6. 魔爪迫近 絶望の先の決意
部屋で椅子に座っていたソフィシエが、突然、ビクリと肩を震わせた。
それを目にした春明は、ふと気になって声を掛ける。
「ソフィシエ……寒いの? 上に着る服を貸しましょうか?」
「いいえ、大丈夫。一瞬、寒気がしただけだから……」
「寒気? ひょっとして……私があちこち連れ回しすぎたせいで、風邪でも引いたんじゃ……?」
無理をさせてしまったのではと、春明は不安になった。
しかし、少なくとも、昨日の今頃出会ったときに比べると、ずっと顔色はいい。
「……風邪は引いてねえだろ。これだけ食欲があったんだからな。昨日とえらい違いだ」
ジェシスが、食膳の上の空になった皿の数々を眺めながら言った。
春明は飯店に帰ってきてすぐ、夕食の支度をし、ソフィシエたちの部屋に運んだ。その料理を、ソフィシエはほとんど残さず平らげてくれたのだった。
「そうよ、熱なんかあったら、こんなに食が進むわけないでしょ? 体調はいいのよ」
ソフィシエ本人も、春明の心配を否定する。
「でも、ちょっとだけ、疲れたかも……」
「じゃあ今夜は、これを飲んでから早めに寝て、ゆっくり身体を休めてください」
「ええ、ありがとう」
春明が差し出した椀を、ソフィシエは素直に受け取った。
椀の中には、昨日と同じく、祖父に頼んで煎じてもらった薬湯が入っている。死ぬほど不味いのは知っているが、それは我慢してもらうしかない。
「やれやれ……今日は俺もどっと疲れた。あの頑固オヤジのおかげで、三時間以上茶館に閉じ込められちまったしな。どんなゲームでも、弱い奴ほど自分の負けを認めたがらねえんだから、困ったもんだ」
ジェシスのぼやきに、春明は思わず笑い声を上げてしまった。
茶館に『監禁』された彼を『救出』するのは一苦労だった。象棋でジェシスと対戦していた中年男性は、最終的に春明の説得に応じるまでずっと、『わしが勝てるまでは帰さん』と言い張っていたのだ。
要するに、三時間に及ぶ対局は、ジェシスの全勝で幕を閉じたということになる。
「ジェシスさんもお疲れなら、もう一杯薬湯を持ってきましょうか? 肉体疲労にも精神疲労にも、きっと効きますよ」
「ええ、それがいいわ。お願い、春明」
春明の提案に対し、ジェシスが何か言う前に、ソフィシエが返事をした。
「お、おいこら、勝手に頼むな!」
ジェシスは焦ったような顔で怒鳴る。
「……気遣いはありがたいんだが、俺はそこまで疲れてねえから、薬湯は遠慮しとく」
そう言ってから、彼はちらりとソフィシエの手元に目を向けた。警戒心というよりは、怯えを含んだような視線だった。
「な、なあ、春明。体にいいのはわかるが、その薬湯には何が入ってんだ?」
尋ねられて、春明は首を傾げる。
「ええと、基本的には野菜とか薬草とかの植物だと思います。でも、私も実は詳しいことは知らなくて……。祖父の秘伝なので、訊いても簡単には教えてもらえないんですよ」
「……天華二千年の神秘ってやつか」
「けれど、祖父は若い頃、医者をしていたこともあるそうですし、信用のおける人柄ですから、安心してください。効き目は確かです。味と臭いが強烈なのが玉に瑕ですけど」
「そ、そうみたいだな」
ジェシスはこくこくと頷いた。その横でソフィシエが口を開く。
「ジェシス……あなた、ものすごく失礼よ。春明が親切に申し出てくれたことに対して」
底冷えのする声と冷ややかな眼差しを浴びた少年は、表情を凍りつかせた。
「あ、いや、その……悪かった。許してくれ、春明」
ジェシスは真剣に謝ったが、その謝罪はどちらかというとソフィシエに向けられたもののようだった。
なぜなら、春明自身は、ジェシスの態度に気分を害してはいなかったからだ。
「謝ることはありませんよ、ジェシスさん。当然の疑問です。ソフィシエも、些細なことで、そんな怖い顔しないで……」
苦笑いしつつ、春明は少女をなだめる。
「ジェシスさんには、薬湯の代わりに食後のお茶を差し上げますね。ソフィシエも、ずいぶん花茶を気に入ってたみたいだから、淹れてくるわ。一緒に飲みましょう」
そう言うと、少女の双眸が、ぱっと明るくなった。
「え、ほんと!? あのお茶ここにもあるの? わたしの生まれ故郷みたいな匂いのする、あの綺麗な飲み物……」
「生まれ故郷の匂い……? そうだったの? それなら花茶はあなたにとって、初めての味なのに、懐かしい味っていうことになるのね。下で淹れてくるから、ここで待ってて」
部屋を出て扉を閉めると、春明は三階から階段を下りていった。
(花茶みたいに、うっとりするような香りのする故郷って、どこにあるのかしら?)
それはもしかすると、人間の住まう国ではないのかもしれない。
明かされることのない謎を、とりとめもなく考えているうちに、足は一階の床を踏んでいた。
通りに面した食堂は、今日も繁盛しているようだ。かすかなざわめきを耳にしながら、そっと庭に降りる。
調理を担当する広い厨房の奥には、春明専用の小さな台所があるのだ。経営者の孫娘としての、ささやかな特権と言うべきか。
その台所へは、わざわざ外に出なくても行けることは行ける。だが、食堂が混み合い、厨房もフル回転する時間帯に、お客様や従業員たちの邪魔になってはいけない。
少々遠回りになっても、ここは裏口から入るのが正解だった。
庭を通って飯店の裏手に回り、改めて中に入ろうとした、そのとき――
「……誰かと思えば、他ならぬおまえか。人に頼んで呼びに遣らせる手間が省けたな」
不意に声を掛けられた。その声音には、聞き覚えがあった。
春明はドキリとした。瞬間的に、心が波立つ。
(嘘……!? 彼が、こんなところにいるはずは……)
嫌な予感がした。とてつもなく最凶最悪の現実が、今まさに自分の身に降りかかろうとしている――そんな確信めいた予感が。
「久しいな、春明……いや、凛霞」
「黒龍……!!」
月光も及ばない建物の影、濃い闇の向こうから現れた男の名を、春明は呼んだ。
自分と同じく黒髪黒目の、天華人の青年。
一族の血統を分けた親戚にして、幼馴染みでもある相手。
「どうしてここに? いつ来たの? 本家から何か命令が? それとも、組織の仕事?」
矢継ぎ早に問い掛けると、黒龍はわずかに顔をしかめながらも律儀に返答した。
「来たのは今日。厳密に言えば、さっき夕方に着いたばかりだ。来た理由は、本家の命令でも組織の仕事でもない。ひとつ大きな任務を終えて、珍しくまとまった休暇が得られたんでな。休養がてら、長いこと会っていなかったおまえの顔を見にきた」
「そ、そう……」
思いがけない理由だった。だが、驚くほど意外というわけでもない。
「どうした? さして嬉しくもなさそうだが。この俺の顔など、見たくもなかったか?」
黒龍は唇を歪めて笑み、からかう響きの言葉を投げ掛けてきた。
軽い口調の裏に潜められた毒を感じ取って、春明の『嫌な予感』はさらに高まった。
「そんなことない……。久しぶりに会えて、嬉しいわ。ただ、何の連絡もなしにいきなり来たから、ちょっとびっくりしただけよ」
この言葉は、完全な偽りではない。黒龍がここを訪れたのが、明日の夕方だったなら、言葉通りに再会を喜べただろう。だが、なぜ今日なのか?
(ああ、どうか……! 彼がまだ、ソフィシエたちの存在に気づいていませんように……)
春明は平静を取り繕いながら、心の中で縋るように儚い祈りを捧げた。
「そう、いきなり来たのは、おまえを驚かそうと思ったからだ。だがな、凛霞。驚かせるつもりが、逆におまえに驚かされる結果になった。いろいろとな……」
「い、いろいろと……?」
「ああ。例えば、痩せた小娘でしかなかったおまえが、感嘆を誘うほど美しい女になっていたということ……」
真顔で言いながら、黒龍は春明に歩み寄り、その頬に指を滑らせた。
本来なら赤面してしまうであろう場面だが、春明は頭から血の気が引いていくのを感じていた。たぶん自分は今、冬天の月よりも青白い顔をしている。
「ほ、他にも、何か驚いたことがあるの?」
刑の執行を自ら促す死刑囚のごとく、春明は敢えて致命的な質問をした。
「あるとも。俺は到着してすぐに、この街の月宮廟に向かおうとしていた。無論、女神を呪う俺に祈ることなぞありはしないが、暗くなる前に、どうしても懐かしい景色を拝んでおきたくなってな。そうしたら、その途中で信じ難い光景を目にした。俺としたことが、愕然としてしまった。天地が引っ繰り返ったとしても、あれほどまでは驚くまいよ」
「……!?」
最も恐れていた事態――『嫌な予感』が的中したことを悟り、春明は目を見張った。
黒龍は、そんな彼女の頬に手を添えたまま、ぐっと顔を近づける。
「そう……俺が目にしたのは、おまえと、あの狠毒娘娘が、仲良く肩を並べて歩いている光景だ!! さあ、どういうことなのか、説明してもらおうか……!」
刹那、春明は絶望に囚われ、夜の闇に侵蝕されたかのように意識が昏くなった。
「……ソフィシエ、今日は楽しかったよな?」
質問ではなく確認のつもりで、ジェシスは少女に話し掛けた。
「ええ。昨日はあなたと何だかんだ揉めちゃったけど、今は来て良かったって……すぐに帰らなくて良かったって思ってるわ。だって、春明と友達になれたもの」
その返事に、ジェシスは微苦笑した。
「おまえも現金な奴だな、まったく。昨晩、俺がどんな気持ちで……いや、まあいいか」
口にしかけた文句を、喉の奥で飲み込む。
今日一日で、ソフィシエは見違えるほど回復したのだ。昨日までの衰弱ぶりが、何かの冗談だったと思えるくらいに。
余計な愚痴を零すよりも、任務の大成功を喜んでいればいい。
「だが、せっかく貴重な友達ができたってのに、明日の定期船で帰っていいのか?」
ジェシスは念を押すように訊いた。
「いいのよ。わたしが一刻も早くこの島を離れるべきだという事実に変わりはないから。明日帰るのが、わたしのためであり、春明のためでもあるって……本当は誰よりあなたがわかってるでしょ?」
ソフィシエは淡々と答えたが、その翡翠の瞳はわずかに揺らいでいた。
「……悪い。不要なこと言っちまった。辛い決断が正しい決断のことも、あるよな……」
ジェシスは自分の迂闊な発言を呪った。彼女に対しては、してはならない問いだった。いたずらに辛い気持ちを増幅させてしまっただけのことだ。
「別れるのは淋しいわ。でも平気よ。春明は、離れてもずっと友達だって、言ってくれたもの」
ソフィシエは、いつになく明るく言った。
その明るさが、無理の裏返しではないかと疑ってしまうのは、邪推だろうか。
「明日からまた長い船旅なんだから、春明が言ったように、今夜はしっかり休んでおいたほうがいいわ。まずは、これを飲まなきゃ……」
ソフィシエは、春明に手渡された薬湯の椀に口をつけた。そのまま一息に飲み干す。
「おい! そんな一気飲みして大丈夫か? 噴き出すなよ!?」
「ちびちび味わうよりは、こうしたほうがましよ。えぐいのと苦いのが短くて済むから」
「そ、そりゃそうだろうが……」
勇敢な行動に出たソフィシエを、ジェシスは固唾を呑んで見守る。
しかし当の本人は、割とケロリとした顔をしている。昨日一度飲んだので、多少は味に慣れたのかもしれない。
見つめるうちに、少女は大きなあくびをしかけて、口許を押さえた。
「……何だか、眠くなってきたわ。やっぱり、はしゃいだせいで疲れちゃったのね」
ジェシスは脱力した。思わず呆れる。
「苦いもの飲んだ直後に眠くなるとはな。よっぽど疲れてんだろ。って言うか、それ以前に、まだ基礎体力が完全には回復してねえんだよ」
「ん……そうみたい」
いかにも眠たげな、とろんとした声で呟いて、ソフィシエは昨夜から使用している奥の寝台へと向かった。ふらふらした足取りで辿り着くと、どさりと倒れ込む。
「おまえなあ……眠いのはわかるが、せめてそのドレスを着替えてからにしろよ!」
(ん……!?)
反射的に口に出した自分の言葉に、ふと言い知れぬ違和感を覚える。
(ソフィシエが、服も着替えずに寝ようとするだと? ピアスじゃあるまいし……)
ジェシスははっとした。
自分の本来の相棒であるピアスは、日常の生活習慣がだらしないというか――自分も他人のことは言えないが――酒に酔ったときなど、化粧も落とさず寝入ったりする。
対照的に、ソフィシエはその辺りがきっちりしているタイプだ。
任務で山野に潜伏したときなどは何日間入浴しなくても耐える一方で、身じまいできる環境にあるときは、それを怠ったりしない。
それが、自らの美しさを誇りとして生きる妖魔の血族――ソフィシエという少女だ。
そんな彼女が、寝衣に着替えもせず、髪すら解かないで横になるとは……。
ジェシスは、ソフィシエが横たわる寝台に駆け寄った。
「ソフィシエ! おい、ソフィシエ!! いったん起きろ!」
両肩をつかみ、身体を揺さぶる。
するとソフィシエは、ひどく億劫そうながらも薄目を開けた。
「んん……? どうして……?」
反応があったことに、ひとまず安堵した。しかしソフィシエは、すぐにまた瞼を閉じてしまう。
「起きろって言ってんだろうが!」
「お願い……寝かせて……。わたし、ほんとに、すごく疲れてるのよ。身体に、力が……入らない、くらい……」
消え入りそうな声で告げると、ソフィシエはそれきり喋らなくなった。
「おまえ、おかしいぞ! いくら疲れてるからって、こんな……」
どれだけ激しく揺さぶってみても、少女は再び瞼を開けなかった。目覚めない。
(どういうことだ……!?)
明らかに異常だ。そして、この異常の原因と考え得るものは、ただひとつしかない。
――例の薬湯だ。
(昨日は何ともなかったはずだが……いや、まてよ?)
昨夜、ソフィシエが薬湯を全部飲んだのは、自分が部屋を離れていた間のこと。
戻ってきたときには、彼女はすでに熟睡していた。
(もともと睡眠作用のあるもので、これは異常じゃねえのか? それとも……)
とにかく、春明に尋ねてみるしかない。
ジェシスは部屋を飛び出し、急いで一階に下りた。茶を淹れると言っていたからには、厨房かどこかにいるのだろう。
食堂の裏を覗き込み、料理人のひとりに春明の居場所を尋ねる。料理人は厨房の奥の扉を指差して、『あっちに個人用の台所があるから、たぶんそこでしょう』と答えた。
ジェシスは相手に礼を言うと、忙しそうに動き回る料理人たちの間を縫って、奥を目指した。教えられた扉を開けて、なかに入る。
確かにそこは、広い厨房に比べると、ずいぶんこぢんまりして見える台所だった。
「……? いない……?」
暗いなか、目を凝らしてみるが、やはり春明の姿はない。
どこへ行ったのだろう……と思った矢先、窓の外から、人の声がすることに気づいた。
(春明……?)
耳を澄ませると、その声が春明のものであるとわかった。
誰かと会話を交わしているようだ。もう一人、別の人間の声がする。
低い響きの、若い男の声。
急に個人的な来客でもあったのだろうか。取り込み中に邪魔をするのは申し訳ない。
だが、ソフィシエの異変のことも、ある種の緊急事態ではある。
どうしようかと迷いながら、ジェシスはしばし、台所で独り立ち尽くした。
厨房のほうから包丁の音などが聞こえてくる以外、周囲に雑音はない。必然的に、外の会話は聞こうと思わなくても耳に届く。
何とはなしに聞き流しているうち、春明の声が、やけに切迫感を帯びているように感じられてきた。彼女の雰囲気にそぐわない、押し殺した平坦な声音。それでいて、わずかに震えているようでもある。
ジェシスは、本能的に不審感をかき立てられた。意識して自分の気配を殺すと、会話の内容がはっきりと聞き取れるよう、格子窓の脇の壁に背中を張り付けて立つ。
理屈では説明できない、嫌な感じがした。盗み聞きをする罪悪感さえ吹き飛ばす、不吉な予感が……。
「……ほう? では奴らは、いまだにおまえの素性に勘づいていないんだな?」
「ええ……。彼らが知っている私は、この飯店の娘、李春明よ」
二人の遣り取りは、ジェシスにも楽に理解できる北大陸言語で行われていた。春明も男も、母国語と何ら変わらぬ感覚で自在に話すことができるようだ。もっとも、男のほうが天華人なのか外国人なのか、声だけではジェシスには判断できなかった。
「奴らも意外と間抜けなものだ。丸一日以上を共に過ごしながら、おまえの素性に微塵の疑いも抱かなかっただと? どうも『国家守護者』とやらは、戦闘能力は優れていても、肝心の頭の出来がいまひとつらしいな。いい物笑いの種になる」
馬鹿にしたような忍び笑いが、壁越しに伝わってくる。
ジェシスは思わず、両手を握り締めた。爪が手のひらに食い込む。心臓の鼓動が急激に速くなっていく。
この声の主である男は……そして春明は……こちらの素性を知っている?
ならば、ここにいる二人は――!!
くらりと眩暈がし、冷や汗が滲むと同時に、怒りに似た熱い感情が胸を突き抜けた。
半分は自分自身に、もう半分は春明に対する、強い憤りが。
(落ち着け……取り乱すな! こんなときこそ、沈着な行動が要求される……)
ジェシスは必死に自分に言い聞かせる。会話の続きを聞き漏らすまいと、窓に向かって耳をそばだてた。
「しかし凛霞、おまえも救いようのない間抜けだな。奴らに近づいて油断させたのはいいが、いざとなると怖くて手が出せなかったとは……失笑ものだぞ。数知れぬ機会を逸した揚げ句、びくびくしながら仲良しこよしか。滑稽すぎて、いっそ哀れを誘うな」
黒龍に嘲笑混じりの罵倒を浴びせられ、春明はうなだれた。
「臆病で無能で役立たずの、李一族の恥さらし。おまえも相変わらずの女だ。成長したのは、見てくれだけとみえる」
「そうね……私は昔から、役立たずの足手纏いなのよ」
打ちひしがれたように肩を落として、力なく呟く。
「狠毒娘娘の隣で楽しげに笑っているのが他の誰かだったならば、もしや血迷って通じたのではないかとも疑っただろうが……おまえだったからな。最初から妙な疑惑は抱かずに済んだ。おまえに裏切りを働く度胸なぞ、あろうはずもないからな」
「………………………………」
春明は、唇を噛み締めて沈黙を守った。
そういった態度を見て、黒龍はこちらが情けなさのあまり、すっかり恥じ入っていると思ってくれたようだ。
「自分でも情けないと感じるのならば、少しはまともに働いて功績を立ててみろ。おまえに似合いの、簡単な役目を与えてやる。それをこれから果たせ」
「な、何をすればいいの……?」
「簡単だが、重要な役目だ。おまえは親切な宿屋の娘として奴らに信用されているだろうから、その立場を利用しろ。俺がこれから言う場所へ、奴らをおびき出すんだ」
「おびき出す……?」
「そうだ。狠毒娘娘を捕えるための手は、すでに打ってある。この街の支部に所属する者たちに連絡を入れて、この周辺の地域に簡易的な包囲網を形成した。港を始め、船着き場のある水際と、そこへ至る主要な経路は、ほぼ封鎖済みだ。本当は、奴らが呑気にくつろいでいるという部屋に踏み込むのが最も確実だが、ここは無関係の民間人が大勢いる場所だ。物騒な騒ぎを起こして、飯店の評判を下げたくはあるまい?」
「ええ……。そんなことになったら、おじいちゃんも、さすがに怒るかもしれないわ」
脅すでもなく春明がポツリと言うと、黒龍は一瞬、顔面を引きつらせた。
「……何にせよ、凶虎老を無駄に怒らせるのは得策ではない。よって、外におびき出した上で捕縛する作戦をとる。具体的な場所は……そうだな、西の港がいいだろう。港周辺は夜間の人気が少ない。広いが、街中よりも逃げ隠れするには不向きだ。前方は海だから、後方の陸側さえ閉じれば、退路を断って袋のネズミにできる」
「わかったわ……。彼らを港に連れ出せばいいのね」
春明は頷き、役目を引き受ける。
「いいか、凛霞。絶対にしくじるなよ! 適当な理由をつけて、怪しまれないように連れ出せ。俺は港で待っている」
そう言うと、黒龍は春明に背を向けた。
立ち去る彼の背中が、完全に闇に呑まれる寸前、ふと呼び止める。
「……黒龍」
ひとつ年上の青年は、振り返らずに歩を止めた。
「……何だ?」
「術の腕を上げたあなたの噂は、私のところにも届いてるわ。今のあなたなら、独りでもソフィシエを……狠毒娘娘を追い詰めて、捕えることも可能じゃないかしら」
「何が言いたい!?」
相手の鋭い怒声にも怯むことなく、春明は先を続けた。
「それなのに、わざわざ仲間を動員するなんて……やっぱりあなたも、怖いの?」
問い掛けた直後、黒龍が息を詰める気配がした。
こちらが挑発的な大それた質問をしたこと自体に驚いたのか、あるいは……?
「俺はあの女を、万に一つも逃がしたくない。ゆえに、慢心を捨てて厳重な対策を選んだまでだ。この俺をおまえと一緒にするな」
吐き捨てるような調子で答えると、黒龍の姿は夜に紛れて消えた。
青年が去ったことを確認した春明は、深い安堵を込めて溜め息を吐いた。
とりあえず、この場所で黒龍とソフィシエが対面するという、最悪のなかの最悪の事態は避けられたのだ。夕食時の平和な飯店を、修羅場と化さずに済んだ。
もっともらしい偽りの事情を説明し、それを信じさせるための『演技』もどうにか成功させた。黒龍は見事に誤解してくれた。凛霞はソフィシエを恐れすぎて、殺したいのに手を下せなかったのだ、と。
自分に与えられた指示が『おびき出せ』なのは、不幸中の幸いだ。『寝首をかけ』だの、『食事に毒を盛れ』だのと命じられ、その遂行を見張られたりしたら、今以上に困る。
(黒龍……仲間に協力を要請してはいても、捕えるのは自分でやるつもりなのね。どうしても、その手で彼女を殺したいの?)
させない……そんなことは!
春明の心には、もはや絶望はなく、迷いや躊躇いすらもなかった。
代わりにあるのは――前向きな、しかし一方では悲壮な覚悟。
(ソフィシエとジェシスさんを、何が何でも無事に逃がさないと……。逃がしてみせる!)
どんな手段を使っても。自分がどうなっても。
たとえこの身が、破滅するとしても。
(でも、そのためには……)
自分の属する立場を、二人に明かすという手順は避けて通れない。弁明し、現在の状況を伝えて納得してもらわなければ。それは、途方もなく苦痛を伴う過程に思えた。
(だけど、やるしかないわ……!)
悩んでいられる余裕など、一時たりともない。何がともあれ、行動に移るべきだ。
ソフィシエたちの待つ部屋に戻ろうと、春明が一歩足を踏み出した瞬間――
斜め後方から物音がした。ギィ……という、小さく軋むような音だ。
個人用の台所に入るための、裏口の木戸が開閉されるときにたてる音――それと同時に人の気配が出現する。
反射的に振り向くと、そこには確かに人影があった。しかし暗くて、即座に誰かは判別できない。
「ど、どなたですか?」
「俺だ、春明……」
「ジェシスさん……!?」
誰何に対する応答で相手を悟り、春明は驚愕した。
まさか、聞かれてしまったのか? 黒龍との、あの危険な遣り取りを!
「いつからそこに? な、何か御用ですか?」
抑えようもなく声が上擦る。ひとつの急場を切り抜けて、やや弛緩していた全身の筋肉が、再び強張った。
「至急訊いて確認したいことがあって、あんたを探してたんだ。ここの台所にいるだろうと教えられて来たら、取り込み中のようだった。割り込むのも無作法だし、どうすべきか躊躇してたら、自然と声が耳に入った……。そっからは立ち聞きだ。結局のところ無作法で、悪いな」
ジェシスの口調は穏やかだったが、どこか無理に感情を抑圧しているようでもあった。
「じゃあ、全部、聞いて……?」
「……全部じゃねえだろうが、だいたい重要そうなとこはな。天華語と違ったおかげで、ちゃんと理解できたよ」
春明は今更ながら、黒龍との会話で天華語を用いなかったことを後悔した。
彼とは互いに協力、ときには競争し合って語学を研鑽した間柄だ。彼と話すとき、特に仕事絡みの話をするときは、外国語を使うのが習慣のようになっている。
少々危うい会話をしても、母国語よりは機密性が確保できるため、普段はそれで都合がいいのだ。しかし、今度ばかりは……。
(ああ……何てことなの!!)
自分から素性を明かす手間は省けたが、あの遣り取りを聞かれたのなら、言い訳するのは極端に困難だ。黒龍を納得させるため、いかにも真実味のある話をしていたのだから、そのぶん弁解の余地がない。
「もともと訊きたいことの他にも、いろいろ尋ねたいことができちまった。答えてくれるか、春明?」
「はい……」
春明は、神妙に頷くしかなかった。
「あの、でも……最初に、もともとの質問を教えていただけませんか?」
「……わかった。微妙な質問だから、どういう訊き方をすればいいか頭を痛めたが……今となっては、婉曲な表現は無用だな。単刀直入に訊く」
ジェシスの声音は、春明が出会ってから初めて耳にする冷厳さを含んでいた。
「あんた、さっきソフィシエに渡した薬湯に、何か一服盛ったか?」
「え……?」
予想外も予想外な問い掛けに、春明は呆然となる。
そんなことをした覚えはない。
「俺にも同じ薬湯を勧めたが、俺が断ったから、茶に混ぜて飲ませようと思ったのか?」
ジェシスは、語調を強めて詰問(きつもん)してくる。
「どうなんだ、答えろ!?」
「そんなことは、してません。断じて……!」
春明は辛うじて、相手に負けない気迫で言い返した。
「ソフィシエさんに、何かあったんですか!?」
「とぼけるな、と言いたいとこだが、そう決めつけるのも短絡的すぎるな。薬湯を飲んだ途端、異常な早さで眠りに落ちた。揺り起こそうとしても、目を覚まさねえ」
「なっ……!?」
身に覚えのない春明は、本気で驚いた。
「早く部屋に戻りましょう! ソフィシエさんが心配です。彼女の容態を確かめてから、改めて自己紹介させていただきますので、他の質問は、その後にしてください」
「……そうだな。仮に、この飯店に致命的な罠が仕掛けられてるとしても、あいつがいる以上、戻らねえわけにはいかねえ。部屋まで、先導してくれ」
「……はい」
春明は素直に従った。ジェシスの前に立って歩き始める。
信用できない人間に、背後を取らせないようにするのは当然の対処だ。脅迫の言葉こそないものの、妙な真似に出たらただではおかないと、暗に警告している。
(この人もやっぱり、影の兵士なのね……)
素顔の彼は、とても人間味があって、思いやりもある、温かい人柄をした少年なのに。
昨日の晩、自分は普通の町娘として、彼とソフィシエに出会った。
ソフィシエと遭遇したときは、心臓が止まる思いがした。彼女と一緒にいたジェシスに対しても、漠然とした怖さを感じていた。でも、少し勇気を出して近づいて、二人と自然に親しくなって、ソフィシエとは友達になる約束もした。
願わくばそのまま、普通の町娘のままで別れたかった。しかし、運命はそれを許してはくれなかった……。
ソフィシエとの再会と、ジェシスとの邂逅。そして黒龍の来訪。
良くも悪くも、何という偶然の重なりか。
春明は、自分が月亮娘娘に挑まれているような気がした。
――女神の紡いだ運命が、人間に変えられるか? 変えられるものなら変えてみせろ、と。
同時に、ソフィシエに試されているような気もした。
――二年前の言葉にどれだけ応えられたのか、成長ぶりを示せ、と。
『自分の弱さを恥じてる暇があったら、もっと強くなれる方法を考えればいい。例えば、このわたしに勝てるくらい強くなれるように』
(ソフィシエ……私、少しは強くなれたってこと、あなたに証明してみせる)
『役立たずの足手纏い』からの脱却――それが叶うのなら、何を失っても惜しくはない。
決意を新たにして、春明はソフィシエが待つ部屋の扉に手を掛けた。