5. 休息一下 たまには普通の女の子
「もう夕方だなんて、一日が過ぎるのは速いですね……」
青灰色の石畳の道を歩きながら、春明は呟いた。
「そうね。でもわたし、こんなに時間の経つのが速く感じられたのは、初めてかも」
隣を歩く少女の言葉に、春明は思わず口許を綻ばせた。
「心から楽しんでもらえたようですね。良かった……。楽しい時間というのは、飛ぶように速く過ぎ去ってしまうものですから」
「旅行に来た記念に、素敵な思い出ができたわ。ジェシスにとっても、いい休養になったはずよ。あなたのおかげね、春明」
「いえ、そんな……。私も今日一日、あなたたちと一緒にいられて、とても楽しかった。だから、お互い様です。でもソフィシエ……ジェシスさんを置いてきてしまって、本当に良かったんでしょうか」
春明は、ちらりと後ろを振り返って言った。
「彼なら大丈夫よ。ああいうゲームは、得意分野で強いから」
「いえ、あの……強くて勝ってばかりいるから、解放してもらえないんじゃ……?」
現在、ソフィシエと春明の傍にジェシスの姿はない。彼はまだ、先刻まで三人そろって一服していた茶館のなかにいるのだ。
百華市を出た後、春明は休憩を兼ねて、二人を近場の茶館に案内した。いくら元気そうに見えても、昨夜まであれほど憔悴していた少女の疲労が気掛かりだったからだ。
香り高い茶、特に花茶は、白酒と並ぶ天華自慢の名産品。その花茶を三人でゆっくりと味わっているとき、店内では他の客が象棋の勝負を楽しんでいた。その光景に、ジェシスが、ふと興味を示したのだった。
おそらく彼にしてみれば、ほんの軽い興味だったことだろう。象棋のルールを尋ねられたので、春明は簡単に説明した。それから、自分も軽い気持ちで、『よかったら、ちょっとやってみませんか?』などと勧めてしまった。
ところが、それがある意味まずかった。象棋をしていた客の一人――どこか頑固そうな風貌の中年男性――に、ジェシスの相手になってくれるよう頼んだら、快諾してくれたのだが……。
この男性との対局で勝利を収めたのは、何とジェシスのほうだった。
春明は、まさか生まれて初めて象棋をする初心者が勝つとは思っていなかった。それは相手の男性とて同じだっただろう。
あくまで異国の遊びを少し体験してもらうつもりで勧めたのに、それだけでは済まなくなってしまった。収まりがつかないのは――無論、対戦相手の男性だ。
彼はジェシスに再戦を申し込んだのだが、また負けた。その次も負けた。
三度目の対局が終わる頃には、かなり時間を食っていたので、ジェシスは必死に謝って逃げてこようとしていた。しかし結局、放してもらえず、外国人の少年は目を血走らせた天華人男性と向き合い続ける羽目に陥ったのである。
そうこうしているうちに、対局する二人の周囲に見物客が集まるわ、他にも対局希望者が現れるわで、春明にも収拾のつけられない状態になってしまった。
やがて日没が迫ったとき、春明はソフィシエの要望を受け、決断せざるを得なかった。ジェシスを茶館に残したままで、最後の目的地に向かうという決断を。
無論、店を出るときにジェシスには声を掛けた。彼は、春明とソフィシエが二人だけで出歩くことには難色を示した。
だがソフィシエは、そんな彼の様子も意に介さぬ態度で、手を振って茶館を後にした。
そして春明は、彼女に急き立てられるまま、目的地への案内を始めたのだった。
「あんな大変な状況になってしまって……ジェシスさん、やっぱり困ってるはずですよ。彼、天華語はあまり得意じゃないみたいですし、外国で見知らぬ人間に囲まれて、今頃、心細い思いをされているかも……」
春明が不安を口にすると、ソフィシエは笑った。
「そんな心配は無用よ。ジェシスは、ああ見えて知恵も度胸もある人間だもの」
「そう言えば、初めてなのに象棋で勝てるなんて、すごい能力ですよね。あれは、とても奥の深いゲームなのに」
「北大陸にも、盤上で遊ぶ同じようなゲームがあるから、呑み込みが早いのは驚くようなことじゃないわ。けれど、ジェシスが対戦ゲーム全般に強いのは事実よ。北大陸で人気のある『ハイペリオン』っていうカードゲームでも、極めて高い勝率を誇ってるし」
「そうなんですか? 頭の良い方なんですね……」
春明が心の底から感心すると、ソフィシエは、なぜか小さく噴き出した。
「そ、そうね……。良いと言えば良いし、悪いと言えば悪いわ。頭の良さにも、いろいろと種類があるものよ。彼の場合は、記憶力がいいとか、論理的思考力に優れてるとかじゃなくて……何より直感ね」
「直感……?」
「ええ。彼は、何かを暗記したり、複雑な問題を筋道立てて考えたりするのは苦手なの。でもその代わり、ずば抜けた直感的判断力に恵まれてる。つまり、物事を深く考えなくても、自分の思う通りに行動すれば、自然とうまくいくってタイプなのよ」
「ソフィシエ……笑ってるけど、それって稀有な才能だと思いますよ?」
「……確かにね。ジェシスの直感の鋭さには、ときどき驚かされるわ。彼は、物事の本質を見抜く力を持ってる。それは、他人が努力してもなかなか得ることのできない力よ」
ソフィシエは、すっと真顔になって言ったが、すぐにまた表情を緩めた。
「まあ、とにかくジェシスのことは心配いらないから。それより、急いだほうがいいわ。女神の廟まで、あとどのくらい?」
「もうすぐです。目の前に見えている石段を登りきったら、到着ですよ」
春明が観光の締めくくりに選んだのは、『月宮廟』だ。
そこに祀られているのは月亮娘娘、すなわち、運命を司る月の女神。
月の女神は、島の守り神であると同時に、天華国民からは遠い先祖としても崇められている。女神の一族である月守りの民が、遥か昔に月より降った際、この島にも降り立ったと信じられているからだ。
決して広くない天華の国土の中には、女神を祀る月宮廟が数多く点在している。春明とソフィシエが目指しているのは、そのうちのひとつだった。
百段にも及ぶ石段の頂上、小高い丘の上には、小さな建造物がある。
薄い藍色――天華ではこの色を『月白』という――の瓦と、柱に施された銀色の装飾が美しい廟だ。
ここは一般的な観光ルートから外れているためか、今の時刻、周囲に他の人間の姿は見当たらなかった。
廟の前までやって来ると、ソフィシエは春明に尋ねた。
「ここでは、お祈りはどういうふうにすればいいの?」
「お祈り、ですか……。天華には天華の、ある程度決まった形式がありますけど、それに囚われる必要はありません。絶対にこう、というのはないんです。特に外国からいらした方々は、皆それぞれ独自の仕方で祈りを捧げることが多いですね」
「そう……。じゃあ、わたしはわたしのやり方で……」
呟くと、少女は片膝を立てて地面に跪いた。まず胸の前で両手を組み、目を閉じる。
しばらくすると立ち上がって、左手で胸元を押さえ、目を開けて天を仰いだ。
前半は北大陸出身の人々によく見られる形式だったが、後半の仕方は初めて見た。
折しも、廟の向こうには白く丸い月が昇りかけている。まるで、空の月に向かって直接祈りを捧げているようだと、春明は思った。
「あなたは、お祈りしないの?」
祈りを終えたソフィシエに訊かれて、春明は頷いた。
「はい。女神様へのお祈りは、毎日すればいいというものではありませんから。月亮娘娘に祈りを捧げるのは、自分や他人の運命を変えたいと強く願うときだけ。そうした真摯な願いだけを、彼の女神は叶えてくださるといいます」
そう言うと、春明はソフィシエに背を向けて、石段のほうへ歩いていった。一番上から三番目の段にすとんと腰掛けて、振り向く。そして手招きした。
少女は素直にそれに応じて、すぐ隣に座った。
「わ……あ……綺麗ね……!」
眼前に広がる景色に、ソフィシエが感嘆の声を漏らす。
「綺麗でしょう? だからここを最後に訪れようと思ってたんです。この景色をぜひ見てもらいたくて……。ジェシスさんに見せられなかったのは、残念ですけど」
丘の上からは、今日歩き回った天華の街並みが一望できた。その向こうには、定期船の出入りする港が見える。さらにその向こうには、水平線によってのみ隔てられた、茜色の空と海が……。
夕日は、天空と大海とに名残を溶かし、今まさに没そうとしているところだった。
「ソフィシエ……あなたの祈りは、とても真摯なものに見えたわ。いったい、何を祈っていたの?」
前をじっと見つめたまま、春明は問い掛けた。これまでより、微妙にくだけた口調で。
すると、相手も視線を動かさないで、静かに返答した。
「……わたしにとって、失い難い大切な人のこと。限りなく過酷な運命に導かれるその人が、どうか無事に未来へと辿り着けますように、と」
「失い難い、大切な人って……お友達? それとも恋人……? ひょっとして、ジェシスさん?」
この尋ね方が余程意外だったのか、ソフィシエは慌てたように大きく首を振った。
「ち、違うわ! どうしてそう思うの? 私が祈ったのは、別の人のこと!」
「わ、わかったわ。だけど、そんなに一生懸命否定しなくても……」
「……それはそうね。ジェシスはジェシスで、彼なりに過酷な人生を歩んでるんだから、ついでにでも祈ってあげればよかったかも」
冗談めかしているとはいえ、さすがに、この台詞には春明も苦笑するしかなかった。
「ソフィシエ! ついでっていうのは、ちょっとひどすぎるんじゃない?」
「確かに、ひどい言い草よね……」
ソフィシエも苦笑した。
「ジェシスさんは、あなたのことを大切にしてる。大事な『妹』に、いつも気を遣ってるわ。そんな彼をないがしろにしていいの? 自慢の『お兄ちゃん』なんでしょう?」
「ええ……。でも、彼はわたしがわたしだから特別に大切にしてるわけじゃないわ。彼、目つきは悪いけど、わたしと違って性格は良いの。根っからの善人なのよ。だから、実のところ、世のなかの大抵の人間に対して分け隔てなく優しいの」
「そう、なの? 本当にそうかしら……」
春明には、そうは思えなかった。いや、ジェシスが善人で誰にでも優しいというところを否定したいわけではない。信じられないのは、前半部分。
何気ない行動の端々に見える気遣いからしても、ジェシスにとってソフィシエが『特別』な存在であることは明らかだ。
春明は、夜の庭で見かけた、ジェシスの表情を思い出していた。
いったいどんな博愛主義者が、他人のことを我が事のように、あそこまで深刻に悩めるというのか?
(ジェシスさん……何だかお気の毒……)
彼の、ソフィシエを特別大切に思う気持ち――それが恋愛感情に分類されるものなのかどうか、そこまでは春明にはわからない。
だが、友愛にしろ恋愛にしろ、出会って二日目の自分にすら容易に見抜けた感情が、当の相手には伝わっていないとは……!
(ものすごく意外だけど……ソフィシエって、もしかして鈍いのかしら?)
春明が、ふとそんな考えに行き着いたとき、横で彼女が呟いた。
「……とにかくジェシスは優しいの。それは真実。けれど優しいことこそが、彼にとって最大の不幸」
「えっ……?」
「そして、彼の優しさを不幸の種にしてしまったのは、他ならぬわたしなのよ。ついでも何も、わたしにはそもそも彼のことを祈る資格すらない」
ソフィシエの声音は冷静だったが、かすかに自嘲の響きが混じっていた。
言葉の意味が理解できずに、春明は戸惑う。『優しいことが不幸』という表現に、いたく興味を引かれた。
しかし、自分から尋ねて追究しようとは思えなかった。少女の、あくまでも淡々とした呟きの裏には、底知れぬ痛みが潜んでいるような気がして……。
春明は、とりあえず話題を切り替えることにした。さっきから感じていた素朴な疑問をぶつけてみる。
「ねえ、ソフィシエ。今更こんなこと訊くのもおかしいけど、あなたは月の女神の存在を信じてるの? だって、話す言葉からして、あなたやジェシスさんは……」
「『サーヴェクト人なのに』でしょ? 不思議に思うわよね、やっぱり」
春明の指摘を先取りして、ソフィシエが言った。
「ええ……。あなたが当たり前のように祈りを捧げたときは、ちょっと驚いたわ」
この天華には、北大陸からも数多くの観光客がやって来るが、その国籍はさまざまだ。
北大陸でも、月の女神信仰が宗教として主流である。しかし国によって、その信仰形態は微妙に異なっている。
天華と並ぶ歴史を誇る、北大陸の魔法大国ルミナスでは、特に女神信仰が盛んだ。
ルミナスで神殿に祀られている女神と、天華で廟に祀られている女神は、ほとんど同一と言っていい。ルミナス人は天華人に似た考え方によって、月の女神を魔術士の祖として崇めているのだ。
ところが、同じ北大陸の国家でも、ルミナスの隣国サーヴェクトでは――
「サーヴェクトは、月の女神に見放された民たちが寄り集まって建てた国。ゆえにサーヴェクト人は、女神を呪い恨んでいるか、あるいはその存在自体を信じていない……。一般的には、そう思われているはずよね。概ね、それは間違いじゃないのよ」
ソフィシエは、春明の持っていた常識的観念を一応肯定した。
「けれど、サーヴェクト国民全員がそうかというと、そうでもないの。国家は女神信仰を禁じてないし、我が国では基本的に信仰は自由よ。女神を崇めようが、隣のおばちゃんを崇めようが、近所の犬を崇めようが、本人の意思が尊重されるわ。ちなみにジェシスは、炎と鋼の神の信仰者……すなわち、無神論者よ」
「じゃあ、あなたは、女神と女神の紡ぐ運命を信じているの?」
「……必ずしも信じてはいない、と言ったほうがいいわね。女神はいるかもしれないし、いないかもしれない。それはわからないわ。わからないから祈るの。いるかもしれないのなら、祈っておいて損はないでしょ?」
「なるほど……それはそうね」
そのしたたかな回答に、春明は素直に感心する。
「で、でも、女神がいるかもしれないと考えたときは、自分たちに悪い運命を与えたことを恨めしく感じたりしないの?」
あまりしつこく訊くと、ソフィシエの気分を害してしまうのではと恐れつつも、春明は訊かずにはいられなかった。
少女は気を悪くする様子もなく、穏やかに答えた。
「女神がサーヴェクトの民を見放したと……悪い運命を与えたと、決めつけることはできないと思うわ」
「……どういうこと?」
「確かにサーヴェクトは、魔力を持たぬ『無能者』として、絶望のうちに祖国を追われた人々が建てた国。でも、だからこそ魔術以外の力を求め、やがて機械文明の祖となった。おかげで国家は繁栄し、かつて自分たちを追い出した祖国を余裕で見返してやれる大国になった……」
そう言うと、ソフィシエは春明と目を合わせた。口の端を上げ、どこか不敵に微笑む。
「これが悪い運命なら、他にどんな良い運命があると思う?」
「……!」
「こういう考え方をすれば、女神を恨まずに済むのよ。魔力を失ってしまっても、見捨てられたとは限らない。いくらでも都合のいいように解釈することが可能なんだもの」
ソフィシエは、首を反らせて背後に浮かぶ月を見上げ、目を細める。そして――
「……逆に言えば、『運命』なんて、所詮その程度のもの。解釈次第、自分次第で、過去の運命も未来の運命も変えていける。過酷な運命は、必ずしも悪い運命じゃない。良い運命に感謝するのはいいけど、辛い目に遭ったからって女神を恨むのは、卑怯だわ」
きっぱりと言い放った。
春明には、それが二年前の自分に対する容赦ない叱責に聞こえた。
思わず唇から溜め息が漏れる――相手への羨望と自分への卑下が混じった溜め息が。
「あなたには、月の女神なんていてもいなくても関係ないのね。あなたの運命を決定しているのは、他ならぬあなた自身なんだから。悪い運命は全て月亮娘娘のせいにして、自分の弱さを変える努力をしていなかった私とは、全然違うわ。あなたは……」
春明は横を向いて、ソフィシエの瞳を覗き込む。
「とても強い。本物の女神様より、女神らしいくらい」
天華国民としては最高に罰当たりな言葉だったが、これは正直な気持ちだった。今、目の前にいる彼女こそが、二年前に自分の運命を変えた女神なのだ。
残酷だけれど、慈悲深い女神――
「強い? わたしが? まさか」
だが、ソフィシエは乾いた笑い声と共に、贈られた賞賛を斬って捨てた。
「そうね、自分のことを自信たっぷりに強いと思ってた時期もあったけど……最近、それは間違いだったって気づいたの。自分の能力のなさを痛感したわ。失敗ばかりして、そのたびに周りの人に迷惑を掛けて……。よりによって、一番大切な人に、一番迷惑を掛けてるのよ。最低最悪でしょ?」
「一番大切な人って……『失い難い大切な人』のこと?」
「そう。わたしのせいで、踏んだり蹴ったりの目に遭ってるわ。この前は大怪我をして、今もベッドで療養中。でも、彼は決してわたしを責めない。それが、辛くて……」
少女の平静な声が、わずかに震えた。
「女神だなんて、とんでもないわ。月の女神は、自身の采配で運命を紡いで、人々に与えるとされている存在だけど、わたしにはそんなことできないもの。自分一人の運命さえ、満足に思い通りに紡ぐことができない。運命は変えられると信じてても、変えるためにはそれなりの力が必要なの。わたしにはまだまだ足りない……その力が!」
強い口調のなかに、深い苛立ちが滲む。
「自分の運命すら変えられないなら……自分の思い描く高みに、どうあがいても到達できないとしたら、いっそ世界から消えてしまったほうがいいのかもしれない。でも、限界を完全に悟るまでは、あがけるだけあがいてみるつもりなの……もっと強くなるために」
「そ、ソフィシエ……」
春明は、幼げな少女の、激しくも静かな気迫に当てられ、半ば茫然となった。
(……ジェシスさんは、彼女のこんな気性を知っているから、深刻に心配していたのね)
昨夜、彼から聞かされた話が、いわゆる『架空の物語』だということは承知している。
しかし、そのなかに真実が含まれていることは、もはや疑いようがなかった。
(いったい彼女は、何者なの……?)
春明はソフィシエに対して、二年前と同じような畏怖を覚えていた。
この少女の言動は、外見年齢を遥かに超越している。いや、大人でも、ここまで極端な完璧主義者は見たことがない。
容貌といい、雰囲気といい、全てがどこか人間離れしている。
いくら影の戦場に生きる身とはいえ、
まさか本物の女神ではないにしても、
いったい彼女は――!?
そうした畏れの感情が、知らず知らずのうちに顔に出てしまっていたのだろう。
思い詰めた瞳を水平線の彼方に向けていたソフィシエは、ふと我に返ったようにこちらを見るなり、気まずげな表情になった。
「あ……ご、ごめんなさい、春明。何か調子に乗って、妙なことを口走っちゃったみたいだけど、気にしないで……」
ぎこちない笑顔で、ごまかすように言う。
「さあ、真っ暗にならないうちに帰らなきゃいけないし、そろそろ行きましょ?」
「そ、そうね。そうしましょうか。ジェシスさんも待ってるはずですから」
春明は同意して、石段から立ち上がった。
長い石段を、二人で並んで下りていく。友人同士なら、他愛もないお喋りでもしながら歩くものだろうが、春明とソフィシエは無言だった。
春明は、いろいろな理由から、口を開くのが怖くなっていた。
知りたいけれど、これ以上は知らないほうがいいような気もする、少女の正体。会話が弾めば、好奇心の命じるままに、探るような質問をしてしまいそうだ。
だが、そんなことをしたら、きっと彼女を傷つける。それに、彼女を相手に迂闊な遣り取りをするのは、あまりに危険だと、今更ながら頭の片隅で警鐘が鳴り響いていた。
最悪、こちらの素性に気づかれることにもなりかねない。それが何より恐ろしかった。
一言も口を利かないまま、ソフィシエは春明より一歩早く、石段を下り切った。
次の瞬間、くるりと振り向く。
「……ねえ、春明。友達になってくれる?」
「え……ええ?」
不意打ちの問い掛けに、春明はまともに驚くこともできず、間抜けな声を上げた。
「やっぱり嫌?」
ソフィシエは、不安なような切ないような顔をしていた。
それは、春明が今朝、ソフィシエを遊びに誘うときに浮かべた表情にひどく似ていた。
もちろん、春明本人はそんなことを知る由もない。
ただ反射的に、おだんご頭が崩れるのではないかと思える勢いで、首を振っていた。
「う、ううん。そんなことないわ! 今日一日、こうして一緒に楽しく過ごせただけで、私たちは、もうとっくに友達よ。そうでしょう?」
するとソフィシエは、安心したように、ふわりと微笑んだ。
「嬉しいわ。わたし、あまり友達が多くないから……あなたと友達になれて嬉しい。明日には別れて、たぶん二度と会うことがないとしても」
「ソフィシエ……」
少なくとも彼女の素性の一部を知り、自分の立場をわきまえている春明は、『二度と会うことがない』という件を打ち消すことはできなかった。
「でもね、おかしなことを言うようだけど、二度と会えないからこそ、わたしはあなたと友達になれたのよ……春明」
その台詞が耳に飛び込んだとき、春明は心臓が口から飛び出る心地がした。背筋が緊張し、身体の芯が冷たくなる。
(そんな……もしかして、バレてるんじゃ……!?)
しかし、その後に続いたソフィシエの言葉は、幸い、春明の懸念を現実にするものではなかった。
「わたし、いろいろ普通じゃないから。生まれたときから普通じゃないし、それからも割と普通じゃなく生きてきたわ。けれど、どういうふうに普通じゃないかは口にできない」
「普通じゃ、ない……? 生まれたときから?」
「そうなの。それで友達が少ないのよ。普通じゃないからじゃなくて、普通じゃないことを隠さなきゃならないから。普通の人の傍に友達としているには、重すぎる秘密をわたしは抱えているから……」
ソフィシエの話し方に、悲壮感はなかった。
ただ、ひとかけらの淋しさが、落ち着いた声音のなかに溶けている。
「でも、一日くらいなら、秘密を抱えたまま誰かと親しくしても、大きな罪にはならないって……そう思いたい。友達になっても、傍にいなければ、その秘密があなたを傷つけることはないわ。だから、怖がらないで……どうか……」
請われるまでもなく、春明は頷いた。
「わかったわ。離れても、あなたのことは忘れない。ずっと友達でいるわ」
「……ありがとう。秘密は明かせなくても、あなたには、せめて秘密があることくらいは明かしておきたかったの。少しでも本物の友達に近づきたくて……。これでわたし、最高のお土産を持って母国に帰れるわ」
ソフィシエは幸せそうに言うと、踵を返して再び歩き始めた。
その小さな背中を、春明はどうしようもなく複雑な心境で見つめた。
(口にできない秘密って、何なのかしら……?)
影の兵士であること? それもあるだろう。だが、絶対にそれだけではないと、春明は根拠もなく確信していた。
それにしても、丘の上にいたときのソフィシエと、ここにいるソフィシエとの、落差の大きさときたら! ほんの一時で、彼女はころころと印象が変わる。
――牡丹路で見た、お洒落に夢中になる多感な娘。
――二年前に見た、冷徹に職務を果たす影の兵士。
――今ここで見た、謎を秘めながらも無垢な少女。
本当のソフィシエは、どれなのか。あるいは、そのどれもが本当なのか。
だとすれば、まるで多重人格者――いや、そう言うのはおおげさすぎるかもしれない。
しかし彼女は、『生まれたときから普通じゃない』と告げた。
もしや……?
ソフィシエの正体に関して、あるひとつの仮定が、春明の脳裏に閃いた。
それはあくまで仮定、勝手な推察でしかない。けれども、そう考えることで、あれこれ辻褄は合うのだ。
仮定が事実だとしたら衝撃的だが、春明は敢えてそれを確かめようとは思わなかった。
(だって、彼女は正直に、『秘密』は『明かせない』って教えてくれた……)
その代わり、後ろからソフィシエに、短い問いをぶつけた。
「……あなたは、普通じゃない自分の存在が嫌になったこと、ありますか?」
唐突で不躾な質問にも、彼女は振り向きもせず、さらりと答えた。
「ないわ。普通じゃないせいで失ったものも多いけど、普通じゃないおかげで得たものも多いから」
「だけど、たまには普通の女の子でいたいと思うことも、ありますよね?」
「それは……あるわ」
「私もです」
ソフィシエはぴたりと足を止め、こちらを向いた。『え?』という顔つきをしている。
訝しげな視線に射られても、春明はもはや焦らなかった。我ながら、とんでもなく大胆だとは思いつつも、バレたらバレたで構わないような気がしていた。
彼女の率直さに倣って、自分も、少しでも本物の友達に近づきたいと思った。
だが、ソフィシエは結局、こう言っただけだった。
「じゃあ、今日はわたしたちにとって、最高に貴重な一日だったわね!」
「……まったくです!」
お互い顔を見合わせて笑む。
春明とソフィシエは、自然と歩調を合わせながら、帰路を急いだ。
約二年ぶりに月宮廟へ向かおうとする途中、彼は驚愕のあまり、道端で立ち竦んだ。
通りかかった茶館の前で、にわかには信じ難い光景に出くわしたのだ。
彼は一瞬、我が目を疑った。
(まさか……。いや、間違いない! あそこの女……あれは……)
「狠毒娘娘……!」
深い憎悪を込めて、彼は低く呟いた。
彼の名は黒龍。本名は別にあるが、そちらで呼ばれる機会は少ない。
(いったい、どういうことだ!? あの女の横にいるのは……!)
復讐を誓った忌まわしい敵が眼前にいるのもさることながら、もっと驚かされたのは、その敵と一緒にいるのが顔見知りだということだ。
一年半ほど会わない間に、すっかり印象が変わっていたが、いくら何でも自分の血縁を見間違うはずはない。
(春明……)
黒龍は、目の前で展開されている事態が呑み込めなかった。自分でも頭が混乱しかけているのがわかる。おろおろと狼狽えるなど、この自分にあるまじきことではあるが、状況が状況だ。
事態を把握し、冷静な判断力を取り戻すため、彼は黙って観察することした。
幸い、相手はまだ全くこちらに気づいていないようだ。
わずかに距離を狭めながら、黒龍は相手の視界に入りにくい場所に移動した。道を往来する人々に紛れるようにして、さり気なく様子を窺う。
茶館から出てきた二人の娘――春明と狠毒娘娘――の傍には、もう一人気になる人影があった。
(……あの男は誰なんだ?)
春明と同じくらいの年齢と思しき、黒髪の見知らぬ男。
見ている限り、三人の様子に不自然なところはない。剣呑な雰囲気や張り詰めた緊張感が感じられないどころか、やけに親しげで楽しそうだ。
春明と狠毒娘娘など、ドレスでめかし込んだ上に、そろいの髪型をして、あたかも仲睦まじい姉妹のようである。
一見して、普通の観光客と変わらない。平和な街に違和感なく溶け込んでいる。
だが黒龍は、二人の娘の素性と、過去の関わりを知っている。その彼の目から見れば、二人の間の自然さこそが、この上なく不自然で奇異に感じられた。
今すぐに飛び出していって、春明に事情を問い質したい衝動を必死に抑え、彼は三人の男女を改めてじっくり眺めた。
狠毒娘娘――二年前に対峙して以来、忘れもしないあの姿。
やや幼さが薄れたぶん、その美貌の禍々しさ、凄絶さは、いや増している。
ところが恐ろしいことに、春明の隣で浮かべている笑顔は、まるで無邪気な少女のように見えた。薄気味悪さから、背筋に悪寒が走る。
春明――二年足らずの間に、見違えるほど変わった。自分ほど近しい間柄でなければ、別人と見紛ってもおかしくないだろう。
醜い芋虫が胡蝶となるごとく、あの弱音ばかり吐いていた泣き虫娘が、ずいぶんと大人びて美しくなったものだ。肝心の中身のほうが成長しているかどうかは、まだわからないにしても。
しかし、まったくもって不可解だ。幼い頃から共に過ごしてきた自分でさえ、あんなに幸せそうな顔は見たことがない。それを、よりによって狠毒娘娘に向けているとは!
そして黒髪の男――黒髪とはいえ、よくよく顔立ちを見ると外国人らしい。
やけに目つきが鋭く、柄の悪そうな男だが、二人の娘は警戒の気配もなく接している。
はっきりとは聞き取れないが、喋る言語は北大陸のもの……それもどうやら『サーヴェクト訛り』のようだ。
ということは、あの男、おそらく狠毒娘娘の連れだろう。すなわち、例の腐った偽善者集団に所属するエージェントである可能性が高い。
やがて三人が連れ立って道を歩き始めると、黒龍は背後から注意深く尾行を開始した。
半時間ほど後をつけた末、三人が一軒の飯店に入るのを確認する。
月亮飯店――そこは現在春明が暮らしている家でもある。
(奴らをこんなところに連れ込むとはな。春明……あいつ、何を考えてる?)
この行動は、まともな理解の及ぶ範疇を超えている。
(……まあいい。それはこれから確かめれば済むことだ。とにかく、あの女は現実にここにいる……)
表舞台における外交政策の影響などから、この二年間、サーヴェクトに乗り込む機会には恵まれなかったが……これは、またとない復讐の好機だ。
(絶対に逃がすものか。必ずや捕えて、二年前の所業を贖わせてやる!)
黒龍はただちに行動に出た。相手は、あの狠毒娘娘だ。確実に捕えるためには、慎重に慎重を期して、包囲網を形成する必要がある。
最寄りの組織支部にいる天兵たちに連絡を取り、緊急事態を伝えた。そして、いくつかの指示を与える。
あらかた手筈が整うと、彼は再び飯店の前に戻ってきた。
春明に会い、事の真相を明らかにし、報復の口火を切るために……。
「狠毒娘娘……我一定收拾C」
切れるような殺意を含んだ呟きが、藍色の空の下、密やかに風に溶けた。