12. 祖父来了 残された四つ目の答え
状況打開策を思案する春明の目の前で展開される、黒龍とジェシスの直接情報戦。
二人の駆け引きは、今や膠着状態に陥りかけているようにも見える。だが、ソフィシエも含め、誰も自分の主張を曲げない以上、場を長く沈黙が支配することはあり得ない。
「……お願い、ジェシス。今回のことは半分以上、わたし個人の問題よ。あなたは言わば無関係の第三者。復讐劇の出演者としてお呼びじゃないから、さっさと退場して」
声音を一転させ、ソフィシエは請い願うように言った。
「嫌なこった! 劇の脚本が訂正されるまでは、お呼びであろうがなかろうが舞台の上に居座り続けてやるからな。どうあっても、おまえを、こんな逆恨み野郎の餌食にするわけにはいかねえんだよ!」
「逆恨み……?」
黒龍の肩がピクリと震える。その極めて冷然とした視線に、春明は慄いた。
しかし、ジェシスは動じない。
「そうだよ。おまえの恨みは、筋違いの逆恨みだ! 復讐心を抱いたのには、それなりの理由があるってことは、俺にも理解できる。とはいえ、それは根本的に、正当なもんにはなり得ねえ! 逆恨みしてる奴に逆恨みだと言ったところで、絶対に認めないってことはわかりきってるからな。敢えて無駄な言及はしたくなかったが……もうこの際、きっちりと言わせてもらおうじゃねえか」
堰を切ったような勢いで、少年は一気に捲し立てる。
「二年前、おまえらはサーヴェクトに潜入中、ソフィシエに発見されたんだったな。招かざる客を捕縛しようとしたソフィシエに対して、おまえらは抵抗した。おそらく、任務の障害たる相手を殺して排除するつもりで……。違うか!?」
「い、いえ……確かに、そうでした」
春明は喘ぐようにしながらも、はっきりと証言した。
この自分も、二年前、現場に居合わせた一人だ。答えるのは、黒龍でなくてもいい。
「……だろうな。百戦錬磨のそいつに『手加減できなかった』と言わしめたことからしても、殺意を抱いて交戦に踏み切ったのは明らかだ。相手の命を奪うつもりで戦闘に臨んだなら……」
「自分も、殺される覚悟を持つのは、当然……」
自然と口を開き、春明はジェシスの言葉を引き継いだ。
「そう、それが戦場の規則だ。黒龍……おまえは右脚を失おうが、両目を失明しようが、半身不随になろうが、文句を言える立場じゃねえ。命を取られなかっただけ、ありがたいと思え。心の底じゃ理解してんだろ? まさか、マジでソフィシエに復讐する権利があるなんて思ってんじゃねえよな、あぁ?」
何だか、ジェシスの口調が微妙に荒っぽさを増している。春明には少年の表情を窺う術はないが、さぞかし『こわい顔』なのだろうと想像できた。
「天兵を殺めてもいねえそいつを嬲り殺しにするってのは、『無言の協定』にも違反する行為だ。協定破りを復讐の名の下に強行するなら、俺はそれを不当な殺人と見なす。不当な殺人こそは、正当な復讐の理由になり得るんだぞ……?」
その内容に反して、軽い調子で紡がれる台詞は、かえって空恐ろしい。
「ソフィシエを放さずに、俺を放してサーヴェクトに帰してみろ。楽しい楽しい復讐劇の第二幕の始まりだ」
「あ、あなた密かにキレてるわね……?」
ぞっとするような宣告を聞いて狼狽の色を見せたのは、ソフィシエだった。
黒龍は、冷たい無表情のまま、ジェシスの言葉に耳を傾けている。
「俺が独りで母国に戻ったなら、ただちに天華に取って返して、おまえを捉え、速やかに追放してやる。この世でない、どこかへな……」
「……得意の暗殺か? だが、貴様が本物の暗殺者だとしても、この俺を殺すのは容易くないぞ。どうやって、この世から追放するつもりだ?」
黒龍の声音は静穏。にもかかわらず、不穏な挑発めいて響く。
「俺には月守りの民より受け継ぎし力がある。いかに優れた殺人技術を持つ者でも、俺の前に姿を現した次の瞬間、その身体は焼き尽くされて無力な骨と化す。俺がその気になれば、今この場でも、貴様は一瞬にして消し炭となる。魔力を持たぬ身では、俺に接近することさえ叶うまい。ましてや殺傷など、到底不可能なことだ」
「ああ、そりゃ事実だろうな。とはいえ、おまえが術を発動させるより、この短剣が春明の喉に刺さるほうが早いのも事実だ。それがわかってるから、術を唱えねえんだろ? 俺は、今現在の状況は度外視して、未来の可能性について論じてんだよ」
ジェシスの断定的な指摘に、黒龍は目を眇めた。どこか不愉快げな表情。それでいて、言葉による反駁はしない。渋々ながら、図星を指されたことを認めたかのように。
春明は、混乱しかけていた。だんだん、わからなくなってきたのだ。自分に対する彼の本心が、どちらなのか。『死ねばいい』か、それとも『助けたい』なのか。あるいは、彼の気持ちもまた、混乱しているのか……。
「おまえは方術士としての腕に自信があるようだが、俺だって暗殺者としての腕には自信がある。何せ『冷酷無比なる抹消者』なんて、さしてありがたくもねえ称号を賜っちまうくらいだからな……」
ジェシスは淡々と述べた。自分の能力を自慢しているというより、むしろ言いたくないことを仕方なく口にしているような雰囲気だ。
「標的が方術士だろうが魔術士だろうが、俺には関係ねえ。誰かを抹消するとき、そいつの前に姿を現す必要なんかねえんだよ。『犠牲者の命を絶つもの、それは殺意ある人の子の握る凶器にあらず、遥か遠方より一瞬で飛来する意思なき物体なり』……ってな」
「……!? 機械大国の、暗殺者……! 銃使い、か?」
表情こそ大きく変えないものの、黒龍は微妙に上擦った声を漏らした。
「鉛の弾丸は無慈悲だぞ。生身の人間と違ってな」
ひどく重い響きの呟きは、肯定の返事になっていた。
(暗殺者にして銃使い……『パーフェクト・イレイザー』? に、似合わないわ……)
――こんな肩書き、ジェシスには。
驚くより何より先に、春明はそういう感想を抱いていた。
その一方で、ジェシスの告白を虚偽ではないかと疑う気持ちは湧いてこなかった。
しかし、どうやら黒龍はそうでもなかったようだ。眼差しには、猜疑心が満ちている。
「……サーヴェクト人は、虚仮威しの文句を並べるのが巧いようだな。貴様が今、握っている得物は何だ? 銃を持たずして銃使いを名乗るとは、呆れるほど烏滸がましい」
「まあな。確かに今は持ってねえよ。だから、母国に戻らねえ限りは、おまえを狙えねえってわけだ」
ジェシスは、さらりと返答した。
「ふざけるのもいい加減にしろ! 置き忘れてきたとでも吐かす気か?」
「置き忘れてきたんじゃねえ、わざと置いてきたんだ。外国旅行に銃は無粋だからな」
「馬鹿な! 自分の得物を持たずに敵地に踏み込む影の兵士がどこにいる?」
「ここにいる。今回の任務はもともと、どんな武器も使う必要のねえ内容だったからだ。それ以前に、銃器は滅多に国外には持ち出せねえしな」
「紛失や盗難を恐れてということか? サーヴェクトもつくづく神経質なことだ」
「それもあるが……まず第一に、他国に銃を禁じといて、自分たちが好き勝手ぶっ放してたんじゃ、説得力も何もあったもんじゃねえだろ?」
鋭い応酬は、ここで唐突に途切れた。黒龍が口を噤んだのだ。
返す言葉を紡ぐ代わりに、顔つきが変化した。声もなく、せせら笑う。
「……偽善者め」
唸るように罵った。
「いかにも腐った『国家守護者』らしい建前で、つい納得したくもなるな」
「結局のところ、信じるか信じねえかは、おまえの勝手だが……これだけは言っとく」
ジェシスは、黒龍の暴言を気にも留めない様子で続けた。
「仲間を不当に殺されて黙ってられるほど、俺は……俺たちは寛容じゃねえ。ソフィシエの殺害を実行に移せば、『寸分狂わぬ流れ弾』が必ずおまえを裁く」
再度の復讐宣告に、春明はドキリとした。
組織ぐるみの報復を仄めかす表現。たとえ自分がここで死んでも、ソフィシエの敵討ちは別の誰かがやる――ジェシスは、そう言いたいのだろうか?
「……なるほど。『無言の協定』をも盾に取り、復讐に復讐を以って応じると脅す貴様は、要するに自分を放すのは危険だと主張したいわけだ」
黒龍は確信的な口調で、ジェシスの一連の発言を要約した。
「……後々暗殺されたくなければ、そちらの提示した最初の条件で妥協しろと?」
その問いに対し、少年は沈黙で答えた。反論しないということは、頷いたも同然だ。
「そうまでして狠毒娘娘を救いたいか……」
黒龍の態度は、今やすっかり落ち着いて見えた。
事態の展開に惑わされるでもなく、刹那の激情に流されるでもない。
鳴りを潜めた狂気に代わり、瞳に浮かび上がるのは打算の光。
冷徹にして狡猾な李一族の人間らしい……本来の彼らしい表情を、取り戻しつつある。
春明は、ふと慄然として、ごくりと唾を飲み込んだ。
自分は知っている。こういう自然体のときの彼こそが、実質的に一番危険だと。
(黒龍……何か考えているの? 何を考えているの?)
「……狠毒娘娘よ。貴様の仲間であるこの男は、貴様のことが大事で大事で仕方ないようだな。では、貴様はどうだ?」
「……?」
唐突な質問を受けて、ソフィシエは目を瞬かせる。
「この男が貴様を想うのと同じくらい、貴様はこの男が大事か? 返答の内容如何では、貴様は死なずに済む。よく考えて、答えろ」
「……!!」
少女はビクッと身を震わせた。眦を決して、黒龍を睨み上げる。
(何て意地悪な質問……!)
春明も、黒龍の意図するところに気づいた。
この質問は罠だ。見え透いてはいるが、避け難い罠。
もし『それほど大事ではない』などと答えれば、ジェシスが自分の身代わりになるのを容認するように聞こえる。かと言って、『大事だ』と答えれば、ジェシスを殺すことが自分に対する復讐として有効だと教えるようなものだ。
ソフィシエが何と答えようと、その先に待ち受ける結果は同じ。黒龍は、すでに結論を出している。急な質問は、少女の返答がその結論を導いたかのように見せかけようとしてのことだろう。
「答えんじゃねえぞ、ソフィシエ。何も喋るな。答えたら、サドの思う壺だ……」
悔しげに唇を噛む少女を、ジェシスは素早く牽制した。
「えげつねえ真似しやがって。とことん嫌らしい性格だな。おまえ絶対、友達少ねえだろ」
黒龍に向かってひとしきり悪態を吐いてから、溜め息を漏らす。
「でもまあ、これで交渉成立ってことか。ようやくそいつを放す気になったな?」
「……ああ。常に銃口に狙われているかもしれないなどと考えながら暮らすのは、さすがに気分が悪い。取り引きに応じてやろう。貴様自身と春明の身柄をこちらに委ねることを条件に、狠毒娘娘を……」
「そんな勝手な取り引き、わたしは許さない。認めないわよ!!」
黒龍の言葉を遮るように、ソフィシエが絶叫した。
「ジェシス、あなた本当に頭がイカれちゃってるようね。あなたは、わたしが殺されるのは不当だって文句つけて『いやな顔』を脅迫したけど……あなたが殺されるのはわたしが殺されるより、もっと不当よ? なおさら不条理よ? だって理由がないんだもの!」
こんなにヒステリックな口調は、おそらく彼女にしては非常に珍しいだろう。
「逆恨みだろうが何だろうが、恨みは恨みよ。正当じゃなくたって、復讐の確かな理由として存在してるわ。だけど、あなたには殺される理由がない。わたしの代わりにあなたが死ぬなんて、誰がどう考えてもおかしいじゃない。説明できない怪奇現象よ!?」
「あー? 俺が死ぬ理由? あるぞ、ちゃんと当然の理由がな。しかも複数回答可だ」
ジェシスは、やけに堂々と言い切った。
「とりあえず最後まで黙って聞けよ。理由その一……復讐云々が絡む以前に、俺たちは影の兵士だからだ。今の状況そのものが、俺たちにとって一種の『負け』。この場では、俺も敗者で、罰を課されるのが妥当な立場だ。それは『無言の協定』も認める事実……」
「だけど、嬲り殺しっていうのは、罰の制限に違反してるわ! さっきあなたが協定破りだと言った通りにね。あなたの論理は矛盾してる。百歩譲って、その処遇を復讐じゃなく敗者への罰として考えても、道理に合わないのは同じよ! わたしとあなたの両方が敗者なのに、どうしてあなただけが罰を受けるわけ!?」
ソフィシエは地面に横たわった姿のまま、すごい剣幕で食って掛かった。『正当な理由があるなら言ってみなさいよ、えぇ!?』という顔つきだ。
「あのなあ。黙って聞けと言われたときは、黙ってろ! 理由その二……この『負け』の状況に追い込まれる原因を作った張本人が、俺だからだ。俺は選択と決定を誤り、おまえの正しい選択を妨げた。俺はその責任を取る。俺の判断ミスは致命的、戦場で命を落とすには十分すぎるほど重大な過ちだ」
「それって、わたしが今日の定期船で帰るのに反対したこと? だったら、わたしの過ちでもあるわ。わたしは最終的に自分の意思で天華に留まることを決めたんだから、全くの同罪よ!」
「黙れ。理由その三……そもそも今回の任務において、俺は本調子じゃねえおまえを守るための護衛役だからだ。元気になったおまえが母国に帰らねえと、俺の仕事は完全に失敗しちまう。理由その四……俺が死なないで、おまえが死んだら、かなり高い確率で俺の気が狂うからだ。こればっかりは理屈じゃねえな。以上だ!!」
「なっ……!? 何なの、その超絶自己中心的な理由は! 到底、認められないわ!!」
「何だよ、四つも理由がありゃ、上等だろ!?」
遠慮も忌憚もない、盛大な怒鳴り合いである。周辺に人家があったとしたら、夜間騒音として苦情が出そうだ。
復讐の当事者でありながら、黒龍は蚊帳の外に立たされていた。しかし、少年と少女の大舌戦に横槍を入れることもなく、ただ見守っている。そんな彼の目は……無論、温かいはずはないが、そう冷ややかでもなかった。どうも面白がって眺めているようだ。
「つべこべ言い合ってても、埒が明かないわね。とにかく!! サーヴェクトには、あなたが帰還しなさい。復讐の復讐なんて時間の浪費だから、気が狂ってもやらないで。そんなことに身を削る暇があったら、仕える国のためになる仕事をすべきだわ」
ソフィシエは、頭ごなしとも言える態度でジェシスに命令した。
「そうはいかねえなぁ。おまえが天華で死んだら、俺は近いうちに、その男と、おまえの殺害に関わった天兵どもを皆殺しにするって決めた」
物騒な台詞を、少年はいともあっさりと口にする。これは――紛れもなく本気だ!
「駄目!!」
少女は顔色を変えて叫んだ。高圧的な口調が、一変して悲痛な声音となる。
「駄目よ! 今以上に薬の量を増やしたいの!? そんなに多くの人間を一度に殺めたら、あなた、壊れちゃうかもしれないわ!」
(薬? ジェシスさん、何か持病でもあるのかしら? 『壊れる』だなんて……)
春明の知る限りにおいて、この少年の身体は頑丈そうだ。肉体に疾病を患っているのでないとしたら、精神に問題を抱えているということか。
(精神的に不安定なようにも見えないけど……『人を殺めたら壊れる』って……?)
ジェシスは『暗殺者』で、殺人が生業ではないのか。
「……大丈夫だ。たとえ廃人になっちまうとしても、その前に復讐だけは完遂する。『パーフェクト・イレイザー』の名に懸けてな」
「……っ! どこが大丈夫なの!? 何が『冷酷無比なる抹消者』よ。本当は、虫の一匹も殺せないような人間のくせして! 一人前に悪ぶってんじゃないわよ、この善人!!」
(『偽善者』ならまだしも、『善人』って……悪口になってないわよ、ソフィシエ)
春明は、思わず心の声で突っ込みを入れる。
「こ、こら! 俺が経歴詐称してるかのような発言すんな! ものすごく無礼だぞ」
これまで、ソフィシエよりはずっと沈着に喋っていたジェシスが、急に焦ったような声を上げた。
「わたしは真実を述べただけ。あなたこそ、危ない発言しないでよ! そんなこと言われたら、わたし……後のことが不安で、おちおち死んでもいられないじゃない……」
強い抗議の言葉は、後半になると力を失い、語尾は消え入りそうに弱々しかった。
まるで泣き出す寸前のように。
極限の緊張を孕みながらも静謐な空気が、岬を支配する。
この場にいる誰もが一瞬、息を止めたように感じられた、そのとき――
「おぉーい……」
どこか遠くから、かすかに人の声がした。
春明ははっとした。
「おぉーい……! 春明や、待たせたのぅ……!」
その声は、海のほうから聞こえてくる。春明は振り向ける状態になかったが、たちまち誰だかわかった。
「おじいちゃん!」
海を背にしたままで、叫ぶ。
「あ、あれが、春明のじいさんなのか?」
そう呟いたジェシスは、短剣を喉から少し離してくれた。
春明は首を巡らせて、後ろを振り返る。
黒い海原にポツリと浮かぶ、小さな影。それは眺めるうちに船の輪郭を持ち、ぐんぐん大きくなった。かなりのスピードで、こちらに近づいてきているのだ。
視線を前に戻すと、黒龍が表情を険しくしていた。平静を装っているものの、隠しきれない動揺が伝わってくる。祖父の『突然の登場』に、戸惑っているようだ。
黒龍は、身を潜めてこちらの様子を窺っていたとき、会話の内容から祖父が来るという事実を把握したはず。だが、彼は目の前の相手との駆け引きに没頭するうち、そのことを考慮の外に追い遣ってしまっていたのだろう。
それはおそらく、ジェシスも同じ。きっと二人とも忘れていた。
この直接情報戦には、こういう形での『時間制限』があるということを……。
今のような状況を祖父が目にしたら、どういう反応を示すのか?
そう考えて、ジェシスと黒龍は、怯えにも似た気持ちを抱いているのかもしれない。
(だけど実際には、おじいちゃんが来ても何も変わらない。『約束』したから……)
事態の収拾を祖父に期待することはできないと、春明は知っている。
やがて船は速度を落とし、岬の先端部に接岸した。
「いやはや、すまんすまん! 遅くなってしもうたな。この船も、三年ほどほったらかしじゃったし、いろいろと準備に手間が掛かってのう」
船上から、悪怯れるふうでもなく言い訳するのは、小柄な老人。七十代に突入しかけており、近年めっきり白髪の量が増えた。しかし、身体は至って頑健である。
客観的に見ると人格に多少くせがあることは否めないが、春明にとっては掛替えのない家族――頼れる祖父だ。
「お、おじいちゃん……。来てくれて、ありがとう」
春明は祖父に顔を向け、普通に礼を言った。それ以外、自分の口から何をどう説明すればいいのか、さっぱり思考がまとまらない。
祖父は、岬の上の場景を見ても全く慌てなかった。軽く首を傾げて、しげしげとこちらを眺める。ただ、黒龍を目線で捉えたとき、わずかに眉を動かした。
「ふーむ……。何とも面白おかしい状況になっておるなぁ。まさにスペクタクル! 怒涛のクライマックス!! 波乱に満ちたドラマの匂いが、ぷんぷんするわい」
顎を弄りながら、愉快げに目を細める。口調は興奮気味だ。
春明が横目で後方を見遣ると、ソフィシエは唖然とした顔になっていた。
老人がペラペラと北大陸言語を話すのに驚いたのかもしれないが……たぶん、別の意味でも驚き呆れたに違いない。
「ここまでシリアスな展開になっておるとは……さすがに予想しておらんかった」
何やら感心したように独り言ちてから、祖父は黒龍に声を掛けた。
「久しいのう、梟武。直に会うのは十年ぶりくらいか」
「凶虎老……」
黒龍は絞り出すような声で呟いた。面持ちには警戒の色が濃い。
祖父は大仰に溜め息を吐き、頭を振る。
「これこれ、そんな間近に猛獣がおるような顔をせんでも良いじゃろ。大きく成長したというのに、わしを見る目は相変わらずじゃな。まったく、悲しいことよ……」
などと嘆きつつ、恨めしそうな顔つきになった。それでも目の奥は笑っている。
「梟武よ、案じるな。わしはおまえの復讐の邪魔立てをするつもりはない。ただし、加担もせんがのう」
そう言うと、祖父はジェシスに視線を移した。穏和な声で告げる。
「そこのおまえさんも、心配は無用じゃぞ。孫娘を人質に取られたからと言って、わしは怒ったりはせん。春明を生かそうが殺そうが、きちんと船は出してやる。おまえさんたちが自力で梟武の手を逃れ、この船に乗り込むことさえできればな。わしを脅して天華から脱出しようと考えておるなら、それは不要かつ無駄な行為じゃて」
「………………………………」
普遍的な感情や良心を超越した祖父の態度に、ジェシスも返す言葉がないようだ。
「わしは、この場の現状に変化をもたらす要素にはならん。中立の立場に徹して、傍観者
を決め込むつもりじゃ。決して船から降りんし、その他のどんな干渉も一切せんぞ」
言いながら、老人は孫娘と目を合わせる。
「わしが請け負った役目は、飯店の客人二人を船で安全に母国まで送り届けること。それだけじゃ。つまり、客人たちが船に乗る以前に起きたことは、わしの関知するところではない。万が一、客人たちが船に辿り着く前に何らかの事故に見舞われたとしても、わしは助ける義務を負わん。そういう約束じゃったな、春明や?」
春明は、頷くしかなかった。今言ったような内容を条件に、祖父は船を出すことを承諾してくれたのだ。一度約束したことは、自分も守らなければならない。
「ではまぁ、そういうことじゃから、わしの存在は気にせずに話し合いを続けてくれい」
締め括りの台詞を述べると、祖父は口を閉ざした。
短い空白の時間が流れた後――ジェシスが気を取り直した様子で口を開いた。
「……やっと迎えが来たな。こうなったら問答無用だ」
低く呟いて、後ろに向き直る。
「ソフィシエ……。おまえがどうしても母国に帰らないと言い張るなら、春明は死ぬことになるぞ。春明の命が惜しいなら、おとなしく俺の言うことを聞け」
少女に向けられた言葉は、今や説得の域を超え、完全な脅迫と化していた。
「……!? 『いやな顔』だけじゃなく、わたしまでそうやって脅す気!? 卑劣だわ!」
ソフィシエは愕然とした表情で叫んだ。
しかしジェシスは、さらに凄みを増した口調で迫る。
「さあ、破滅的な結末を回避できるかどうかは、おまえの選択次第だ。おまえは賢明な影の兵士、『影の兵士として求められる当然の判断』が、できねえはずは、ねえよなあ?」
喉の皮膚に刃が食い入る感触に、春明は呼吸を浅くした。
「……!」
ソフィシエは憎しみすら感じさせる目でジェシスを睨むと、震える瞼を伏せた。
「……わかったわ。わかったから、春明を放してあげて」
「……揉め事に決着がついたようだな。条件に従い、取引を行うか?」
黒龍がジェシスに尋ねる。
「ああ……。まずは、そっちがソフィシエを解放しろ」
「いや、貴様が凛霞と共にこちらへ来るのが先だ。その距離だと、狠毒娘娘を放した途端に、貴様にも船に逃げ込まれる恐れがある」
「おまえのほうこそ、俺の身柄を押さえた後で、そいつを放す保証がねえ」
「俺も天華の民だ。月下で交わした約定は違えない。あくまで信用できないと言うなら、狠毒娘娘が船に乗り込むまで、そのまま凛霞を捕えていてもいい」
その言葉に不承不承でも納得したのか、ジェシスは春明の肩を押しながら、黒龍の傍らに歩み寄った。
黒龍は、短刀の切っ先をソフィシエから離して、ジェシスの胸元に向けた。
「狠毒娘娘。振り返らずに船まで真っ直ぐ歩け。取引をふいにしたくなければ、妙な動きは見せるなよ」
解放された少女は、すぐさま立ち上がろうとした。だが、まだ身体に力が戻っていないらしく、よろめいて地面に片膝を突く。
ソフィシエは、手も支えに使いながら、半ば這うようにして船に近づいていった。
岬の先端まで行くと、倒れ込むようにして飛び降りる。
春明はヒヤリとした。
しかし、少女は怪我をした様子もなく、船縁に手を掛けて身を起こした。
「ほほう。これがおまえたちの出した最終結論か?」
祖父の問い掛けは、四人全員に対するもののように聞こえた。
「……じいさん、ソフィシエを頼む」
真っ先に答えたのは、ジェシスだった。
「安心せい。ひとたび船に乗せた以上、この娘の安全には責任を持つ。わしが傍についている限り、いかなる危険からも守ると誓おう。こう見えても、わしは強いんじゃ。そこの青二才が、船を沈めようと攻撃してきたとしても、軽く返り討ちにできるくらいな」
「そんなことをするつもりはない!」
黒龍は鋭く叫んだ。騙し討ちをするかのように言われては、気分を害さずにいられないだろう。
「船旅の平穏を祈るぞ、狠毒娘娘。無事にサーヴェクトに帰り着け。そして、この男の敵討ちを志すなら、天華に戻ってくるがいい。いつでも相手になってやる。そのときこそが貴様の最期だ……」
敢えて『敵討ち』を唆す言葉には、一対一で戦う決意と自信とが秘められているように感じられた。これがきっと、彼の答えだ。
「残念ながら、おまえとソフィシエが顔を合わせる機会は二度と巡ってこねえよ」
ジェシスが横から口を挟んだ。
「そいつは、いろいろと多忙な身の上だからな。復讐の復讐なんていう『時間の浪費』をする余裕は、これっぽっちもねえんだ。なぁ?」
振られた問いに、少女は答えなかった。
「おまえ、絶対に戻ってくるんじゃねえぞ。おまえだけじゃねえ、PSBの奴らを迂闊に天華に踏み込ませんな。おまえの言った通り、俺たちにとって天華は魔窟だ。帰ったら、チーフに事の顛末を報告して、組織全体に警告しろ。天兵は、PSBを恨んでる!」
きつく言い聞かせてから、少年は語調を和らげた。
「じゃあな、ソフィシエ。寄り道せずにクレバーのところまで帰れよ」
永遠の別れを告げているかもしれないのに、その言葉には微塵も翳りがなかった。
ソフィシエは押し黙ったまま、じっとこちらを見ている。
彼女の瞳は凪いでいた。もはや怒りも憎しみも悲しみも宿してはいない。だが、どんな感情も宿さぬ瞳というのは、どこか虚ろでもあった。
ジェシスに与えた戒めの言葉の数々が、全て跳ね返ってきて自分を封じ込めたことを、彼女はどういう気持ちで受け止めているのか。
ソフィシエは今、泣いている――春明はそう思った。
目から涙が零れなくても、喉から嗚咽が漏れなくても、彼女は泣いている。
たぶん、悔しくて悔しくて、どうしようもなくて……。
彼女にとって、他人の意思に無理やり捻じ伏せられるというのは、最大の屈辱だろう。でも彼女は賢いから、破滅的な結末に至る選択はしなかった。できなかった。
最終的に、ジェシスの真の望みを受け容れた。
どれだけ不本意でも、これがソフィシエの選んだ答えなのだ。
(じゃあ、私の答えは……?)
春明は自問した。
他の三人の答えに追従すること?
このまま、何も言わずに、何もせずに、ただただ成り行きに任せること?
(いいえ。私は……私には……自分の答えがある)
そう、本当は、とっくに見つけている。頭の片隅に浮かんでいる。
だけど怖くて、その存在を否定したくなってしまう。
目的を果たすためなら、どんなことでもすると誓ったのに。
何を失ってもいいと覚悟したはずなのに。
自分の導き出した答えのあまりの恐ろしさに、心が竦んだ。
(私は、三人を救いたいんじゃなくて、自分が救われたいだけなのかもしれない……)
これは、正しい答えなのか? 罪深いエゴに過ぎないのではないか?
天上の月に問い掛けても、女神は何も教えてくれない。
頭がくらくらした。胸の鼓動は際限なく速さを増していく。寒くもないのに肩が震え、暑くもないのに背中に汗が滲んだ。
冷たい指先を握り締める春明の目の前で、少女を乗せた船がゆっくりと動き始めた。