさは美徳、じゃが……戦場では、ときにそれが致命的な欠陥となる。春明も、能力が開花したところで影の兵士に向いているとは言えん。そういう意味では、おまえさん、ジェシスと言ったか? おまえさんも明らかに向いておらんぞ」
「う……」
ずばりと指摘され、ジェシスは呻いた。
何も反論できないのは、こういう類の台詞を、すでに多くの人間からぶつけられているからだ。経験上、どうしても否定しきれないと思い知っている。
「……まあ、さらに言えば、おまえさんたち二人と、わしの二人の孫、四人とも見事に影の兵士失格じゃがのう! ほっほっほ……」
雄虎は、唐突に声を大きくして言い放つと、ちょっとわざとらしく哄笑した。
「影の戦争は、国々が水面下で勢力を争うパワー・ゲーム。影の戦場はそのゲーム盤で、影の兵士はその駒にして消耗品……。十年足らず前に『無言の協定』という温いルールができてからも、その本質は変わっておらんはず。なのに、わしの孫たちやおまえさんたちときたら、私怨やら友情やら、個人的な感情を持ちすぎじゃ。ゲームの駒としての自覚が足りん。まったく、なっとらん!」
年寄りにありがちな説教調子で怒鳴った後、またニヤリと笑う。
貶すような発言をされたというのに、ソフィシエは何も言い返さなかった。滅多にないことだ。今回ばかりは、彼女も認めているのだろう。自分が、影の兵士として適切に感情を処理できなかったということを。
「……一切の甘い感情を排して国の剣に徹することができぬ者は、本来、影の兵士失格。それでも、人間失格とは限らん」
老人は表情を緩めたまま、腕を組んで、うつむき加減になった。
「良い兆候か悪い兆候かはさておき、異なる国に属する影の兵士が互いに友情を結ぶとは……稀有なことよ。これも、時代の流れというやつかもしれんのう。『無言の協定』の締結以来、影の戦場での人死にが減ったことも、個人的には喜ばしいと思っておる。天華には否定派が多いゆえ、十分に浸透しておらんのが現実じゃがな」
感慨深げに言うと、顔を上げて、すっと真剣な面差しになる。
「おまえさんたち……今回の件、母国に戻ったら忘れろとは敢えて言わん。ただし、妙に気に病むのは止せ。わしの孫娘である李春明が、ほんの一時でも、おまえさんたちの真の友人であろうとしたこと……それだけを心の片隅にでも置いてもらえれば、あの娘も本望じゃろうて。行く末を案じるには及ばん」
雄虎は、強い視線で射抜くようにこちらを見つめ、低く命じた。
「よいか、わかったな? 若き『国家守護者』たちよ」
有無を言わせぬ口調で、念を押してくる。
「ええ……」
「……ああ」
ジェシスは、ソフィシエと共に、ただ静かに頷いた。