13. 堂妹倒戈 遣り直された離別
船が岬から離れ、海面を滑り出した瞬間、ソフィシエはこちらに背を向けた。
その動作を見届けると、ジェシスは春明を解放した。短剣を握った手を下ろして、自ら一歩後ろに下がる。
途端、黒龍の口から天華語の羅列が発せられた。
(方術詠唱!?)
ジェシスは反射的に身構える。その直後、自分の身に異変が生じた。
身体を襲ったのは、強烈な緊縛感。締め上げられて、右手の短剣を取り落とす。
腕と胴をまとめて縄でぐるぐる巻きにされたかのようだ。視覚では縄など確認できないが、現実として著しく身動きが制限されている。
「く……『見えざる鎖』……!?」
ジェシスの持つ魔術に関する知識は微々たるものだが、それでも、この感覚には覚えがあった。
「よく知っているな。北大陸ではそう呼ばれている術だ。これで暴れる気も起きまい?」
黒龍が、すぐ隣まで来て言った。
「短剣一本で魔術士相手に暴れようとは思わねえよ」
「こちらも自称暗殺者相手に油断するつもりはない」
ジェシスの言葉に対し、全く同じ調子で黒龍は言い返した。
「せっかく手に入れた、世にも貴重な情報源だ。逃げられたり、ここで自殺されたりしても困る」
「……それが本当の狙いか。ソフィシエを放し、俺を捕えたのは」
――案の定だ。
黒龍は、銃による暗殺を恐れて身代わりを認めたわけではないらしい。
(こいつ……逆上して何だかんだ口走ってたが、やっぱ根はしたたかで計算高いな)
最終局面になって、復讐の成就よりも実利の獲得を選んだのだから。
ジェシスは、自分の思い通りに餌に食いついてくれた男に対し、皮肉たっぷりの賛辞を贈った。
「私怨よりも、国益を優先する……。まさに影の兵士の鑑だな」
だが、相手は、まるでこちらの心を読んだかのように切り返してきた。
「自分が撒いた餌に、俺が食いついて満足か?」
「……!」
「サーヴェクト人技術者の国外拉致が国際問題として取り沙汰される昨今、銃使いという身分を進んで明かすのは、単なる阿呆か、何か考えがあるかのどちらかしかない。貴様は後者だろう? 俺の興味を引こうとして、貴様は自分が銃使いであると告げた。そして、脅すようなことを言いながら、自分の価値を売り込んでもいたな?」
ジェシスは、驚きを禁じ得なかった。
(俺の心理を、そこまで正確に見透かしてやがったとは……)
「たいした慧眼だな、黒龍。それとも俺が単純すぎるだけか。まあ、結果的に俺の目論見が成功したことには変わりねえから、そんなことはどうだっていいが」
「……確かに、俺は狠毒娘娘に対する直接的な報復は断念した。だが、俺は貴様を手中に収めると同時に、あの女への復讐も果たしている」
黒龍は、口調に愉悦を滲ませる。
「高慢で不遜な態度を見せた女が、無様に取り乱す姿を眺めるのは、最高に愉快だった。狠毒娘娘といえども、所詮は人の子、やはり弱みはあるようだな」
「当たり前だ!! 狠毒娘娘だの『血塗れの乙女』だのと呼ばれてたって、あいつは人の子……全能でもなければ非情でもねえ!」
カッとなって怒鳴った次の瞬間、ジェシスは冷静さを取り戻していた。ふと脱力する。
「そして、おまえも間違いなく人の子だ……『いやな顔』」
黒龍の顔を覗き込むようにして告げる。相手の肩越しに、強張った表情で立ち尽くす娘の姿が見えた。
「ひとつ、いいことを教えてやるよ。春明の裏切り、おそらくまだ他の天兵には知られていない。裏切ったと言っても、春明は影の兵士として俺たちと通じたわけじゃねえんだ。国や仲間を売るようなことは断じてやってねえ。わざわざ告発して処分するより、おまえに
とって、もっと幸せな選択肢があるはずだ」
「知ったような口を! 貴様、この期に及んで、よくも他人の心配ができるものだな」
黒龍の双眸が、ギラリと光った。
「サーヴェクトの銃使いならば、最新式の銃器の製造情報を把握しているはず。洗い浚い喋ってもらうぞ」
「餌で釣っておいて悪いが、実のところ俺は何にも知らねえ人間でな。おまえの期待には添えそうもねえよ」
ジェシスは嘯いた。
「自分は何も知らない、知っていても教えない、と? それはそうだろうな。俺も素直に
喋ってもらえるとは思っていない。貴様が口を閉ざすなら、強引に抉じ開けるまでだ」
「いずれにしろ殺されると、わかってて口を割ると思うか? 復讐なり鬱憤晴らしなりで
いたぶるのは結構だが、情報を吐かせようとするのは無駄な努力だ。命は渡しても、情報は渡さねえ!」
「ほう。貴様も狠毒娘娘と同じく、ずいぶんな自信家だな。見込んだ通りに、楽しませてくれるかどうか……」
その言葉が響くやいなや、ジェシスの左腕に激痛が走った。
「くぅ……」
突然のことに、堪らず呻く。
二の腕に伸びた黒龍の手が、傷を負った箇所を握り締めたのだ。容赦なく強い力で。
「この程度の苦痛に反応するようでは、先が思いやられるな」
「不意打ちは、卑怯だぞ……」
ジェシスは精一杯の怒気を込めて相手を睨めつけた。
「てめぇ、絶対にサドだろ? 俺が認めてやるから、今度から堂々とそう名乗れ!!」
「この怪我、いつどこで負った?」
憎まれ口を無視して、黒龍が問い掛けてきた。
「……ここに来る途中、おまえの仲間五人に襲われたんだよ」
「五人……? 殺したのか?」
「いや、殴ったりはしたけどな。よっぽど柔じゃねえ限り、今も全員生きてるはずだ」
「人を殺さぬ暗殺者か。紙を切れない鋏や、野菜を切れない包丁にも等しいな」
愚弄めかした黒龍の台詞を、今度はジェシスが無視した。
「あー、思い出した。俺を嬲り殺しにするときは、あいつらも呼んでこいよ。口先だけの説教じゃ、説得力も薄いからなぁ。身を以って示してやる、いい機会だ」
「説教だと? いったい何を説いたというんだ?」
腕の傷から手を離し、胡乱な目つきで尋ねてきた黒龍に、ジェシスは答える。
「一流の影の兵士の心得について」
「ほう。その心得とは?」
「殺されるまで、生き抜くことだ。俺はどんな目に遭わされようと、舌噛んで死んだりはしねえから、安心しろ!」
ジェシスが言い放つと、黒龍は冷然とした態度で忠告した。
「……強がりは、ほどほどにしておいたほうがいいぞ。後で恥をかくことになる」
「別に強がってなんかねえよ。どうせ死ぬなら、少しでも有益な死に方をしたいだけだ」
もちろん、寄ってたかって延々と責められるのは、嫌に決まっている。進んで嬲り者になる義理もないので、監禁中に隙あらば、即刻逃げ出すつもりだ。
だが、どうしても逃げられないと悟った後は、せめて信条を貫きたいと思う。
そのせいで、どれだけ苦痛が長引くとしても。
「俺を存分に苛むことで、おまえや他の天兵どもの恨みが和らぐなら、まんざら無駄死にでもねえだろ?」
(PSBを恨む人間が一人でも減れば、それは仲間を守ることにも繋がるしな……)
ジェシスは自然と、そういう打算的な考えに至った。
黒龍は、なぜか呆気に取られたような顔つきで、こちらを凝視している。
と、いきなり弾けたように笑い始めた。
爆笑と言っても差し支えないほどの、明るい笑い方。
しかし、その裏には何かドロドロした暗い感情が隠されているような気がして、ジェシスは妙に不安になった。
「……何で笑うんだ?」
短く訊くと、黒龍は笑い声を鎮めた。代わりに、唇だけで深い笑みを形作る。
「教えてやろうか。俺が狠毒娘娘を放し、貴様を捕えた本当の理由を」
「……?」
今更、何を言うのだろう。銃器に関する情報を搾り取ろうとする以外に、どんな狙いがあるというのか。
怪訝な気分になったジェシスに向かって、黒龍がおもむろに告げる。
「貴様に惹かれたからだ」
「はぁ!?」
ジェシスは思わず仰け反り、三歩ほど後退った。
上半身はがんじがらめでも、足は拘束されていないので、歩くことくらいはできる。
「あ、あいにく、俺はそっちの気はねえぞ!」
「まあそう言うな、『国家守護者』」
ジェシスの拒絶反応も意に介さず、黒龍は、くくっと喉を鳴らした。
「無論、貴様が持っているかもしれない情報には興味がある。だが、そもそも貴様は自分の身分を口頭で述べただけで、それが真実だという裏付けは皆無だ。銃を所持していない訳も、もっともらしいだけで事実とは限らない。貴様はいかにも嘘が下手そうではあるが……直接情報戦の理論からすると、まず虚偽だと考えるほうが、むしろ妥当だろう?」
「………………………………」
黒龍の言い分は真理を突いているため、ジェシスは何も言えない。
「にもかかわらず、俺が貴様を選んだのはなぜだと思う? 暗殺者であるということや、銃使いであるということ……たとえ全部がでたらめでも、それはそれでよかった。たったひとつ、貴様が偽善者であるということだけは確かだったからな。狠毒娘娘を救うための自己犠牲といい、さっきの台詞といい……貴様の愛すべき偽善者ぶりには、つくづく感嘆させられる」
さほど嫌味とも感じられない口調で黒龍は言った。どこか楽しげに。
「偽善者どもの集団に所属する、傑出した偽善者。まさに偽善者のなかの偽善者だ! 俺は貴様のような人間が大好きでな……。惹かれずにはいられない」
ここに至って、黒龍の告白が反語だったということに、ジェシスは気づいた。
「偽善者、か。おまえらもやっぱ、俺たちの組織を……国を、そんなふうに呼ぶんだな」
怒りではなく、一抹の痛みを覚えながら呟く。
すると黒龍は、やにわに厳しい顔つきになった。ぐっと声音が低くなる。
「そう呼ばれて当然だろう? サーヴェクトは、国内で密かに次々と機械武器を開発しておきながら、『世界の平和と秩序のため』と称して、他国には製品も技術も提供しようとはしない。貴様らは、情報の漏洩を防ぎ、銃器の普及を阻むために、大量殺戮や破壊工作を幾度となく繰り返してきた。強大な威力を持つ兵器を独占的に保有しようとして……」
『これを偽善と言わずして何と言う!?』――黒龍の言外の叫びは、ジェシスの頭のなかで鮮やかに響いた。
「おまえは、この豊かで穏やかな島に、きな臭い武器が必要だと信じてるのか?」
「この天華は、東西の海上交易の要衝。その豊かさゆえ、古来、大陸の国々からの干渉や侵略の危機にさらされてきた。自国を守るため、他国に劣らぬ戦力を欲して何が悪い?」
迫るように問い掛けられて、ジェシスは首をゆっくりと左右に振った。
「……別に何も悪くねえ。おまえがそう信じるのなら、俺はその考え方を否定しねえよ。こういう問題には、善悪なんかつけられねえだろ。ただ、俺とおまえは、それぞれ正しいと信じることが違うってわけだ。だから互いに衝突して、影の戦争が起きる……」
「綺麗事を! そう言って、自分たちの行為をも正当化するつもりだな?」
憤りのこもった声を張り上げた直後――黒龍は先刻のように、口の端を上げて笑んだ。
「……まあいい。そういうところも含めて、俺は貴様を個人的に気に入った」
その情緒の変化、感情の起伏の激しさを目の当たりにして、ジェシスは改めて感じる。
(何か、こいつ……いろんな意味で危ねえ奴だよな……)
「偽善者のなかの偽善者よ。これから、貴様のかぶった偽善の皮を一枚ずつ剥がしてやるのが、最高に楽しみだ」
黒龍は、半ば恍惚とした様子で言った。
「こうして捕縛され、拷問に掛けられようとしている今でさえ、貴様は俺に憎しみの目を向けようとしないな。貴様の言うところの『逆恨み』の餌食にされようとしているのに、憎悪の念が伝わってこない。その聖人君子面を、いつまで保てるものか……」
と、不意に、ジェシスの身体に巻きついた『見えざる鎖』の束縛が強まった。
胸の辺りをギリギリと締め上げられ、肺が圧迫される。
「天華二千年の歴史に培われた責め苦をじっくりと味わえば、貴様も自分を取り繕ってはいられなくなるだろう。俺を憎み、俺の恨みの源である狠毒娘娘を恨み、己を見捨てた月の女神を呪え。誰しもが持つ人間としての醜い感情を全て曝け出し、自分の偽善的な言動をたっぷりと悔いながら死んでいくがいい。それが貴様の運命だ!」
「運命? そりゃ違うな。これは、俺の選択だ……!」
息苦しさに喘ぎながら、ジェシスは反論する。
「俺は、自分の選択の……誤りを償う選択を、しただけだ。ソフィシエを恨む理由なんてねえよ。おまえを心底、憎むのも……俺にとっては、難しい注文だ。俺には、どうしてもおまえに共感しちまう、要因が、あるんでな。それから、女神を呪うのも、無理がある。俺は無神論者で、自分の運命が、女神に与えられたもんだとは、思ってねえ。敢えて言うなら、俺自身の選択と決定の結果が、俺の運命……っ!」
意に沿わぬ言葉を封じようとするかのように、束縛がさらに力を増した。
それでもジェシスは、喉の奥から、負けじと声を振り絞る。
「人間の、自由な選択には……間違いが多い。だから、その結果を、悔やむことも多い。だが……一本道の運命に身を任せて、全てを諦めるより……間違いを覚悟で、自ら選択と決定をするほうが……後で悔やむ度合いは、浅くて済む」
水平線に目を向けながら、沖への風に、自分の言葉を――気持ちを託す。
次第に遠ざかっていった船は、今や芥子粒のようになり、視界から消えつつあった。
「他人から、偽善と言われようが、何と言われようが……選択をしたとき、自分に嘘さえ吐いてなけりゃ……『選択したこと』自体、を後悔することは、ねえよ!」
叫ぶと、ジェシスは、もはや喋れなくなった。『見えざる鎖』が、直接、咽元を締めつけ始めたのだ。
完全に息ができなくなる。いたぶられる以前に、ここで窒息死させられるのではないかとも考えかけた、そのとき――
突然、天華語が響いた。高く、強く、鋭く、女の声で!
短い発声が終わるより先に、黒龍は身を翻した。片足が義足にしては、驚異的な素早さだ。ほんの一瞬遅れて、ジェシスも声の主を見遣ろうとする。
しかし、どちらの反応も、注意として遅きに過ぎたという点では同じだった。
――瞬間的な轟音。
ジェシスの身体は、横殴りの衝撃を受けて跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた。
地面に倒れ臥したジェシスは、激しく噎せた。
跳ね飛ばされた瞬間、『見えざる鎖』の束縛は解けたものの、強い衝撃を受けたせいで、一時的な呼吸困難に陥ったのだ。
「ジェシスさん! しっかりしてください!」
駆け寄ってきた娘の手によって、ジェシスは助け起こされた。自分の腕にも力を込め、どうにか半身を支える。
「春明……いったい、何を……?」
「どこか、お怪我は?」
春明は、問い掛けに答えるより先に訊いてきた。
「……いや、平気……だ」
軽く身体を揺すってみて、返答する。派手に地面と衝突したが、どうやら骨や内臓には異常がないようだ。
「よかった……」
春明は微笑むと、そっと立ち上がった。両の手のひらを合わせて、胸元に引き寄せる。
「おじいちゃん、お願い! 戻ってきて!!」
強い眼差しで沖を見据え、叫んだ。
「な……?」
春明の意図を測りかねたまま、いくら何でも届かないだろう、とジェシスは思った。
ところが。
絶叫の余韻が残るうちに、娘の合わせた手のひらの間から、淡い光が零れた。
春明は、腕を海のほうに伸ばして、手のひらを開く。
すると、何とそこから小鳥が出てきた。羽が純白に光っている。
まるで手品だ。
ハトというよりはツバメに近い外見をした小鳥は、娘の手を離れると、一直線に沖へと飛んでいった。
白く光る翼は、矢のように闇を貫く軌跡を描き、瞬く間に見えなくなる。
「伝言鳥です。私の言葉を、祖父のところまで届けてくれる……」
小鳥の行き先を見つめながら、春明が言った。彼女が伸ばしていた腕を下ろすと、手のなかから一枚の紙片のようなものが、ひらりと地面に舞い落ちた。
(これも方術の一種なのか……?)
ジェシスが驚いて海を見つめていると、消えかかっていた船の影が、再び大きくなってきた。明らかに、こちらに向かって引き返している。
春明の叫びは、確かに伝わったのだ。
「ありがとう、おじいちゃん……」
安堵の滲む声で、春明は呟いた。そして振り向く。
「これで、ジェシスさんも、ソフィシエと一緒に母国に帰れますよ」
ニコリと笑って、こちらに手を差し伸べる。
思わずその手を取ろうとして――ジェシスは、はたと気づいた。
(そうだ……!)
「黒龍は!?」
春明の手を借りずに立ち上がり、周囲を見回す。
「……!! あれは……!?」
ジェシスは愕然として立ち竦んだ。
黒龍は岬の上に倒れていた。その身体を、薄い膜でできた半球が覆っている。膜は黒色だったが、不思議と表面が輝いていて、内部が透けて見えるのだ。
横たわる黒龍の腹の辺りからは、大量の液体が流れ出し、地面に溜まっている。
だが、彼はなぜか、腹ではなく喉を押さえていた。膜のせいで表情までは窺えないが、かなり苦しそうだ。
これまで、呻き声ひとつ聞こえてこなかったのは、つまりこういうことか。
ジェシスは理解した。
(……さっき俺が吹き飛ばされたのは、あいつを標的にした攻撃の余波を食らったに過ぎなかったってことだ)
「春明、あんた……」
長い黒髪を風に揺らしている娘に何か言おうとして、しかし言葉に詰まる。
春明が、こちらを助けようとしてこんな行動に出たのは明白だ。とはいえ、普通に礼を言えるような状況でもない。
彼女は透き通った表情で、口を開いた。
「これは私の『選択』です」
その声音は震えもせず、ただ淡々としていた。
「……私は、この選択をしたことを後悔しません。誰に何と思われようとも」
己の意思で選択と決定をした相手に、掛ける言葉は見つからなかった。
ジェシスは沈黙を守ったまま、岬に近づいてくる船を眺めた。舳先が盛大に水しぶきを上げている。
遠ざかっていったときに比べ、格段に速いと感じられるのは気のせいだろうか?
ソフィシエを乗せた船は、あっという間に岬の前に到着した。
「おうおう、春明、やらかしおったな。もはや、おまえも術士として一人前じゃて」
春明の祖父である老人は、黒龍の惨状を目にしても全く驚かなかった。それどころか、どこか嬉しげに孫娘を褒める。
「梟武を封じるとは、たいしたもの。これを本家の面々が見たら、目を剥くじゃろう」
「おじいちゃん、ソフィシエとジェシスさんを、約束通りサーヴェクトに帰して」
命令にも似た硬い声で、春明が言った。
「わかった。春明や、おまえの意思を踏み躙ったりはせん」
老人は、わずかに表情を引き締めて頷いた。
「さあ、乗ってください。早く!」
春明に促され、ジェシスはソフィシエの立っている甲板に飛び降りた。
「では、乗員がそろったところで、出発するとしようかのう」
老人が言うと、いきなり船が動き出した。
「待って!」
ソフィシエが叫んだ。
「春明! どうして……どうしてここまで……!?」
「恩には恩、仇には仇で徹底的に報いるのが、天華人の気風ゆえに。二年前に受けた恩は一時たりとも忘れてはおりません」
春明は、真摯な顔つきで答えた。
「恩? そんな……だってわたし、こう言ったはずよ? 『わたしを殺せるようになってみれば?』って。なのに、どうして!?」
ソフィシエの鋭い問い掛けに、春明は、ふっと唇を綻ばせた。
「人を殺すことよりも、救うことのほうが遥かに難しいですよね。だから、あなたを救えたら、殺すよりも強さを認めてもらえるんじゃないかって……そう思ったんです」
ジェシスの隣で、少女が息を呑んだ。
「それに……そんなに『どうして』って繰り返すなんて、失礼よ、ソフィシエ。私たち、友達になったんじゃなかったの?」
春明はガラリと口調を変え、冗談めかしてソフィシエを責めた。
「友達や友達の大事な人を守りたいと思うのが、そんなにおかしい?」
「春明……」
「ソフィシエ! あなたは女神じゃないけど、もっと自分に自信を取り戻して! あなたは間違いなく強い影の兵士だし、とても魅力的な女の子なんだから……!」
言葉を交わす間にも、船はゆっくりと海面を滑り、陸地から離れていく。
ソフィシエは、船縁から身を乗り出した。
「ありがとう! できるなら、いつか、また……」
別れの言葉は最後まで続かず、少女の喉の奥に呑み込まれる。
「春明! 今更だが、一言だけ謝らせてくれ。人質に取って傷つけたりして……恩を仇で返すような真似して、悪かった!」
ジェシスは、礼の代わりに謝罪の言葉を叫んだ。
「さようなら、お二人とも……!」
どこか淋しげな春明の声が、限りなく広い空と海の間で響いて、消えた。
それを合図のようにして、船の速度がぐんと上がる。
春明の、岬の、天華島の影は、すぐに小さくなり、夜に包まれて見えなくなった。