10. 落入敵手 苦渋の果ての凶行
林を抜けると、そこには雄大で、どこか神秘的な景観が広がっていた。
どこまでも続く黒い水の平原――果ての見えない夜の海。
ここには月の光を遮るものはなく、岬の上は淡い明るさに包まれている。
「まだ、船は来てねえみたいだな……」
小さな岬の先端部に立って、ジェシスは周囲の海面を見回した。
岬の高さは、人が飛び降りても支障ない程度だ。いわゆる断崖絶壁ではない。
(……ん?)
岬の右側――低い岩場の波打ち際に、人工物らしきものを発見した。
金属製と思われるそれは、岩から生えた巨大なきのこのような形状をしている。
(あれは……綱で船を繋いでおくための杭?)
こんな場所にも、やはり人がやって来ているという証拠だろうか。
だが、ずいぶんと錆び付いている。かなり古いもののようだ。しかも、あるのは杭だけで、それ以外には何もない。船も、綱も。
「おじいちゃん……船の準備にてこずってるんじゃ……?」
隣に来た春明が、海を見つめて不安げに呟いた。
「じいさんは、入り江に着いてから船の点検をして、ここまで来るんだろ? それなりの時間がかかるのは当たり前だ。気長に待つしかねえよ」
「……そうですよね。ここは港から離れてますから、ひとまず安全だと思います。休憩しながら待ちましょうか」
そう言うと、春明はその場に座り込んだ。必死になってジェシスを追いかける過程で、相当体力を消耗したのだろう。
「俺も走り通しで、さすがに疲れた。腕が特にな……」
ジェシスは、呟きながら肩を動かした。
いくらソフィシエの体重が軽くても、これだけ長い時間抱え続けていると、疲労を増加させる要因になる。おまけに傷が痛む。両腕は、痺れたようになっていた。
ソフィシエは、いまだ目を覚ます気配がない。
岬の地面を見回してみる。すると、今立っている場所から数歩ほど後方に、柔らかそうな草が密集して生えているのが目に留まった。
ジェシスはそこまで歩いていき、少女を腕から降ろして草の上に寝かせた。
「う……伸びでもしたいとこだが、傷に障るか……」
その独り言が聞こえたのか、春明がこちらを振り返った。
「あ! ジェシスさん……腕の傷、ちょっと私に見せてくれませんか? 止血済みでも、独りで行った手当ては、どうしても不完全になりがちですし」
「ああ、そうだな。頼む……」
ジェシスは春明の隣に戻り、そこで片膝を突いた。
春明はそっと手を伸ばして、ジェシスの服の左袖に触れた。その途端、声を上げる。
「えっ!? こ、これ……! ここ、べったり濡れてますよ!?」
「確かに、べたべたして気持ち悪い」
「そういう問題じゃありません! 夜で暗いし、服も黒いから気づきませんでしたけど、かなり出血してるんじゃないですか?」
「……傷の処置より、天兵の無力化を優先したからな。その間に流れた血だ」
「あなたも無茶をする方ですね……」
春明は半ば呆れたような調子で言った。
「そこまで深刻な出血量でもねえだ……」
ジェシスが言い返しかけた、その、瞬間――!!
「捕まえたぞ、狠毒娘娘!」
背後で声が響いた。あまりに唐突に。
「……!?」
ジェシスは背筋が冷たくなった。氷水を浴びたような感覚。刹那、全身が強張る。
春明も、目を見張ったまま固まっていた。
振り向くべきなのに、すぐには振り向けなかった。
無意識下の恐怖が、それを拒否したせいか。
一瞬早く硬直から抜け出し、声の方向を向いたのは春明だった。
「黒龍!!」
春明の叫びが、信じ難い現実を告げた。
戦慄を覚えながら、ジェシスは立ち上がった。背後に向き直る。
すぐそこに一人の男がいた。この場にいるはずのない男。
意識のないソフィシエの手首を右手で捕えて、引き上げている。左手には、抜き身の短刀。少女の肩は、わずかに地面から浮いていた。
男はそのままソフィシエを引き摺り、こちらとの距離を倍ほどにした。
「黒龍……どうして、ここに……?」
春明が、乾いた掠れ声で呟いた。
(こいつが、黒龍……?)
ジェシスは目の前の男を凝視した。想像していたのとは、少々印象が異なっている。
一見して、年齢は自分より上か。だが、その差はせいぜい二、三歳だろう。
まだかなり若い。
客観的に評して端整な顔の造作……特に目元の辺りは、どこか春明に似ているような。
そう思ってしまってから、ジェシスは慌てて心のなかでそれを打ち消した。
(そんなわけねえ! 春明に失礼すぎる……)
単純な外見はともかく、この黒龍という男は……『邪悪なオーラ』としか表現しようのないような、独特の雰囲気を身に纏っていた。
それゆえ、整った顔立ちが、ひどく陰険なものに見える。柔和な春明とは対照的だ。
「凛霞……見たところ、脅されて従っているわけでもなさそうだな。俺は、とんでもない思い違いをしていたようだ」
黒龍は、不気味なほど静かな口調で言った。
「よもやおまえが我々を裏切るとは……。俺も、さすがにまともな気分ではいられない。どうにかなりそうだ……」
その言葉通り、男の双眸には狂気めいた光が見え隠れしている。低く抑えた声とは裏腹に、内面で荒れ狂う感情が、瞳を透かして見えているかのようだ。
「いつから、ここにいたの? あなたは、西の港にいたんじゃ……?」
春明は、黒龍の正面に立って問い掛けた。声には激しい動揺が滲んでいるが、態度そのものは落ち着いている。
「おまえがなかなか現れないから、待ちくたびれてな。俺自ら迎えに来たというわけだ」
黒龍が答えた。
「俺は先刻から、ずっとここにいたぞ。おまえたちが林から出てくる様子を、すぐ近くで見ていた。状況を見極めるために……」
「あなた独りで、こんなところまで来たの? なぜ? どうして、ここが……!?」
春明がさらに問うと、男は嘲るような笑みを浮かべた。
「おまえの考えそうなことは、俺にはわかるんだ。この俺にはな。おまえと俺は幼い頃の記憶を共有する間柄だということを忘れたか? まあ、ここに来たのは半分以上的外れな憶測によってだが……それ以前に俺は、昔ここに凶虎老の船があったことを知っている。意外な場所に隠された船が、狠毒娘娘の逃亡を許すのではないかと考えたのは必然だ!」
「……!?」
言葉もなく立ち尽くす春明に対し、黒龍は追い討ちを掛けるように言った。
「俺が方術士として、おまえを遥かに上回る実力を持っているという事実も、計算に入れ忘れたのか? 狠毒娘娘の姿を術で不可視にしたところで、俺には通用しない。おまえに扱える術で、俺に扱えないものはないんだからな。俺にとっては、一時的に自らの気配を絶って、おまえたちの背後から接近するのも造作ないこと……」
それを聞いて、ジェシスは内心で臍を噬んだ。
(俺が、目を離したせいで……!)
ほんの一時でも、ソフィシエから注意を逸らしてしまった。それが最大の命取りだ。
今や彼女は男の手中にある。相手は武器を持っている上に、方術士だ。こちらから迂闊に手出しはできない。
こういう状況は――一種の『負け』だ。
身動きのとれないジェシスと春明の前で、黒龍は歪んだ笑みを深めた。
「まあいい、凛霞。おまえの処分は後回しだ。俺はこうして、狠毒娘娘を捕えることができた。いよいよ復讐を果たすときが訪れようとしている」
黒龍は、足下に横たわる少女に視線を落とした。
「しかし、なぜこの女が眠っているのか、俺には不可解だ。このままでは面白くない」
そう言うやいなや、男は左手の短刀を腰の鞘に収めた。
その口から天華語の呟きが漏れる。
と、夜の空間に小さな稲妻が閃き、それがソフィシエを直撃した。
少女の身体がビクンと跳ねる。
同時に、見え方が普通になった。春明の施した術が、強制解除されたのだろう。
「……!!」
ジェシスは我を忘れて足を踏み出しかけたが、すんでに思い止まった。
「ソフィシエ!!」
春明が叫ぶ。
「目を覚ませ、狠毒娘娘」
黒龍はソフィシエの手首を強く引いて命じた。
それに応えるかのように、彼女はわずかに身動ぎした。薄く目を開ける。
「……ジェシス……? 邪魔しないで、眠らせて……。まだ夜、でしょ……?」
舌足らずながら、明らかに不機嫌な口調で、ソフィシエは言った。昏睡状態に近い深い眠りから、強制的に叩き起こされたのだ。気分が悪くて当然だ。
「ソフィシエ! 起きろ! 寝てる場合じゃねえ!」
ジェシスは寝惚けた相手に切迫した状況を伝えようと、声に鋭さを込めた。
「おまえの手をつかんでるのは、俺じゃねえぞ! 天兵だ!!」
「天兵……?」
ソフィシエは、なおもぼんやりした声で呟き――
数瞬後、目を見張った。
敵を示す単語に危機感を呼び起こされ、急激に意識が覚醒したのだろう。
「天兵……!?」
ソフィシエは、咄嗟に起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。首だけ動かして、自分を捕えている男を確認しようとする。
その動作が、やけに緩慢に見えた。、身体が思うように動かないらしい。薬湯の影響か、それとも方術を食らったせいか。あるいは、両方が原因かもしれない。
「眠気は失せたか? 二年ぶりだな、狠毒娘娘。あのときはずいぶん世話になった。貴様にまた会えて、俺は歓喜の極みだ」
ソフィシエは、上から言葉を投げ掛ける男をまじまじと見つめた。
「あなたは……? ええと……誰?」
「……!!」
茶化されたと思ったのだろう、黒龍の表情が凶暴なまでに険しくなる。
「だから、天兵だって言ってんだろ!!」
ジェシスは思わず突っ込んだ。
「二年ぶりってことは……あのとき戦った天兵の一人なのね。確かに見覚えがあるような気もするけど……しないような気もするし……」
ソフィシエは、あくまで真面目な態度で呟いた。
「あのときは、わたしも余裕がなくて、相手の顔まで記憶できなかったのよ。ただ一人、捕縛できた女天兵以外は……」
ジェシスは、再び激しく突っ込みたい衝動に駆られた。
(その女天兵も、今この場にいるんだぞ! この局地的天然大ボケ娘!!)
しかし、実際に突っ込みを入れる必要はなかった。
「ソフィシエ……それは私です」
春明が言った。
「二年前、一人だけ捕えられ、あなたにお世話になったのは私……凛霞です」
「春明!」
ここで初めて春明の存在に気づいたのか、ソフィシエは彼女を見て声を上げた。
「あなたが……二年前、私と直接情報戦を交えた天兵……?」
「はい……」
春明が頷く。
「気づかなかったわ……。だって、あなた……あんまり綺麗になってるんだもの……」
茫然とした様子で呟いてから、ソフィシエは急に声音を改めた。
「ジェシス! 今の状況を説明して。わたしが眠っていた間のことを正確に教えて!」
少女は影の兵士の顔になっていた。
ジェシスが要求に応じる前に、黒龍がそれを遮る。
「貴様に詳しい経緯を知る必要などない。自分自身が、現在どういう状況に置かれているのか……自覚するのは、それだけで十分だ」
黒龍は、腰の短刀を再び抜き放ち、刃をソフィシエの上にかざした。
「まあ、二年前は任務の都合で多少姿を偽ってもいたからな……顔を覚えていないというなら、仕方あるまい。俺と貴様の間にある因縁の証拠を見せてやろう」
黒龍は短刀を握った手の指先で、自分の下衣の布地を摘み、裾を持ち上げた。
男の右脚が、膝下まで露になる。
見たところ、そこの肌には傷ひとつないようだが――
(何か違和感がするような……?)
相手と距離を置いて立っているジェシスには、すぐには判断できなかった。
「……そこ、義足ね」
ソフィシエの言葉で、ジェシスは真実を知った。
「そう、義足だ。俺は二年前に右脚切断を余儀なくされ、膝より下の部分を失った。それ以来、歩行訓練を重ねて運動機能の回復を図ったが、今でも速く長く歩くには杖が必要な有様だ。どうしてこんなことになったか、わかるか?」
黒龍は、少女の顔を覗
「わたしとの戦闘で負った怪我
ソフィシエは、相手の望む答えを平静に口にした。
「その通りだ。貴様は俺から身体
(この男も、縷
ジェシスは複雑な気持ちで、すでに服の下に隠された黒龍の義足を眺めた。
ソフィシエとの交戦による負傷がもとで、憂き目に遭
――まさか、右脚切断とは!
だが、今思えば、それも予想できる範囲内の事実だ。
自分が四年前、左脚に一撃を食らったときも、骨に達するほど深い傷を負った。ただちに治療を受けたからこそ、比較的軽い後遺症が残っただけで済んだのだ。
黒龍の場合は、傷の処置が遅れたのだろう。サーヴェクトに潜入中に怪我を負い、そのまま逃走したのなら、手当てどころではなかったに違いない。そのうち化
黒龍は、憎悪が凝縮
「貴様が俺から奪ったものは、右脚だけではないぞ。貴様のおぞましい武器によって刻
短刀の切っ先を少女の眉間
「さあ、狠毒娘娘。この罪、いかにして償
「く……!」
男の危
(こいつの恨みの所以
「春明……。この男が失ったもの、あんたは知ってるのか?」
ジェシスが囁
「……はい。黒龍は、この国で高い地位にある、さる大
「凛霞!! 余計なことは言うな……!」
黒龍の制止の声に構
「身体の一部が欠けた、ただそれだけの理由で、一族は黒龍のそれまでの努力を……他の何をも犠牲にした献身を踏み躙
重く受け止めざるを得ない話に、ジェシスは眉を顰
「なあ、春明。ひとつ真剣に訊いていいか?」
「はい?」
「この男……どうして影の兵士なんだ? 地位ある家を背負
春明は悲しそうにうつむいて、首を小さく左右に振った。
「駄目
娘の痛々
「勝手に喋
黒龍が、ひどく苛立たしげに口を挟んだ。
「過去のことで同情されるのは、もはや不愉快なだけだ。俺は報復を遂げて、自らの身を汚辱から解放し、そして生まれ変わる。今宵
肩越しに、ちらりと天空を見遣
「祝福するかのように月も美しい。やはり月亮娘娘は天華の民を見捨てないようだ。久々
「おまえ……ソフィシエをどうするつもりだ?」
ジェシスは黒龍を睨
「そうだな……どうしてやろうか? 無論、すぐに殺しはしない。二年前、凛霞が受けた拷問の何倍もの苦痛を味わわせてやる。じっくりと時間をかけてな……」
黒龍は、どこか甘さすら感じさせるような声音で答えた。
ジェシスは薄
(……!! こいつ、本物の嗜虐趣味者
影の戦場で、ごく稀
「この天華には、俺以外にも『国家守護者』と因縁のある者がごまんといる。その者たちが余
(……!? まずい!! こんなこと言われちまったら、ソフィシエは……!)
ジェシスの胸を過
「本当? それは楽しみだわ。でも、宴
ソフィシエは言った。
高級天華料理の宴にでも招待され、その主催者に対し費用の心配をしているかのような口
「何……?」
絶望的な状況下にありながら、怯
「宴を存分に楽しませてくれるんでしょ? わたしはなかなか満足しない客だから、大変よ? 声も涙も枯れ果てるまでなんて、どれだけ時間と費用と労力が要ることか……」
(待てソフィシエ! 頼むから、それ以上言うな!!)
ジェシスの心中での叫びも空
「……いいえ、訂正するわ。必要な時間と費用と労力は無限よ。宴は永遠に終わらない」
「延々
黒龍は、気味悪げな目で少女を眺めた。正体不明の化け物でも見るかのように。
「違うわよ。わたしが言いたいのは要するに……わたしを痛めつけて、悲鳴のひとつでも上げさせられたなら、涙のひとつでも零
ソフィシエは、嘲笑
(うわ……! 言っちまったよ、おい!!)
今や、当の少女ではなく、ジェシスが絶望的な気分になっていた。
「なるほど……。どれほどの責め苦に遭おうとも、決して屈
少女の真意を汲
「面白い。貴様のような奴ほど、いたぶりがいがある。さすがは狠毒娘娘だ。安心しろ、必ずや貴様を満足させる宴を主催してやる」
「そう、じゃあ精一杯頑
そう言った瞬間の少女こそ、度を越えた怖いもの知らずという意味で、まさに人ならぬ存在に見えた。彼女は確かに女神ではない。しかし、常人
(くっそ……! これだから、こいつは相棒
山より天より高いプライド。筋金
こうした性格には、少女のなかに流れる妖魔
敵に『犯
そして何より恐ろしいのは、その言葉が強がりでもハッタリでもないという事実だ。
捕
このままでは、そう遠くない未来に最悪の結末を迎えてしまうだろう。
ソフィシエは、散々いたぶり尽くされた揚げ句、笑いながら死んでいくことになるかもしれない。
(勘弁
ジェシスは、ソフィシエの肩にある烙印
真っ赤に焼けた金属製の印
だが、それは半年前、紛
この先、彼女の身体に、さらに無残な傷が際限なく増えていくのかと思うと、底なしに暗澹
それは、『明日世界が終わる』と宣告されたに匹敵
(こんなとき、クレバーならどうする?)
長年ソフィシエの相棒を務
(諦
実のところ、すでにかすかな勝機は見い出している。
優位に立つのは無理でも、五分五分
行動に移るなら、今しかない。
黒龍がソフィシエとの遣
(あの男が、俺と春明を前にして悠然
どれほど危険な賭
自分の人格を地の底にまで貶
やらなければ――最悪の未来に向けて一直線だ。
ジェシスは、横
隣に立つ娘は、剣呑
(すまねえ、春明!)
一瞬の躊
懐
同時に春明の腕をつかんで引き寄せる。
首筋に刃を押し当てた。
「きゃ……!?」
娘は恐怖というより驚愕の悲鳴を上げた。
「動くな! 殺すぞ」
ジェシスは端的