7. 改変面貌 美人になった娘の秘密
部屋に入ってみると、ソフィシエは先刻と変わらず、死んだように眠っていた。
呼吸や脈拍は安定しており、苦しげな様子は見られない。むしろ、気持ち良く熟睡している、という表現がしっくりくる寝姿だ。
「薬湯のなかに別の薬が盛られたんじゃねえなら、薬湯そのものに睡眠作用があるってことなのか?」
ジェシスが問うと、隣で少女を見下ろしている春明は、戸惑い気味に答えた。
「確かに、あの薬湯の中には睡眠薬の成分も入っていると思います。調合する前に、祖父が『疲労回復には眠るのが一番』と言っていましたから……眠気を催したとしても不思議ではありません。でも、ここまで強烈な効果はないはずです」
「だが、実際にこいつは起きねえんだぞ? 他に何か原因があるって言うのか?」
焦燥から、ジェシスは詰問口調で春明に迫った。
「か、考えられる原因は……おそらく……」
春明は、うつむき加減になって言い澱んだ。もはや困り果てた様子である。
「おそらく、何だ?」
「薬湯を煎じる際に、何か手違いがあったんだと思います。あの矍鑠たる祖父に限って、まさかそんなことはないと言い切りたいところですが、高齢なのは事実です。もしかすると、肝心なときに物忘れでもして、調合を誤ったのかもしれません」
あまりに緊張感の欠けた原因に、ジェシスは毒気を抜かれた。思わず額に手を当てる。
「じ、じいさんの仕業なのかよ……」
「私の言うことを、信じてくださるんですか?」
春明は顔を上げて、正面からジェシスと目を合わせた。
「信じるかどうかは、これから決める」
ジェシスがそう言うと、春明は瞼を伏せた。そのまま、ひとつ深呼吸する。
閉じた瞼の向こうから、決然とした眼差しを現すと同時に、彼女は口を開いた。
「はじめまして。私は凛霞。この国に仕える天兵です」
「天兵……。天華に仕える影の兵士、か……」
昨夜この部屋でソフィシエから聞かされた話を、ジェシスは思い出していた。
「あんたは、俺たちを、騙してたんだな?」
ずばりと切り込んでみる。
このような単純な質問は、かえってごまかしや言い逃れがしにくいものだ。
「……こんなことを抗議しても仕方ありませんが、その言い方には語弊があります」
しかし、相手は狼狽える素振りもなく切り返してきた。
「私は確かに、自分の素性の一部を隠して、あなたがたと過ごしてきました。けれども、ひとつも嘘は吐いていません。私の本名は李春明。この飯店の経営者の孫娘であることも本当です。姓名や身分は偽っていない。ただ、本業が何なのかを言わなかっただけ……」
春明は小さく微笑んで、さらに続ける。
「知り合って間もない人、それも宿のお客様である相手に対して、自分の履歴を事細かに語る従業員がいるでしょうか? いるかもしれませんが、あまり多くはないでしょうね」
ジェシスは、返す言葉にぐっと詰まった。
この娘……今朝、あのソフィシエを陥落させたことといい、今の切り返しといい、存外に口達者だ。相手の弱みを突き、自らの理論武装を固める話術に長けている。
会話による駆け引き――直接情報戦。
影の戦場において、直接情報戦能力は、戦闘能力よりも優先して要求されるほどの重要なスキルである。
だが、どちらかというと口下手なジェシスは、この能力があまり高くない。厳密に言うと、防御力は高いが、攻撃力は低い。すなわち、口は堅いが、話術は苦手だ。
(凛霞ってのは、コードネームか? 春明……あんた、一端の影の兵士なんだな)
迂闊に喋っていると、呑まれてしまう恐れすらある。
ジェシスは、いつになく慎重に言葉を選んで、引き続き質問を重ねた。
「騙してねえのは、わかった。問い方を変える。あんたは最初から、俺たちの素性を知りながら近づき、何も気づかないふりをして傍にいたってわけか?」
「はい、そうです。もちろん、ソフィシエさんとぶつかったのは偶然ですが……」
春明は、今度は抵抗なく認めた。
「本当に、俺たちが何者か、知ってるんだな?」
ジェシスは念のために訊いた。自分から自分たちの正確な素性を漏らすという愚だけは犯してはならない。
「はい……サーヴェクトの『国家守護者』さん。その節は、大変お世話になりました」
「……!?」
ジェシスは胸の奥がヒヤリとするのを感じた。
『お世話になりました』――影の戦場においては、皮肉めいた婉曲表現として多用される台詞だ。要するに、『貴様らとは因縁がある』と言いたいわけだ。
「春明、あんた……俺たちと以前、関わったことがあるのか!? それで、顔を見ただけで素性が……」
しかし、以前に顔を合わせたのなら、互いに面識ができるはず。こちらに春明の見覚えがないというのは解せなかった。
少なくとも、ジェシスの頭のなかには、彼女に通じる過去の情報など存在していない。記憶の底に埋もれさせて、忘れ去ってしまったのだろうか?
(……いや、違う。やっぱ俺は、昨日まで春明に会ったことなんてねえぞ。ソフィシエが言うには、天兵は二年前を最後にサーヴェクトへの干渉を休止してるって話だし……)
特殊な立場上、あまり国外に出ることのない自分は、ただでさえ他国のエージェントと接触する機会が少ないのだ。過去に春明と出会った可能性は限りなく低い。
だいたい、『お世話になりました』などと言うくらいだ。春明とこちらとの接触が、簡単に忘れてしまうような浅いものだったとは考えにくい。
(と、なると……ソフィシエのほうか!?)
ジェシスがその考えに行き着いたとき、春明が囁くように言った。
「かつて私とあなたがたの運命が、いつどこでどう交わったのか……お悩みですか?」
それから、寝台に横たわる少女に視線を向ける。
「私がお世話になったのは、彼女です」
そう告げられた途端、ジェシスの脳裏に、昨晩ソフィシエと春明の身体が衝突したときの場景が甦った。
そう、あのとき春明は、料理の紅い汁を滴らせたソフィシエを介抱しようとして――
(何か恐ろしいもんでも見たような顔してたな……)
「……お世話になった証拠を、今からお見せしましょう」
そう言うやいなや、春明は着ている服に手を掛けた。彼女は飯店に戻った後、すぐに着替えていて、今はドレス姿ではない。簡素な上衣と下衣を、一枚ずつ脱いでいく。
「なななっ、何であんたも脱ぐんだよ、春明!!」
「も……?」
反射的に口走ったジェシスに、春明は手を止めて首を傾げる。
「な、何でもねえ! 気にしないでくれ……」
「……?」
きょとんとした顔をしながらも、春明は身体から服を剥ぐ作業を再開した。素肌を直接
覆っている薄い下着まで、躊躇いもなく取り去ろうとする。
ジェシスは思わず一歩後退って、あられもない姿の娘から視線を外そうとした。
すると。
「あなたにとって警戒すべき敵から、よくも目が逸らせますね?」
ナイフのごとく鋭い響きの言葉が飛んできた。ギクリとして視線を戻す。
見ると、どこから取り出したのか、下着姿の春明は本物の短刀を握って立っていた。
「……!?」
「そんなことでは、隙を突いてグサリとやられてしまいますよ?」
春明はどこか挑発的に笑むと、揶揄の感情も露に言った。身構えるジェシスの足元に、鞘に収まったままの短刀を投げてよこす。
相手の言葉に痛いところを突かれ、ジェシスは呻いた。まるで、投げられたナイフが胸に刺さったかのような心境だ。
「服の下に、隠してたんだな? 昼間ドレスでいたときも?」
「はい。ですが、これは護身用として、常日頃から持ち歩いているもの。今日に限って、あなたがたをどうこうする意図で忍ばせていたわけではありません」
春明のその言い分を、しらじらしいと切り捨てるのは難しい。影の兵士なら、時と場所を問わず、最低限この程度の武器を所持していて当然だ。実際、ジェシスとソフィシエも組織支給の短剣を密かに身に着けている。
(うう……それにしても、俺はこんなだからソフィシエやピアスに馬鹿にされんだよな)
『あんたさ、そんなだと、いつか女に殺られちまうよ?』
全身に暗器を仕込んで戦うピアスは、女のしどけない姿を直視できない相棒に対して、かつて忠告したのだった。意地悪く、ニヤリと笑いながら。
「お願いですから、嫌がらないで見てください……」
さっきまでとは打って変わって、請うような春明の声に、ジェシスは黙って頷いた。
もう、目は逸らさない。
春明は、下着の上下を脱ぎ捨てた。全身余すところなく、素肌がさらされる。
「なっ……!?」
ジェシスは息を呑んで絶句した。春明の肌の有様の凄絶さに驚いただけではない。その有様の物語る事実に、何より衝撃を受けた。
若い娘の、滑らかな曲線と起伏によって構成された裸身。そこには、生まれつきのものではあり得ない、複雑な模様が刻まれていた。
模様と言っても、刺青の類ではない。それは、傷痕だ。
四肢を除いた胴の部分に――腹や胸や肩、おそらくは背中にも――線状の赤黒い傷痕が走っている。縦横無尽に、網目のように。
「それは……ソフィシエの……!」
何によってつけられた傷なのかは、一目瞭然だった。春明の持つ傷痕は、程度こそ違えど、自分の左脚に残るものと酷似していた。
ソフィシエの愛用する武器、縷鋼線による裂傷――
「……そうです。これは二年前、私が彼女に尋問された際に、受けた傷です」
「二年前……?」
それを聞いて、ジェシスはピンときた。
「春明。ソフィシエは二年前、国に潜入していた複数の天兵と交戦して、たった一人だけ捕縛に成功したと話してた。それが、あんただったってわけか」
「その通りです。二年前の私は、とろくて無能で、ひたすら弱くて、間抜けにも一人だけ捕まってしまって……。せめて守秘義務だけは貫こうと、意固地になって口を閉ざしましたが、結局は苦痛に耐え切れずに、屈しました」
春明は、恥じ入るように目線を床に落とした。
「今思えば、馬鹿でした。天華の存亡に関わるような重大な機密を明け渡せと要求されたわけでもなかったのに、最低限言うべきことを言わなかったせいで、こんな傷を負うことになったんです。その揚げ句……!」
続きを言いかけて、なぜか春明は、急に首を左右に振った。
「……あまりに情けないので、この先のことは伏せます。とにかく、私とソフィシエさんは、このときに運命を交わらせました。そして昨日、再び……」
「そうだったのか。なら、どうしてソフィシエはあんたに気づかねえんだ? たかが二年前の出来事なら、顔を覚えててもよさそうなもんだが……」
「たかが二年、されど二年です、ジェシスさん。あのときの潜入任務では、髪とか瞳とか多少の変装をしてましたから、そのせいもあるでしょうが……何より私は、この二年間、どうにかして自分を変えようと、自分なりにあがいてきましたから」
「なるほど。そんな酷い傷を負わせた憎い敵に、いつか報復してやろうと思って、自分を磨いたってわけか。その気持ちは……理解できる」
こうも身体をズタズタにされたのでは、『お世話になりました』と言いたくなるのも無理はない。春明がソフィシエに味わわされた恐怖と苦痛の大きさは、容易に想像がつく。
「だがな、だからって、俺はソフィシエに対するいかなる報復も正当だと認めるつもりはねえぞ!」
なぜなら、ソフィシエは春明を無意味に傷つけたわけではない。直接情報戦において、口での攻勢が通用しなかった相手に対し、やむを得ず行った処置なのだ。
「違います!!」
いきなり春明が、絶叫に近い大声を上げた。
「私は、彼女を恨んで強くなろうとしたんじゃありません。彼女に憧れたから強くなろうとしたんです!」
「何だと……?」
不可解な反論だった。ジェシスは怪訝に感じて、春明を睨みつける。
しかし、彼女は怯える様子も見せずに言を継いだ。
「私がさっき言った言葉……ジェシスさんは誤解してますね。必ず誤解されるとわかってました。だけど、そう言うしかなかった! お世話になったのは事実なんですから」
ジェシスが口を挟む間もない早口で、春明は捲し立てる。
「いいですか、よく聞いてください。私がソフィシエさんのことを、全く恨んでいないと言ったら嘘になるかもしれません。でも私は、二年前以来、恨む気持ちの何倍もの強さで彼女に感謝しながら生きてきました。私が『お世話になりました』と言ったのは、本来の意味で、です。純粋な、お礼の言葉です」
「か、感謝? お礼……?」
極めて真面目な顔で突拍子もないことを言われ、ジェシスは混乱した。
「二年前ソフィシエさんと接したとき、私は自分を良い方向に変えていくためのきっかけを与えられました。彼女は厳しかったけど、優しかった……。私は彼女のように強くなりたいと願い、変わろうと思ったんです。もう悠長に話をしている時間はないので、詳しい経緯は説明しませんが、これだけは断言します……。私にとって、彼女は恩人です!」
「ソフィシエが、恩人……?」
「そうです。昨晩あなたがたと出会った当初は、何を目的に天華にやって来たのか不安に思いました。それで目的を探ろうと考えて、お部屋を提供したんです。でも、ソフィシエさんはどう見ても本当に体調が悪そうでしたし、大掛かりな工作をしに来たわけではないと感じました。その後、庭であなたから彼女に関する話をお聞きして、おおよその事情を悟りました。だから、私はこの機会に、二年前の恩に、少しでも報いようと……」
長く喋り続けたために、春明は息を切らしかけていた。けれども、恐ろしいほど真剣な形相は小揺るぎもしない。
かつてソフィシエとどんな交流があったのか、詳細は不明だが、話の内容に筋は通っている。完全な偽りを述べているとは思えなかった――思いたくなかった。
「じゃあ、あの男の言ってた、『びくびくしながら仲良こよし』とかいうのは……」
「黒龍の言葉を聞いたんですね。そちらのほうが、私のでっち上げた嘘です。彼の追及を逃れるための……」
「あの男は何者なんだ?」
ジェシスが問うと、春明の表情が翳りを帯びた。
「彼は……黒龍は、私の同僚です。二年前、サーヴェクトに潜入した天兵のうちの一人。ソフィシエさんと交戦して重傷を負い、その怪我がもとで、彼は国に戻ってから憂き目に遭うことになりました。失意の底で、辛酸に満ちた日々を送るうちに、ソフィシエさんに恨みを募らせていって、やがて復讐心を抱くように……」
春明は下唇を噛んで、わずかな時間、押し黙った。思い詰めた面持ちで、何かを激しく悔やんでいるようにも見える。
「……ソフィシエさんに恩返ししようとしたつもりが、とんだ仇になってしまいました。二年前に彼女と対面した天兵は、この私を除いて、現在この街近辺にはいません。いないはずでした。それで、一日くらい街を歩き回っても問題は生じないだろうと……楽観的に考えていました。でも、その結果、こんなことになるなんて……!」
悲痛な感情を伴う叫びが、部屋の空気を震わせた。
「早急に天華から去ろうとしていたあなたがたを、引き止めるべきじゃなかった。今日の船で帰ろうとしたソフィシエさんを、黙って見送るべきでした。それこそが、真の恩返しだったのに……私のおせっかいが、彼女の窮地を招いた……」
「窮地、か……」
紛れもない現実であるらしいその単語に触発され、ジェシスは相手に噛み付いた。
「おい、春明!! 具体的には、俺たちは今、どういう状況に置かれてんだ!? あの男は、包囲網がどうとか言ってたようだが……」
荒々しく詰め寄っても、娘は取り乱しはしなかった。むしろ逆に、すっと顔つきを引き締め、冷静な態度で応じる。
「包囲網がすでに張られているというのも重大な事態ではありますが、最も恐れるべきはやはり黒龍の存在。彼は昔から優秀な方術士でしたが、二年前以来、復讐心を糧に修練を積んで、飛躍的に腕を上げました。包囲網のあるなしにかかわらず、本気の彼とまともに向き合う状況に陥ったら、無事に切り抜けるのは極めて困難と言わざるを得ません」
ジェシスは、もはや春明の話の真偽を疑う余裕もなく、愕然とした。
「方術士って……確か魔術士のことだよな? 何て奴に恨み買ってんだ、こいつは!!」
寝台でぐっすりと眠っている少女に、ちらりと目を向ける。
「くっそ……! こういうときに限って、妙に安らかに眠りやがって! こんな状態で、その黒龍とやらに見つかっちまったら、二度とは起きられねえ可能性もあるってのに!」
「いえ、それはあり得ないと思います」
嘆きの代わりに口から出た毒づきの内容を、意外にも春明は否定した。
「あり得ない……? 黒龍ってのは、そんなに甘い奴なのか?」
「その反対です。彼がソフィシエさんを捕えたとしたら……ただでは殺さないでしょう。少なくとも、意識のないまま息の根を止めて満足することはあり得ません。あなたがたが天兵によって拘束されたら、天華二千年の歴史が生んだ闇を、その身を以って知ることになると覚悟してください」
「……マジかよ」
「はい。あなたがた『国家守護者』は、直接情報戦能力が高いことで有名ですが……この場合は、あまり関係ないです。相手を痛めつけることだけを目的とし、最終的に命を奪うつもりで加えられる拷問は、耐えれば耐えるだけ損ですから」
今やジェシスは、彼女自身天兵の一人でもある春明と、むしろ淡々と向き合っていた。
彼女が告げた状況は、自分とソフィシエにとって、限りなく過酷。だが、その切迫した状況こそが、平常心を保つことを強く求めていた。
「春明……。どうでもいいことを指摘するようだが、尋問抜きの暴力は、拷問じゃねえ。そういうのは、単なる嬲り殺しってんだ」
「……そうですね。私は、あなたがたに、そんな目に遭って欲しくありません! だから精一杯手を尽くして、お二人の島からの脱出を助ける心構えをしています。ですが、そうするには、まず私のことを信じていただかないと……」
春明は、媚びるでもなく縋るでもなく、凛とした瞳でジェシスを見据えた。
「私に話せることは全てお話しました。この上で、あなたの信用を得るためなら、どんなことでもします。とりあえず、気の済むまで身体検査なさってください」
言いながら、春明は頭に手を遣って、おだんごに結っていた髪を解いた。
長く豊かな黒髪が、肩に胸に、はらりと垂れかかる。髪を下ろしただけで、娘の印象は艶めいて大人びた。
それから手のひらをこちらに向け、両腕を広げると、くるりと身体を一回転させた。
「私がわざわざ服を全部脱いだのは、抵抗する意思がない……あなたに対する害意がないということを示したかったからでもあります。だけど、それだけでは不十分でしょう?」
「……わかった。そっちの壁に手を突いて、両脚を肩幅に開け」
相手が影の戦場の流儀で接してくるからには、こちらも応じないわけにはいかない。
指示通りの体勢をとった春明に歩み寄り、入念かつ迅速に身体検査を行う。
これは、いったんできてしまったわだかまりを捨て去るためには不可欠な儀式だ。その気なら、肌に張り付けておいた針一本でも人を殺せることを、ジェシスは知っていた。
「そのまま、動くなよ……」
身体のほうを調べ終えると、ジェシスは床にかがみ込んで、娘が着ていた服を手に取った。身体に不審な点がなくても、着衣に疑いを残していては身体検査した意味がない。
すると、上から春明の声が降ってきた。
「私から注意を逸らすのに、縛らないで平気ですか?」
「いくら何でも、素手の女にどうこうされるほど柔じゃねえつもりだ。縛る時間も惜しいしな」
布地のなかに硬質な感触が隠されていないか調べつつ、ジェシスは答えた。
「これでも私、黒龍と同じ……この国において数少ない方術士の一人なんですが」
春明の呟きに、ジェシスはギョッとして顔を上げた。だが、すぐに思い直し、長い吐息と共に身体の緊張を解く。
まだ調べかけの衣服の数々を抱えて立ち上がると、相手に差し出した。
「もういい、服を着てくれ」
「え……?」
春明は目を丸くしながらも、それを受け取って裸の胸に抱き締めた。
「あんたを信じるよ、春明」
ジェシスは、心の底から宣言した。
「本当、ですか……!?」
娘の顔が、みるみるうちに明るさに満ちて輝いた。
「あんたって奴は、自分に有利な伏せ札を自分から次々と表にしちまうんだからな。本来もっと利口なくせに、馬鹿正直な言動をする相手のことを、信じないわけにはいかねえ」
「ジェシスさん……ありがとうございます」
深々と頭を下げる春明を見て、ジェシスは複雑な思いに捕われた。
「礼を言うようなことでもねえだろ。俺だって、あんたを信じたいって気持ちは最初から心のどっかにあった。あんたは本当に俺たちに親切にしてくれたからな。害意があったのに失敗を恐れて手を下さなかったなんて話は、よくよく考えると、かえって無理がある」
春明がこちらを殺そうと思っていたなら、昨日からその機会は山ほどあった。
無防備な入浴中や睡眠中を襲う。薬湯や朝食に毒を盛る。昨夜、庭で会ったときなど、こちらは物思いに耽っていて隙だらけだった。背後からの一突きで事足りたはずだ。
こちらが何者か知りながら、そうした行為に及ばなかった理由は、春明自身の言い分でしか説明できそうにない。
それに――
「何よりも、あんたを信じることが、ソフィシエの望みのような気がすんだよ。こいつは職務に忠実な影の兵士で、滅多なことで情に流されたりはしねえ。だが、もし今こいつが目覚めてたとしたら、たぶん……あんたを信じたがると思う」
「ソフィシエ……」
春明は、泣き出しそうな笑顔で、傍らに横たわる少女を見つめた。だが、すぐさま真顔に戻り、手早く服を身に着ける。
「では、信じていただけたところで、さっそく行動に移りましょう。ぐずぐずしている暇はありません。私の考え得る最善の脱出策をご説明します。それに従ってください」
ジェシスは頷いた。
短時間で説明を終えると、春明はソフィシエの身体の上に右手をかざした。天華語で、何ごとか短く呟く。
と、ソフィシエの姿が、寝台の上から忽然と消えた。
「……!?」
ジェシスは驚きのあまり、声もなく仰け反る。
「心配しないでください。目に見えなくなっただけ。ソフィシエさんは、ここにいます」
恐る恐る寝台に手を伸ばすと、そこには確かに、柔らかい身体の感触があった。
「これで、意識のないソフィシエさんを運ぶときに、少しは危険を減らせるでしょう。ただし、こうすると見えなくなった本人も外の視界を失ってしまいます。従って、自分で移動するジェシスさんには、この術は掛けられません。また、効き目が切れるまでには十分な時間がありますが、永続するわけではないので注意してください」
「危険が減るのはありがたいが……俺の目にも見えねえってのは、ちょっと困るな」
「ご安心を。ちゃんと対応する術がありますから。目を閉じてください」
ジェシスは一瞬、躊躇したが、何も言わずに従った。
耳に天華語の呟きが忍び込む。再び目を開けたときには、ソフィシエの姿が見えるようになっていた。
「さあ、じゃあ行きましょうか、ジェシスさん」
「ああ……」
扉の前に立った春明に同意し、ジェシスはソフィシエを抱き上げた。
「春明……。ここを出る前に、どうしてもひとつだけ確認しておきたいことがある」
自分が今更こんなことを訊くのは、無意味で、卑怯で、嫌味ですらあると思う。
それでも……それでも、これだけは訊かないわけにはいかない。
「過去にソフィシエにどんな恩を受けたかは知らねえが……今夜俺たちを助けようとしてくれてることには、心から感謝する。だが、あんたの立場からしてみれば、これは裏切り行為だ。それはわかってるな?」
「……はい」
「仲間に裏切りが知れて処罰されるリスクを背負ってでも、俺たちを助けたいのか?」
「はい」
春明は、いっそ朗らかな口調で言った。
「とっくの昔に覚悟はできています」
彼女の態度に、ジェシスは痛みを感じずにはいられなかった。そんな胸中が顔に表れてしまっていたのか、春明はこちらを見て、こんなことを囁いた。
「……あなたが気になさる必要は微塵もありませんよ。あなたは、本当に善い人ですね。ソフィシエさんの言っていた通りです」
「え……」
思い掛けない賛辞に、ジェシスは面食らって視線をさ迷わせる。
「彼女は、あなたのことを『物事の本質を見抜く力を持っている』とも言いました。それも当たっていると思います。あなたは直感に優れているからこそ、私の素性に疑いを抱かず、警戒しなかったのかもしれない。なぜなら私は今日一日、心からあなたがたと楽しむうちに、心からあなたがたを好きになっていたんですから」
「春明……」
「好きになった人たちのことを、守りたいのは当然でしょう? だから、私のことは気にしないでください」
春明は、曇りのない極上の微笑みを浮かべた。
この飯店の給仕係で、方術士で、天兵でもある娘――李春明。
改めて、強い人間だと思い知る。その覚悟に敬服すると共に、いとおしさを覚えた。
この娘は、ジェシスとソフィシエを救えるなら、自分はどうなってもいいと……本気でそう考えているに違いない。言葉が、表情が、行動が、それを物語っている。
先刻、こちらの信用を得たい一心で身体検査を要求したときも、その裏でどんな思いをしていたのだろう。いくら影の兵士とはいえ、彼女はソフィシエのように妖魔の血を引くわけではなく、ピアスのような戦闘娼婦にも見えない。
男の指に素肌をまさぐられるというのには、激しい嫌悪感や抵抗感があったはずだ。
いったい、どれほどの勇気が要ったことか。いや、それ以前に、あそこまで傷だらけの身体を他人の目にさらすこと自体、女にとって辛いことではないのか。
『醜いでしょ? わたしの身体……』
自嘲的なソフィシエの言葉が、甦って脳裏に響いた。
「春明。あんたの身体は、綺麗だよな……傷だらけでも。こいつと同じで」
「……えっ?」
唐突な呟きを耳にした娘の顔が、さあっと紅潮する。それを見て見ぬふりをしながら、ジェシスは言った。
「さて、行くか。港の男が、意中の女に待ち惚けを食わされた事実に気づく前にな」