8. 月下迷走 錯綜する三者三様の思考
春明は探していた――自分の祖父を。
月亮飯店からさほど離れていないところに、一本の小川が流れている。その川の両脇では、何本もの緑の柳が、風に葉を揺らしていた。
小川に沿って伸びている街路は、その柳並木の美しさから、青翠路と呼ばれている。
この街に住む人々は、その何とも言えない風情を愛でながら、のんびりと柳の下を歩くことを好む。それは春明の祖父とて例外ではない。
青翠路は、祖父のお気に入りの散歩コースになっていた。
(絶対、この辺りにいるはずなんだけど……どこまで歩いていっちゃったのかしら?)
飯店を出た春明は、いったんジェシスと別れ、祖父の捜索を開始したのだった。
ソフィシエに飲ませる薬湯を煎じてから、夜の散歩に出かけてしまった祖父を……。
この散歩は、一年ほど前から祖父が始めた、少々困りものの日課だ。老後の体力作りという名目で、ふらりと外に出ては、いつも何時間も帰ってこない。
(おじいちゃん! お願いだから、早く見つかって……!)
焼けつくような焦りに胸を支配されながら、春明は青翠路を駆けた。
黒龍の指示に背く行動をしているところを、天兵に見咎められないように祈りながら。
ジェシスとソフィシエを安全に島の外に逃がすには、祖父の協力が必要不可欠だ。
この天華は、大海に囲まれた島国。脱出するには、船を使うしかない。
それも、それなりの設備を持ち、速度を出せる船でなければならない。ボートのような小船で外洋に漕ぎ出したりしたら、たちまちのうちに遭難する。
しかし、多数の立派な船が停泊する港は、黒龍たちによって厳重封鎖されていると見て間違いない。天兵の監視の目を盗んで、船に乗り込むというのは不可能だろう。
そもそも、夜間、無人で海に浮かんでいる船に逃げ込んでも無駄だ。船乗りがいなければ、大きな船は動かせない。
そこで春明は、祖父の協力を頼みの綱として、脱出策を考案したのである。
祖父は、小型の船を一隻、私有している。
どれほど小さくても、祖父の能力があれば、外海での航行にも堪える。
天華からそのまま北大陸まで辿り着くのはさすがに無理だと思われるが、祖父ならどうにかしてくれるだろう。
ただ、春明の知る限り、その船は、ここ数年間使用されていない。街の北側の狭い入り江に、長いこと放置されているはずだ。
まともに使えるようにするには、多少の点検と手入れが要るかもしれない。
そのために必要な時間を考えると、とにかく急いで祖父に会わなければならないことは確かだった。一刻も早く会って、自分の願いを伝えないと――
(おじいちゃん、きっとびっくり仰天するわ……)
出来の悪い子供であった自分を、唯一保護し、育ててくれた家族――優しい祖父。
だが、いくら孫娘に甘いといっても、彼も李一族の人間であることに変わりはない。
(それに、おじいちゃんだって、昔は……)
協力を要請したところで、すんなり受諾してもらえるとは思えなかった。
それでも、何としても説得は成功させるつもりだ。
脅迫でも懐柔でも泣き落としでも、何でもやってやる。それらが通用するような生温い相手ではないという事実は、この際、頭から締め出そう。
祖父不孝と謗られようと、愚か者と罵られようと、構うものか!
世にも罰当たりな決心をしたとき、春明は視界の片隅に見覚えのある後ろ姿を捉えた。
淡い月明かりの下でも、長年共に暮らしている家族は一目でわかる。
「おじいちゃん!! やっと、見つけた……!」
春明は荒い呼吸の合間に叫んで、祖父の背中に駆け寄った。
ジェシスは走っていた――北の岬を目指して。
そこに向かうよう指示したのは春明だが、現在、彼女は別行動をとっている。
迷わず岬に辿り着くために、春明が手渡してくれた、この街の詳しい地図。そこには、目標地点までの『最も危険性が低いであろう経路』が記されている。
脱出策を説明した際、彼女が自分で地図上に書き込んだのだ。
実際に危険性が低いと考えるには、春明のことを全面的に信用する必要があったが――天華を初めて訪れたジェシスは、当然ながら周辺の地理に明るくない。いずれにせよ地図に頼らなければ、目的地に着くことなど不可能だ。
それに、もはやジェシスは、こちらを助けようとする春明の意思そのものを疑うつもりはなかった。ゆえに、素直に地図に従って進んでいく。
腕のなかには、眠ったままのソフィシエがいる。方術により不可視の状態になった少女の胴の部分には、目に見える布を巻きつけ、結び目を作ってある。
あたかも大きな荷物を抱えているかのように見せるための偽装だ。何かを捧げ持つような格好が、他人の目に不自然に見えないようにと、出掛けに春明が施した処置である。
ジェシスはついでに、脇腹にベルトで吊って隠し持っていた短剣を、偽装の布の下に移しておいた。不意の襲撃に備えるには、このほうがいい。
春明が対応する術をかけてくれたので、ジェシスには、布からはみ出た少女の顔も手足も見える。ただし普通の見え方ではない。どこかぼんやりしている。それでいて、ソフィシエだけ周囲の空間から切り離された存在であるかのように、浮き上がって見えるのだ。
(やっぱ訳のわからねえ力だよな……魔術ってのは)
魔術を見るのはこれが初めてではないが、いつ見ても不思議だ。畏怖すべき力で、便利な技術でもある、ということは認める。だが、どうにも自分は馴染めない。
魔術士に対する妬みなどは持ち合わせていなくても、そんなふうに感じてしまうのは、やはり機械大国で生まれ育った身だからか。
隣国の魔法大国との因縁は、長年に渡り悲劇と憎悪を生み出し続けながら、いまだ国民の心に浅からず根付いている。
それでも今このとき、魔術はソフィシエを守る救いの手段として機能しているのだ。
この力が、この世界に存在していることに、大いに感謝してもいいだろう。
銃器にしても魔術にしても……それそのものに罪はない。
(そいつは常に、使用する人間の側にある……)
腕に抱いた少女を見下ろし、そんなことを考えながら、ジェシスは走り続けた。
飯店を出てから、路地を駆け抜け、橋を渡り、歓楽街をすり抜け、大通りを横切った。
やがて、街の中心部から遠ざかり、人の姿が次第にまばらになっていく。
庶民の小さな家が立ち並ぶ住宅地に差し掛かった。
地図によると、北の岬までの道程は、そろそろ残すところ半分になる。
ここまでは無事に来られた。けれども油断はできない。
春明は、ジェシスに対して断言した。
いかに多人数で包囲網を展開したとしても、この街は広い。必ず抜け道はある、と。
しかし一方で彼女は、こういう忠告もしたのだ。
どれだけ注意して経路を選び、警戒しながら進んでも、一度も天兵と接触することなく岬に着くのは困難だろう、と。
天兵たちによって捕えられたら、待っているのは――死だ。
ジェシスは一時も休息することなく、ひたすら夜の街を駆け抜けた。
長く走っているうち、ソフィシエの身体が自分にとって、ほとんど負荷にならないことに気づき、そして驚く。
――軽すぎる。
(昨日まで、ろくに飯も食ってなかったんだから、無理もねえが……)
瞼を閉じたままの顔。ぐったりとした身体。
なぜか急に恐ろしくなって、ジェシスはソフィシエを抱く腕に力を込めた。
眠っているだけだというのは承知している。彼女の身体は温かい。
だが――
白く冴えた月光に照らされた静かな寝姿は、どうしようもなく死を連想させる。自分の不吉な連想が、彼女の運命を暗示しているかのようで、ますます怖くなる。
月の女神は、自らを信仰する天華の民に味方し、復讐を遂げさせようとしているのではないだろうか……?
(いや、違う! こいつを死地へ突き落とそうとしてるのは女神じゃねえ。この俺だ)
実在も定かでない女神に責任を転嫁するのは、あまりに虫がよすぎる。
この世に決められた運命などない。
あるのは、人の選択と決定だけだ。
(俺は、判断を誤った……)
ソフィシエは正確に危険を認知し、あれほど強情に天華から離れようとしていたのに。
『私のおせっかいが、彼女の窮地を招いた……』
春明はそう言ったが、現在の状況を、どうして彼女のせいばかりにできよう?
最初に判断を誤ったのは自分。『おせっかい』を嬉々として受け入れたのも自分。
確かに、ソフィシエの心と身体は、自分の目論み通りに回復した。しかし、それと引き換えに命が奪われるのだとしたら、本末転倒もいいところだ。
(……そんなことはさせねえ! ソフィシエ……おまえは、俺が守る)
現実として、今ソフィシエを守れるのはジェシスだけだ。
ここは母国から大海を隔てた異国なのだ。助けを求められる人間はいない。
わずかに二人、シュリとキアラという仲間がいるが、あの二人は情報部所属の諜報員で戦闘は専門外だ。何より、こんな事態に巻き込むわけにはいかなかった。最悪、彼女たちまで素性がバレて、捕えられてしまう可能性がある。
春明は、祖父を見つけたらこちらの後を追い、ソフィシエを守るのに手を貸すと言ってくれた。その言葉に敢えて異は唱えなかったものの、できれば彼女には追いついて欲しくないとも思う。自分たちと一緒に港とは別の方向に行こうとしているところを、天兵たちに目撃されたら、彼女の裏切りは決定的なものとなるからだ。
(誰にも頼れなくても、こいつは、俺の手で守り抜く。俺の命に代えても……)
守ってやる、ではなく、守りたい。どうか守らせて欲しい。
そうでないと、選択と決定を間違えた者としての責任をとることができない!
当たり前の決意を固めたとき、ジェシスは意識の片隅で、異変を感知して足を止めた。
静まり返った夜の向こうから、一瞬漂う、不穏な空気。
――殺気だ。
厳密には、それに類する気配。『敵の存在感』とでも言うべきもの。
ジェシスは、くるりと踵を返した。気配とは反対の方向に、猛然と駆け出す。
背後……比較的遠くのほうで、ざわめきがした。
――複数の人間の足音。
この周辺はまだ住宅地である。前方に十字路が見えた。特に何も考えず、左に折れる。
「站住!!」
怒声めいた叫び声が聞こえた。
(待てと言われて待つ奴がいるか!)
走る勢いは緩めない。後方からは、かすかな足音と息遣いがついてくる。
次の曲がり角を、今度は右に折れる。
すると偶然、木々の生い茂る広い庭のような場所が目に入った。
(ここなら……!)
ジェシスは、道よりも一段階濃い闇に包まれているその場所に、迷わず駆け込んだ。
ちらりと後ろを確認する。追跡者たちは、まだ現れていない。
ソフィシエの身体に巻いてある布の結び目を解き、素早く取り去る。
布の下に置いてあった短剣を握り、他人の目には見えないであろう少女の身体を低木の植え込みの間に横たえる。
これで、とりあえず見つかる心配はないだろう。
最初から、追ってくる気配を振り切れるとは思っていない。この場で迎え撃つ。
いったん逃げたのは、よりソフィシエの安全を確保するため、隠し場所を探したかったからだ。
ざっと周囲を見回してみる。ほぼ満ちた月が出ていて、両目はすでに夜の暗さに慣れているので、さほど視界は悪くない。
思ったよりも、ずっと奥行きのある広い空間だ。
木の下に据えられたベンチ。人工のものらしき川と池。天華風の意匠の四阿。
ここはどうやら、個人の庭というよりは、公園のようだった。昼間なら住民の憩いの場なのだろうが、今はひっそりとして、見える範囲に人の姿はない。
と、そこへ足音がやって来た。
ジェシスは振り返って、短剣を鞘(さや)から抜いた。
「他在那儿! 請大家来! 快来呀!!」
一人の声に呼応して、気配が集まってくる。おそらく一時ジェシスの姿を見失い、分散して探していたのだろう。
ジェシスの眼前に、追跡者たちが姿を現した。
人数は……全部で五人。顔立ちまではよく見えないが、男も女もいるようだ。
観光客狙いの物取りや、酔ったチンピラという風情ではない。そんな輩が、こんな住宅地をうろつくはずもない。
五人が纏う雰囲気は、あからさまに暴力的ではないが、内に冷たく研ぎ澄まされた鋭さを孕んでいる。
この切れるような敵意――疑うまでもなく天兵だ。
「何だ? 俺に、何か用か?」
わざとらしく尋ねてみる。
すると、相手のうちの一人が、手に持っていたランタンのような灯りを掲げ、こちらにかざした。
少し眩しくて、ジェシスは目を細める。
「……貴様、【プリサイス・ストレイ・バレッツ】のエージェントだな?」
若い男の声が、流暢な北大陸言語で問い返してきた。天兵たちには、かなり外国語教育が行き届いているようだ。それだけでも、影の兵士としての優秀さが窺える。
「さあな。そうとは限らねえが」
本気で言い逃れるつもりもなく、ジェシスはしらばくれた。
「この男、本当に黒龍様が逃がすなと命じた敵なの? 女のほうが見当たらないけど」
若い女の声が、やや不安げに響いた。
その言葉を皮切りに、五人の男女は、それぞれ喋り始めた。
「そうだな……。注意すべきは、若い外国人の二人連れだと聞いていたが」
「それより、さっきの伝令では、黒龍様が西の港で直接、捕縛にあたられると……」
「凛霞様が誘導に失敗された可能性もあるだろう」
「こいつ、我々の目を晦まそうと、女とは別々に逃げようとしているんじゃないか?」
五人とも北大陸言語を使用している。天華語で話そうがカヌディ語で話そうが、どうせ内容は筒抜けだと割り切っているに違いない。
こちらの語学力に対する大いなる誤解だが、会話が聞き取れるのは都合が良かった。
「この男は我々が接近しようとした途端、弾かれたように逃げ出した。間違いなかろう」
「武器を手に待ち受けてるくらいだから、きっと本物よ」
「そうね……。別人にしては、外見的な特徴が情報と合致しすぎてるものね」
「年齢十代後半、黒髪黒瞳だが北大陸人らしき顔立ち。目つきが鋭く、虚勢で他人を威圧する不良のごとき風貌をしている、か。なるほど確かに、近くで見れば、ますます情報の人物像に当てはまるな」
(やかましい!! 俺だって、好きでこんな顔に生まれついたわけじゃねえ!)
ジェシスは心のなかで絶叫した。
(黒龍とかいう男……いったい、どういう人相の伝え方したんだよ? どうやら好き放題言いやがったようだな。いけ好かねえ野郎だ……)
たった今相手が口にした内容が、自分の外見を限りなく的確に表現しているとは、どうしても認めたくないジェシスであった。
「それにしても、童女のごとき容貌をした女というのは、どこへ消えたのかしら?」
「黒龍様は、特に女のほうを逃がすなと言っておられたのに」
「そう言えばこいつ、さっき何か大きな包みを抱えているようだったが……」
「おい貴様、どこへ隠した!?」
「大きな包み? そんなもん、持ち歩いてた覚えはねえな」
相手の詰問に、ジェシスは小さく肩を竦めた。
「嘘を吐かせ!」
「ねえ、でも、見た感じ、中身が人間っていう大きさでもなかったわよ?」
「それもそうか……」
「だが、この男が仲間の女の行方を知らないはずはあるまい」
「捕らえて、無理やりにでも吐かせれば済むことだ」
「ええ、そうしましょう。女は生け捕りにしろという命令だけど、男は我々がどのように扱ってもいいらしいから」
「こいつは忌々しきPSBのエージェント!」
「心ゆくまで復讐を果たす機会が、ようやく巡ってきたぞ」
「これも月亮娘娘のお導きね……」
五人は、口々に囁き合う。その声音は、粘着質で陰湿な喜びに満ち溢れている。
ジェシスはゾクリと背中が粟立つのを感じた。
(こいつら……PSBに何か特別な恨みでもあんのか?)
個人対個人の怨恨には止まらないような、深くて強い負の感情が漂ってくる。
しかし、頭をひねってみても、所属組織が天兵たちに恨みを買った原因など、推測すらできなかった。どうも気になるが、面と向かって尋ねてみたところで、相手を激昂させるだけだろう。止めておいたほうが無難だ。
天兵の一人が、やおら一歩前に出て問い掛けてきた。
「仲間の女が今どこにいるのか、素直に教える気はあるか?」
「教えようが教えまいが、おまえら、どうせ俺を嬲るつもりだろう?」
ジェシスは、短剣を構えて臨戦体勢をとった。
目の前の相手を、それから他の四人を、順番に睨めつける。
「俺には、甘んじて集団リンチを受ける趣味はねえ!!」
言い放った瞬間、五人の天兵はいっせいに動いた。
ある者はジェシスのように短剣を握り、ある者は打撃武器を装着済みの拳を鳴らす。
またある者は、何やら折れ曲がった棒のようなものを両手に持った。
(ありゃ何ていうんだったか……。『ヌンチャク』……だったっけか?)
北大陸では一般的でない、天華独特のものだ。
天兵たちは、おのおの自分の得意とする武器を手にしているのだろう。
それに対し、ジェシスは自分の最も得意とする武器を現在所持していなかった。
身を守るための道具は、唯一、細身の短剣だけ。
戦闘が生じるとは予期しなかったため、武装らしい武装はしてこなかった。
そもそもジェシスの愛用する武器は、余程の任務でない限り、国内からの持ち出し許可が下りない代物なのだ。
ジェシスにとって、白兵戦の実戦にまともに臨むのは、実に四年ぶりのこと。
絶体絶命の状況――しかし、彼は全く悲観しなかった。
(身体が鈍ってねえってこと、自分で確かめる好機だな……)
「……『国家守護者』を、なめんじゃねえぞ」
低く呟くと、ジェシスは自分を取り囲む天兵の一人に向かって、滑るように疾駆した。
黒龍は苛立っていた――春明が現れないことに。
(本当に遅いな。奴らをおびき出せと命じただけなのに、何を手間取っている?)
ここは、天華島の西の港。
主に北大陸と南大陸からやって来る人々を迎える玄関口だ。
北大陸で最東端に位置する国のひとつ、サーヴェクトとの間を結ぶ定期船も、毎日ここに入港し、ここから出港している。
定期船は、交易商人や観光客にとって、天華を訪れるための重要な足である。しかし、善良な旅行者たちに交じって、たまに忌むべきネズミが紛れ込むことがあった。
そのネズミどもを逃がさぬよう、現在、港には厳重な監視・封鎖態勢を敷いてある。
春明が何か適当な餌で釣って、誘導してきさえすれば、確実に捕えることができる。
なのに、肝心の春明が、いつまで経っても現れないのだ。
「黒龍様! ただいま戻りました」
海の傍にたたずむ黒龍の下に、一人の天兵が駆け寄った。
春明の様子が気になったため、先刻、月亮飯店に向かわせた人員である。
飯店に着いたら春明を呼び出し、『早く行動に移れ』と催促するように命じてあった。
「凛霞はどうしていた?」
黒龍が訊くと、相手はなぜか口ごもった。
「そ、それが……」
「どうした? 何かあったのか?」
「り、凛霞様は、すでに飯店にはおられませんでした」
「何だと!?」
黒龍は思わず大声を出した。相手の天兵が、ビクリと身を震わせる。
「よく探したんだろうな?」
「は、はい! 飯店の主人であられる李老がご不在だったため、従業員に話を通し、畏れながら少々強引に……」
「奴らは? 俺の言ったような男と娘の姿はあったか?」
「いえ、飯店の宿帳を見ますと、それらしい名前は確かに記されていましたが……部屋に入ってみても、もぬけの殻でした。食堂その他の場所にも、姿は見えませんでした。他の宿泊客がいる部屋も、念のためにひとつひとつ確かめましたが、やはりいません!」
「……飯店から港に至るまでの道には?」
「この私が往復する過程では、凛霞様と二人の『国家守護者』のいずれも見当たりませんでした。現在、人員の一部を割いて、複数の経路を確認中です。どうか今しばらくお待ちください」
「わかった。ご苦労だったな。持ち場に戻って、周囲の監視を続けろ」
「はい!」
黒龍が労いの言葉を掛けると、天兵は頷いて駆けていった。
(春明が、飯店にいない? こちらに向かっている最中でもないとしたら……)
いったい、どこに行ったというのか?
予定外の状況が発生しつつある――あるいはとっくに発生している――ということを、黒龍は悟った。
しかし、驚愕して取り乱すような真似はしない。あくまで冷静に、状況の示す可能性について考えを巡らせる。
(春明め……下手なことを口にして、素性を気取られたのではあるまいな?)
港へ連れ出そうとする途中で失言をして、相手の二人の警戒心を煽ってしまったのではないか。それで逃げられてしまい、そんな失態を責められるのが怖くて、自分もどこかへ雲隠れしたのではないだろうか。
――あの春明ならば、あり得る話だ。
幼い時分から、ぐずで泣き虫で要領の悪い娘。李一族の一員として生まれながら、ろくに方術を紡ぐこともできない『出来損ない』。それゆえ、母親には見捨てられるどころか、『産んだのが過ち』として消されそうになったことさえある。
昔は、この自分が支えてやらないと、何一つまともにできなかった。
傍にいて庇ってやらないと、この世に存在し続けることすら危うかった。
年齢的に成長するにつれ、多少はしっかりし、自分の足で立てるようにはなったものの……根本的な部分は、たいして変わっていない。
のろまで、弱虫で、天兵としてもあらゆる能力が最低だ。
二年前、狠毒娘娘と交戦したときも、逃げ遅れて一人だけ捕まった揚げ句、体中に傷をつけられて、おめおめと生きて帰ってきた。
当然ながら、一族からは非難と罵倒が集中した。だがまあ、この件に関しては、自分は褒めてやってもいいと思っている。ある程度の苦痛に耐えて生還しただけで、春明にしてはよくやったほうだ。
それに二年前、一族の非難と罵倒を浴びたのは、何も春明ばかりではない……。
思い出すたびに、怒りと憎しみを新たにする。
(……狠毒娘娘!! どこへ逃げようとも、必ず追い詰めてやる。この島から、生きて出られると思うな……)
春明がおびき出すのに失敗したのだとしても、捕えるのにそれほどの時間は要しないだろう。奴らが潜伏していそうな場所を、しらみ潰しに捜索していけばいい。
この天華は、どの大陸からも離れた、いわば絶海の孤島。
逃げるには、どうしても船を使うしかない。そして、船のある場所は限られている。
そこを全て封鎖してしまえば、どこにも抜け道など――
(……船?)
不意に、ひとつの記憶が脳裏に浮上し、黒龍ははっとした。
(凶虎老は、確か船を持っていたはず……)
あの老人は海釣りが趣味で、その昔、大枚をはたいて小型の船を購入したのだった。
昔と言っても、自分が子供の頃のことだから、十年余り前のことだ。購入した当初は、この街の北の岬の沖辺りに出て、日がな一日釣りをしていた。あの周辺は、特別魚がよく釣れる穴場なのだ。
老人の所有する船は、岬の脇に隠すようにして繋留されていたはずだが――
(今も、そこにあるのか……?)
しかし、岬の脇など、どう考えても長期間船を繋留するには不適切だ。嵐が通って、波が荒れたとき、船体が損傷するのは免れない。
(どこか別の場所に保管されていると考えるのが妥当だな……)
自分も幼い頃は春明と共にこの港街で暮らしていたが、今や生活の拠点を内陸部の都に移して久しい。ここを離れた後も、春明とは仕事の都合でたびたび顔を合わせていたが、あの老人とは、かれこれ十年近く会っていないような気がする。
自分は、あの老人の近況を知らない。まして、釣り船が今どこにあるかなど、知るはずもない。正確には、移動させたのか、させていないのかも断定できない。
だが、売ったり壊したりしていない限り、今も船を持っていることは確かだった。
(気になるな……)
その事実と、現在の状況とを照らし合わせてみると、どうにも引っ掛かる。
さっきの報告のなかに、『飯店の主人であられる李老がご不在』という件があった。
凶虎老、春明、そして二匹のネズミども……この四人が、同じ時間帯に飯店から消えたという状況。それは、自分の単純な想像を超えた事態が現実に生じたことを、暗に示しているのではないか……?
(まさか奴ら……春明を利用して、凶虎老を動かしているのでは……!?)
春明のせいにしろ何にしろ、ネズミどもがこちらの行動に気づいてしまったと仮定しての話だ。自分たちが捕縛されようとしていることを察知したのなら、奴らはどうにかして逃れようとあがくだろう。
窮鼠猫を噛む――追い詰められたネズミは、何をしでかすかわからない。
島から脱出するためなら、手段を選ばないはずだ。
もとより、あの狠毒娘娘なら――
(春明を逆に捕えて、脱出用の船を用意するよう要求するということもあり得る)
凶虎老は、孫娘の春明を可愛がっている。あの老人……本来なら、何者に脅迫されようとも動じるとは思えないが、春明が人質に取られたとしたら見捨てはしないだろう。
いや、しかし……孫娘の命よりも、やはり李一族としての責務のほうを優先させ、要求を断る可能性もないわけではない。
もしも……万が一、この仮定が真実だったとしたら……!
(春明の身が危ない)
そう考えた途端、黒龍は理性では制御できない衝動に駆られた。
突然、無言のまま足早に歩き始めた黒龍を見て、近くにいた天兵の一人が尋ねる。
「黒龍様、どちらへ?」
「……俺はしばらく港を離れる」
立ち止まりもせずに答える黒龍に、慌てて天兵が追い縋る。
「な、なにゆえですか?」
「『国家守護者』どもが、思わぬ抜け穴から逃げ出す状況を想定した。これから、その穴を塞ぎにいく」
「黒龍様自らですか!?」
「ああ……」
「それならば、どうかお供させてください。他にも何名か人員を召集しましょう」
「いや、俺一人で構わない。おまえたちは、引き続き港の封鎖にあたれ。一応、飯店周辺での凛霞及び『国家守護者』どもの捜索も続けろ。俺は多少遠くまで出向く。ここに戻るのが遅くなっても、妙な懸念はするな」
「了解しました! し、しかし、お一人で行かれるというのは、やはり考え直されたほうが……。そのおみ足で長時間歩かれては、身体に障るやもしれませんし、せめて一人でも支えとなる者をお連れください」
ここで、ようやく黒龍は足を止めた。振り返って、天兵に向き直る。
「おまえも、この俺に同情するか? 独りでは思う場所にも行けない弱者と扱うか?」
抑揚のない、落ち着いた声音で問い掛けた。だが、その裏側に潜む激情を感じ取ったのか、黒龍より少し年下に見える天兵は顔色を変えた。
「そ、そんなつもりは……」
怯えの表情を目の当たりにして気を鎮めた黒龍は、心中で自嘲した。
相手が心から自分を気遣ってくれたことは明らかだ。なのに、それを素直に受け止めることができないとは。
こんな惨めな思いをしなければならなくなったのも、二年前からだ。
黒龍は、努めて穏やかな口調で、天兵に向かって言った。
「……すまない。だが、おまえの心配は要らぬ心配だ。俺はもはや、この足で歩くのに慣れている。一人でも全く問題ない。それにこれは、俺個人の憶測に基づく行動だ。おまえたちを付き合わせるに値しない」
「黒龍様……。差し出たことを申しました。失礼をお許しください!」
天兵は、平伏せんばかりの勢いで頭を下げた。
「……後は任せたぞ」
黒龍は天兵に背を向け、再び歩き始める。その手には、一本の長い杖が握られていた。
向かおうとする先は、北の岬。
自分のなかにある確かな記憶は、あの岬だけ。
たとえ空振りに終わるとしても、まずは行ってみるしかないのだ。
そう、行くしかない。居ても立ってもいられないような胸騒ぎがする。
根拠がないにもかかわらず、自分の憶測が的中してしまいそうな予感を覚えていた。
だが、黒龍は、敢えて独りで岬に向かう決断をした。
『……やっぱりあなたも、怖いの?』
春明が口にしたとは信じ難いほど無遠慮な質問が、棘となって心に突き刺さっていた。
(俺は、狠毒娘娘を恐れてなどいない……)
春明の言う通り、今の自分の実力なら独りでも十分だ。組織の力を借りるまでもない。
(二年前の雪辱、己の手で果たしてやる!)
黒龍は、駆け出せないもどかしさを噛み締めながら、次第に歩を速めていった。