9. 旧傷又疼 消えざる過去の刻印
夜の公園に、静寂を貫く高い金属音が響く。
斬りかかってきた相手の剣を、ジェシスは短剣の根元で受け止めた。渾身の力で、剣先を相手のほうに押し戻す。
一瞬、相手の天兵は身体のバランスを崩した。
そこでジェシスは体勢を低くし、一歩前に踏み込む。下方から短剣を突き上げた。
狙ったのは、相手の剣の鍔。短剣の切っ先は、過たずそこを捉えた。
一点に力が集約された衝撃を受け、相手の剣が跳ね上がる。握る手から離れた。
目を見開いた相手のこめかみを、すかさず短剣の柄で殴りつける。
天兵は地面に倒れ臥した。
完全に気絶させられたかどうか確かめる暇はない。
右後方から迫る、別の人間の気配。
ジェシスは咄嗟に左に跳んだ。身体のすぐ脇で、刃が空気を薙ぐ音がした。
振り向かないで走り、ある程度の距離をとったと確信してから、相手を視界に入れる。
(後は、こいつだけか……)
五人の天兵のうち、立っているのは、もはやこの一人だけだった。
戦闘に突入してから、さほど時間は経過していない。だが、他の四人は、すでにジェシスの手で昏倒させられている。起き上がってくる可能性も捨てきれないため、油断は禁物だが、戦況は優勢と見ていい。
最後に残された天兵は、体格からして女だ。手には、ジェシスのものと同じような短い剣を握っている。
仲間が次々と倒されても、戦意喪失する様子は全くない。短剣を構えて、一気にこちらとの距離を詰めてくる。
横薙ぎに切り払おうとするのを、ジェシスは飛び退いて躱した。
互いに似た得物を手にしているだけに、一番対処が厄介だ。
微妙に角度を変えて、相手は続けざまに急所を狙ってくる。それをジェシスは、最低限身をひねって避け、あるいは自分の短剣で弾き返した。
この天兵は、なかなか優れた短剣使いのようだ。短剣という武器の特性を熟知し、その長所を生かして短所を補う技を会得している。
短剣術は、護身術から暗殺術まで多岐にわたる体系を持つ、影の戦場において最も基本的な戦闘技能のひとつ。PSBでも、戦闘要員・非戦闘要員を問わず、短剣を用いた護身術の修得が義務づけられている。
絶え間なく鋭い攻撃を見舞ってくる相手に対し、ジェシスは反撃の機会を見い出せずにいた。天兵は明らかに殺意を込めて斬りつけてくるが、ジェシスには相手を殺したくないという思いがある。
その感情の差が、そのまま行動の差となって現れていた。ジェシスは手を出しあぐねて防戦を強いられ、しばしその状態が継続する。
ジェシスにとって、相手の攻撃を見切って避けたり、受け流したりするのは難しいことではなかった。実際、天兵の握る刃は、いまだジェシスの身体に掠り傷ひとつ負わせられないでいる。
やがて次第に天兵の動きが鈍ってきた。息遣いが荒くなっている。いくら修練を積んで体力を鍛えていても、限界はある。
全力での攻勢を、いつまでも保ち続けることは不可能だ。
そろそろ反撃に転じようと、ジェシスは注意深く相手の隙を窺った。
その刹那――
ジェシスの身体の一部に予期せぬ痛みが走った。
左脚が引きつったように強張り、自由が利かなくなったのだ。
この機を相手が見逃すはずはない。月光を反射した短剣が、ギラリと光った。
動きを止めた敵の左胸に刃を埋めようと、猛然と突きかかってくる。
右脚を軸に、ジェシスはどうにか大きく身体をひねる。
しかし躱しきれずに、左の二の腕の外側を切り裂かれた。
だが同時に、狙いを外した天兵も、体勢を崩して前のめりになる。
このときには、ジェシスの左脚の感覚は正常に戻っていた。咄嗟の判断で、自分の短剣を投げ捨てる。素早く動いて相手の身体を背後から捕らえ、首筋に手刀を落とした。
女天兵は小さく呻いて、ぐったりとなった。短剣が手から滑り落ちる。
ジェシスはその身体をいったん支えてやり、なるべくそっと地面に横たえた。
傍に転がっている自分の短剣を拾い、すぐに立ち上がる。周囲を見回し、五人の天兵の様子を慎重に観察した。今すぐ起き上がって襲ってくることはなさそうだ。
それでも、うかうかしてはいられない。ジェシスは、懐から布を取り出した。
ソフィシエの身体に巻いてあった布だ。さっき取り去ったとき、自分の上着の内側に、丸めて押し込んでおいたのだった。
(こいつは有効に使えそうだ……)
薄手ではあるが、広げるとかなりの面積がある布である。ジェシスは、それを細く引き裂き、紐状にした。少し強度が足りないと思ったので、二本を組にして固く縒り合わせ、一本にする。
完成した布紐を用いて、ジェシスは天兵の一人を拘束しにかかった。腕を背中に回し、両手首をまとめて一括りにする。
簡単に抜け出されては困るので、肌に食い込むほど厳重に縛り上げた。一見、頼りなさそうな布紐だが、男でも力任せに引きちぎるのは困難だろう。
同様の手順を繰り返し、他の四人も一人ずつ縛っていく。生温かい血の滴る腕の痛みを堪えながら、ジェシスは迅速に作業を行った。あっという間に全員の拘束が完了する。
無力化された五人を見下ろして、ジェシスはようやく人心地がついた。
(ふう……我ながら見事な手際。日頃の拘束術訓練の賜物ってやつだな……)
ひとまず、この場は命拾いできた。
それを実感しつつ、ジェシスは改めて、左の二の腕に負った傷の具合を確かめた。
浅くはないが、そう深くもない。身体に通常の痛み以外の症状が感じられないことからして、刃に毒の類は塗られていなかったようだ。
裂いて紐を作った残りの布を利用し、止血を試みる。
布の量が足りず、血管の圧迫が不十分に思えるが、やらないよりましだ。この程度の傷なら、出血多量で死ぬことはない。戦闘の規模からすると、破格の軽傷である。
(……クレバーに感謝しねえと)
一対五という厳しい状況に際して、自分がここまで沈着に対処することができたのは、あの友人のおかげだ。クレバーを相手に実戦訓練を重ねていると、そのうち、並の人間の動作の全てが間延びして見えるようになる。すると、剣などによる攻撃は、ほとんど鼻歌交じりで回避できるようになるのだ。
(方術士らしき奴がいなかったのも、幸いだったな……)
極論するなら、魔術士に正面から対抗することができるのは、唯一、魔術士だけ。もし五人の天兵のなかに方術使いがいたなら、戦闘の形勢は違っていたはずだ。
春明が自分のことを『数少ない方術士』と言っていたように、天華には、それほど多くの魔術士がいるわけではないのだろう。
とりあえず血の流出を抑えることに成功したジェシスは、ソフィシエを隠してある植え込みに近寄りかけた。
そのとき、辺りに散らばっている武器が目に入った。天兵たちが取り落としたものだ。
このまま放置しておくのは危険すぎる。特に剣や短剣といった刃物は、拘束を解くのに使用される恐れがある。
ジェシスは、ヌンチャクやら剣やらの武器を拾い集めた。公園の奥の池の前まで歩いていって、水面に投げ捨てる。水深は浅いと思われるが、水は不透明らしく、池に呑まれた武器は影も形も見えなくなった。
池の前から戻ってくると、ジェシスは今度こそソフィシエのもとに向かった。
抱き上げようと手を伸ばしかけたとき――
背後から呻き声がした。動作をピタリと中断して、振り向く。
「うっ……うう……貴様……!」
天兵の一人――ジェシスと同じ年頃と思しき男が、地面の上で身を捩っている。
「目覚めるのが早いな……。縛っておいて大正解だ」
ジェシスは呟いて、男の傍らに歩み寄った。穏やかに声を掛ける。
「悪いな。おまえらには当分このままでいてもらわねえと困る。まあ、遅くても明日の朝になれば、近所の住民が見つけてくれるだろ」
後ろ手に縛られた天兵は、起き上がれないまま、首を巡らせた。仲間たちが同じようにされて倒れているのを見て、顔を歪める。
「く……! 殺せ」
「殺さねえよ。殺すつもりなら気絶中に止めを刺してる。それくらい理解しろ」
「気まぐれな慈悲で卑しい優越感に浸るつもりか……!? さっさと殺せ。貴様らが、これまでいつもそうしてきたのと同じようにな!」
「……何でそんなに死にたがるんだ? 死にたいほど深刻な家庭の事情でもあんのか?」
敢えて、とぼけた質問をする。
「戯言を……! 我々は影の兵士。戦場にて敗北した兵士には、死あるのみ。それが世の理だろう」
ほぼ予想通りの回答を受けて、ジェシスは溜め息を吐いた。
(俺たちと同世代の影の兵士にしちゃ、やけに古風な思想だな。組織がそういう教育してんのか……?)
自ら『影の兵士』を名乗る以上、『無言の協定』の存在を知らないはずはないだろうに。
「そんな時代遅れの常識は捨てちまえ。確かに、相手を殺そうとするからには、自分も殺される覚悟を持つのは当然だがな。一流の影の兵士が守るべき鉄則は、殺されるまで生き
抜くことだ。自分から死を求めるのは、自分が二流以下だと証明するようなもんだぞ」
軽く諭すように言うと、天兵は瞠目して息を呑んだ。この相手にとっては、脳裏に青天の霹靂をもたらす言葉だったようだ。
「おまえらの組織の方針がどうかは知らねえが、個人として冷静な意識を持てよ。負けたからって死ぬことが、仕える国のためになるか。仲間のためになるか。自分は本当に死にたいのか。胸に手を当てて、よーく考えてみるんだな」
天兵は瞼を閉じた。短い沈黙を挟んでから、ぼそりと呟く。
「……無理だ」
それを聞いて、ジェシスは軽い落胆を覚えた。
(やっぱ、一言説教したくらいじゃ、ガチガチに固まった観念形態はぶち壊せねえか)
しかし次の瞬間、天兵は言った。
「今の状況では、胸に手を当てられない」
ジェシスは反射的に『そっちかよ!!』と突っ込みそうになったが、ぐっと堪えた。
相手の意識に一石を投じられたことを悟って、口の端を上げる。
「……そりゃそうだ」
至極もっともな相手の言い分を肯定した。これ以上、言葉を重ねる必要はない。
「じゃあ、また明日じっくり考えろ。今夜はゆっくり眠れ!」
ジェシスは、叫ぶと共に天兵に当て身を食らわせ、再び気絶させた。
ソフィシエを抱き上げて立ち去る場面を、見られたくなかった。たとえ少女の姿が見えなくても、動作だけで不審に思われるかもしれないからだ。
天兵たちには、ソフィシエとは別に逃げていると思わせておいたほうがいい。用心するに越したことはないのだ。
ジェシスは少女の身体を抱え、影の戦場と化した公園を後にした。
北の岬まで、残すところ後わずかの地点。
ここに至るまでに、天兵との二度目の遭遇はなかった。
ジェシスは、林のなかの細道を、目を凝らしながら歩いていた。春明の地図によると、この林を抜けた先に岬があることになっている。
足元に続く道は、遊歩道らしき体裁をしているのだが、整備が行き届いているとは言い難い。地理的に辺鄙な場所であるために、訪れる人間も少ないのだろう。雑草がぼうぼう生えているわ、小石がごろごろ転がっているわで、荒れ放題だ。
ジェシスは、歩きにくいことこの上ない道を、一歩一歩進んでいった。つまずいたら、自分より先にソフィシエが地面に叩きつけられることになる。
足元に意識を集中していると、どうしても先刻の戦闘中の出来事が思い起こされた。
突然、何の前触れもなく動かなくなった左脚。
(『古傷が疼く』ってのは、ああいうことなんだよな……)
四年も前に負った傷で、リハビリもとっくに完了しているのに、あんなことが起きる。
だからやはり自分は、白兵戦要員にはなれない。
どれほど訓練を積んで、能力を上げても。
――深く思い知らされた。
ごく稀なこととはいえ、激しい動きを続けると左脚が引きつるというのは、近接戦闘において致命的な欠陥である。
そんな後遺症が残るほどの傷を自分の身体に刻んだのは――ソフィシエだ。
だが自分は、彼女のことを恨んでなどいない。
今はもちろん、その当時も。
この左脚の怪我は、不幸な事故の結果であって、ソフィシエに責任はない。
(どっちかと言えば、責任があるのは俺のほうだ……)
四年前……互いにある程度親しくなってから、間もない頃のこと。
自分はソフィシエに、実戦訓練の相手になってくれるよう頼んだのだ。
縷鋼線という、世にも珍しい武器にいたく興味を引かれ、その使い手である彼女と実際に戦ってみたくなって。
きっかけは、単純な好奇心。まだ子供だった自分は、慎重な判断力に欠けていた。
また、影の兵士として少しでも強くなるために、無我夢中になってもいた。
相手は頼みを受け入れて、こちらとの手合わせに応じてくれた。
無断での実戦訓練は組織内法規で固く禁じられているにもかかわらず、自分たちはそれをしてしまったのだ。
その結末が、左脚の怪我。
模擬戦闘に没頭していくうち、互いに歯止めが利かなくなり、本気の一撃が命中した。
縷鋼線――あれは恐ろしい武器だ。
両手に装着する手甲から伸びる、幾本もの金属線。
女の髪のように長く、細く、しなやかなそれを、ソフィシエは自在に操る。
些細な腕の動きひとつで振るわれる極細の鋼線は、あらゆるものを無情に切り裂く。
それが首にでも巻きついたら最後、永遠に胴とは泣き別れだ。
しかし、ソフィシエは通常、鋼線で相手の手足を傷つけ、大勢の敵を一気に無力化するという戦法をとっている。縷鋼線とは、凶悪なまでの威力を持っていながら、相手の命を奪わずに倒すためにも有効な武器なのである。
だからこそ、本気になったソフィシエに攻撃されても、自分は脚の怪我で済んだ。
縷鋼線によって残された傷痕には、ひとつ大きな特徴がある。
傷を負ってから、どれほど時間を経ようとも、決して消えない。薄れもしない。
傷にまつわる記憶を風化させまいとするかのように、その存在を主張する。
不思議に思って、他意はなくソフィシエに尋ねてみたことがある。
『その鋼線には、特別な毒か何かでも塗ってあるのか?』と。
返ってきた答えは、こうだった。
『この武器は……呪われているの』
名状し難い恐怖に駆られて、それ以上の追究は断念した。
謎の多いソフィシエの得物だが、唯一確かなのは、それが妖魔の世界に伝わるものだということ。
それゆえ、使い手たる彼女自身と同じく、人間の理解の及ばない部分がある。
だが、物である武器とは異なり、ソフィシエは血の通った少女だ。
それも、半分は人間。よって、ごく普通の人間らしい感情も持ち合わせている。
(ずっと気に病んでたのかもしれねえな……)
四年前、仲間に消えない傷を負わせたことを。そんな素振りは、全く見せなくても。
たぶんソフィシエは、それを過ちとして、自らの心にも消えない傷を刻んでいたのだ。
昨夜の言動の数々が、その事実を示している。
無事にサーヴェクトに帰れたら……いや、彼女が目を覚ましたら、今度は面と向かって言ってやりたいものだ。
『さっさと忘れちまえ』と……。
そのとき、ジェシスは背後から接近する人の気配を感じ取った。
足を止め、一応警戒しながら振り向く。しかし、さほど危機感は覚えなかった。
ひどく忙しない足音と息遣いが聞こえてきたからだ。
殺気の類は感じない。身を潜めて追ってきているわけでもない。
街中とは違う暗さのなかで、最大限に目を凝らし、気配の主を待ち受ける。
ほどなく、木々の間の小道を必死の様子で走ってくる人影が見えた。
と、同時に、相手もこちらの存在に気づいたらしい。
「じ、ジェシスさん……?」
聞き覚えのある娘の声が、名を呼んだ。
「やっぱ春明か……」
今はおだんご頭ではない娘は、勢いを緩めずに、こちらに駆け寄ってきた。
「良かった……! ご無事で……!」
「そんなに慌てると転ぶぞ、春明!」
娘の長い黒髪は、散々に乱れていた。なだらかな肩が大きく上下している。
「追いかけても追いかけても、ジェシスさんの姿を見つけられなかったので、すごく不安でした! 途中で、何かあったんじゃないかって……!」
春明は、上擦った声で叫んだ。
「人一人抱えていても、やっぱり男の方の足は速いんですね。私、祖父に会って少し話をしてから、すぐさま全力で追いかけたんですよ? なのに、ここに来るまで追いつけないなんて……っ!?」
春明の言葉が不意に途切れた。彼女の目線は、ジェシスの左腕を捉えていた。
「ジェシスさん! そこ……怪我を?」
「ああ。あんたの忠告は的確だったよ。歓楽街を抜けた後、閑静な住宅地の辺りで天兵に出くわした。包囲網を張ってる奴らの一部だろう。人数は五人。まあ、どうにか切り抜けられたから、今ここにいるんだが」
「五人……!? いったい、どうやって逃げ切ったんですか!?」
春明は驚愕を露にして訊いた。
「いや、さすがに逃げ切れそうもなかったから、戦った。気絶させた上で縛り上げて置いてきたんだ。あんたがくれた布は、ずいぶん役に立ったよ」
「布? 布って……」
春明はジェシスの左腕に顔を近づけた。
「あ! 飯店の備品からくすねてソフィシエさんの身体に巻いた食卓用掛け布……」
「大事な備品を返却不能にしちまって、悪いな」
「いえ、お役に立ったのなら幸いですが……。それにしても、五人の天兵を単独で退けてしまうなんて、『国家守護者』の実力は計り知れませんね。ソフィシエさんといい、あなたといい、怖いくらいに強い……」
春明の率直な呟きに、ジェシスは苦笑した。
「俺はともかく、ソフィシエは確かにそうだな。俺から見たって怖い。まあ、PSBにはこいつよりすごい奴もいるが」
「そう、なんですか?」
間近な春明の双眸に、畏怖の色が宿った。
「……それより春明。あんたこそ、じいさんを探し出してから、ここまで来られたのは、それだけですごいと思うぞ。仲間には見咎められなかったのか?」
「は、はい、何とか。とにかく急いで、髪で顔を隠すようにして移動しました。尾行だけはされないように、細心の注意を払いながら……。けれど、結局、あなたの助けにはなれませんでしたね。追いついたのは岬の一歩手前ですし……そもそもあなたには、私の援護なんか不要だったのかもしれない」
春明は残念そうに言って、小さく溜め息を漏らした。
「……でもまあ、とにかく、捕まらないでここまで来られて何よりです。後は、岬の上でおじいちゃんの船が来るのを待つだけですね」
彼女の祖父の船が岬ではなく、少し離れた入り江にあるということは、ジェシスも説明されて知っている。入り江に船があるなら、そこに直接向かえばいいような気もするが、それは危険だと春明が反対した。
黒龍は、『船着き場のある水際と、そこへ至る主要な経路』を封鎖したと言っていた。春明の祖父の船が置いてある北の入り江は、狭いながらも、何人かの漁師や釣り人に船着き場として利用されているという。
よって、春明は懸念したのだ。そこへ向かおうとすると、あるいは、そこで船の準備ができるのを待っていると、天兵に発見される危険性が増すのではないか、と。
ゆえに彼女は、船を陸付けしやすい条件の整っている岬にジェシスたちを待機させて、そこへ船を回すという策を提示した。船を操るのは、彼女の祖父である。
「なあ、春明。じいさんには、今の状況を何て説明したんだ?」
ジェシスは、ふと気になって尋ねた。
春明は最初から、祖父の協力を大前提として脱出策を組んでいた。だから、敢えて口を挟まなかったのだ。
しかし、考えてみれば……彼女の祖父が孫娘の属する立場を知っていようがいまいが、突然夜中に船を出せと要求されたら、奇怪に思うだろう。全くの真実を明かす必要はないにしても、協力を得るには、それなりの状況説明が要るはずだ。
「そのことなら、心配は無用です。祖父の説得には成功しましたから」
春明は明るい口調で言った。
「船を出す約束は、しっかり取り付けました。私の祖父は一度交わした約束を違えたりはしません。必ず守ってくれます。安心してください」
「……そういう意味では信頼できるかもしれねえが、海の上で急に呆けて、あらぬ方向に行っちまうってことはねえだろうな?」
ジェシスは鋭く指摘した。
「そっ、それは……あの、薬湯の件は申し訳ありませんでした! どうやら祖父が故意に調合にひねりを加えたのが原因みたいです。悪気はないので、どうか許してください」
春明は、ひどく気まずげな様子で二度も頭を下げた。
「とにかく祖父は、多少変わった性格をしてますけど、根本的に信頼できる人です。私と約束した以上、あなたがたが母国に帰れるように手を貸してくれるはず……」
「……わかった。あんたの言うことなら、俺は信じるだけだ。さっさと行こう。ひょっとしたら、もうじいさんが待ってるかもな」
「はい……! そうしましょう」
ジェシスと春明は、軽く視線を交わして、目的地に至る最後の一歩を踏み出した。