4. 游覧市街 異国観光は試練の連続
翌朝、ジェシスとソフィシエは、自分たちの部屋で朝食を食べていた。本来なら、一階の食堂に行くべきなのだが、春明が気を利かせて三階まで運んできてくれたのだ。
献立は、野菜もたっぷり入った消化の良さそうな粥。干した海産物でだしをとっているようで、おかわりを要求したくなるほどの旨みがある。
ソフィシエは、ジェシスの目の前で黙々と、さじを動かしていた。
どうやら食欲が戻ってきたらしい。昨日と比べると、顔色も明らかに良くなっている。
あの見るからに怪しかった薬湯……効能のほうは抜群だったようだ。
「……どうだ、気分は?」
ソフィシエが全て食べ終わるのを待って、ジェシスは尋ねた。
「……いいわ。食事がこんなにおいしく感じられたのは、久しぶり……」
「そうか、良かったな」
これが、目覚めてから初めて二人の間で交わされた、会話らしい会話だった。
ジェシスはやはり気まずくて、饒舌に喋る気にはなれなかったし、ソフィシエも『おはよう』と挨拶したきり、自分から言葉を紡ごうとはしなかったのだ。
昨夜の出来事を考えれば、そうなってしまうのも無理からぬことではあった。
「なあ……おまえ、本当に、今日の定期船で帰るつもりなのか?」
念を押すようにしてジェシスが訊くと、
「ええ……」
と、ソフィシエからは簡潔な、それだけに決定的な答えが返ってきた。
春明は昨日、『お任せください』と自信ありげに言ったが、どうやってソフィシエの意思を覆すつもりなのだろうか?
ジェシスからすれば、たった一日でも彼女を島に留めるのは、至難の業に思える。
(とにかく今は、春明の作戦に期待するしかねえよな……)
と、ちょうどそのとき、部屋の扉が開いて、当の春明が入ってきた。
「どうですか、朝食は? お口に合いましたか?」
「ええ、とても美味しかったわ」
ソフィシエの器が空になっているのを見て、春明は、ニコリと笑んだ。
「全部召し上がっていただけたようですね。それでは、食器お下げします。こちらに服を置いておくので、どうぞ寝衣から着替えてください」
春明の持ってきた服を広げて確かめると、ソフィシエは焦ったように声を上げた。
「これ……わたしの服じゃないわ」
昨日の晩、料理の汁で紅く汚れてしまったソフィシエの服は、春明が洗濯すると言ったので預けてあるのだ。
「春明、申し訳ないんだけど、わたしが最初に着てた服を持ってきてくれない? 借り物の服を着て、そのまま帰るわけにはいかないから……」
ソフィシエが頼むと、春明は大変すまなさそうに表情を曇らせた。
「ごめんなさい! 昨日、すぐに洗濯して干そうと思ったんですけど、汚れの染みつきがひどくて、予想以上に手間取ってしまって……。まだ全然、乾いてないんです。乾き次第お返しするので、とりあえずそちらの服を着て、待っててください」
それだけ言うと、春明はソフィシエに言葉を返す隙を与えずに、素早く部屋を退出してしまった。
この遣り取りを横から見ていたジェシスは、春明の言動に確信犯的なものを感じた。
(服をわざと返さないで、足止めするつもりなのか……?)
「乾いてなければ仕方ないけど……困るわね」
ソフィシエは、やや不満げな呟きを漏らしながらも、用意された服に着替え始めた。
ジェシスは少女からさり気なく目を逸らし、自分も身支度を整える。
春明は例によって、ジェシスのぶんも新しい服を持ってきてくれていた。しかし、少々迷った末、着慣れた自分の服のほうを身に着けた。黒を基調にした地味な上下だが、動きやすく、着ていて落ち着ける。
ソフィシエも自分の着替えが全くないわけではないが、旅の手荷物は最低限だ。春明に預けた服を受け取らなければ、帰りの船の中で身じまいに困ることになる。
よって、『人質』ならぬ『服質』作戦というのも、それなりに有効と言えそうだが……。
ソフィシエが髪を梳かし、いつも通りに頭の左右に分けて結ぼうとしていた、そのとき
――春明が再び部屋に入ってきた。
「あ、お二人とも、着替えは済んだみたいですね。それじゃあ、行きましょうか!」
姿を見せるやいなや、開口一番に娘が発した台詞に、二人はポカンとなった。
「……え?」
「行くって……どこへだ?」
春明は、右手でジェシス、左手でソフィシエの腕をむんずとつかみながら答えた。
「決まってるじゃないですか。服屋です!」
そして、その細腕に似合わぬ力で、ぐいぐいと二人の手を引っ張る。
「服屋ぁ!?」
「どうして……!?」
前置き一切なしの行動に、ソフィシエはおろかジェシスまでも戸惑いを隠せない。
「昨日言ったでしょう? 私のせいで服を台無しにしてしまったから、弁償しないと気が済まないって。だから買いに行くんです」
「春明、気持ちは嬉しいけど、そこまでし……」
「いいから、ソフィシエ! つべこべ言わないで、私について来てください」
終始ニコニコしながらも、娘の口調には有無を言わせぬ強さがあった。
舌戦においても勝率九割を誇る影の兵士・ソフィシエも、このときばかりは押され気味だった。
「ち、ちょっと、わたし、もう帰る準備を……」
「帰るにしても、予備の服を手に入れないと、いろいろ不便なんじゃないですか?」
「それは、そうだけど、で、でも……!」
(やるもんだな……春明)
滅多にお目にかかれない彼女の狼狽えぶりに、ジェシスは笑いを噛み殺しつつ、春明の見事な手際に感心していた。
「どうせ、干してある服が乾くまでにも時間はかかります。さあ、行きましょう!!」
結局、突然の強引な誘いを断りきれず、ソフィシエは街へ連れ出されることになった。
天華の繁華街の一角に、その服屋はあった。
ここは昨日、ジェシスがシュリとキアラの二人組を発見した高級商店街だ。春明によると
『牡丹路』というらしい。そんな通りに軒を連ねているだけあって、こぢんまりとしていながらも華のある店構えの服屋である。
店内には女物を中心に、天華特有のデザインの、きらびやかな衣服が並べられていた。
鮮やかな色彩、光沢のある布地、緻密な刺繍……まるで芸術品だ。
(この派手な服、いくらぐらいすんだろうな?)
洒落っ気のない性分であるジェシスは、陳列された商品を眺めながら、少々無粋なことを考えたりもした。
(これ一着で、うまい酒が十本は買えるはずだ……)
現在、外の通りに面した店の売り場にいる客は、ジェシス一人だけだ。
春明に案内されて到着した当初、彼とソフィシエは店主だという女性に出迎えられた。
その女主人と春明は顔見知りのようで、一言二言会話すると、二人でソフィシエを引っ張って奥の部屋へと消えたのだ。
姿は見えないが、今も店の奥から、彼女たちの声が響いてくる。
最初のうちは、春明や女主人と思われる声しか聞こえなかったのだが、しばらくするとソフィシエの声も大きくなってきた。
嫌々何かさせられているという感じではない。ときおり、明るい笑い声さえ交じる。
時間が経つにつれ、春明たちの話し声は、だんだんと熱っぽくなっていくようだった。
三人の会話が気になっても、ジェシスには、その正確な内容はわからない。
ソフィシエは、相棒のクレバーほどではないにしろ、相当優秀な外国語技能の持ち主である。天華語の難しい発音も、完璧に近い。
それに引き換え、ジェシスは自分の語学力を、組織でも最低に近いレベルだと自認している。特殊な立場上、ソフィシエたちに比べて外国語技能の必要性自体が低いため、ある意味当然なのだが……それ以前に、語学は大の苦手だ。
だから、三人が早口に喋る天華語を耳にしても、ほとんど理解不能だった。
しかし、たとえ意味がつかめなくても、弾んだ声の調子だけで心情は伝わってくる。
(やけに楽しそうだが……遅いな。何やってんだか)
店に来客があるたび、女主人だけは奥から出てきて応対したが、ソフィシエはなかなか戻ってこなかった。
彼女が再び姿を現すまでに、ジェシスは実に一時間以上も待たされることになった――にもかかわらず、すっかり装いを変えた少女を目の当たりにすると、なぜか文句を言う気は起きなかった……。
「無理やり着せられちゃったけど……どう? 似合う?」
ソフィシエは小首を傾げて訊いた。
彼女が着ているのは、まさに天華独特の形をしたドレスだった。
ドレスと言っても、北大陸のもののように、裾がふんわりと広がってはいない。肩から膝元まで、直線的でタイトな輪郭だ。その代わり、動きやすいように、腰から下の部分に深い切れ込みが入っている。
色は紅玉のような真紅。襟元は金の飾り紐で留めるようになっていて、前身頃と背面の裾部分には、朱金の糸で鳥と牡丹の花が刺繍されていた。
耳元には、瞳と同じ色をした翡翠が揺れる耳飾り。よく見ると、うっすらと化粧もしているようだ。
そして、髪は――
「私とおそろいの髪型にしてもらったんですよ! 可愛いでしょう?」
春明が言った。
おだんご頭の娘が二人並んだ様は、まるで仲の良い姉妹か友人同士のように映る。
「J哈、小姑娘、C真漂亮J!!」
たまたま店に入ってきた女性客が、ソフィシエを目にした途端に叫んだ。
「……謝謝」
彼女は気恥ずかしげな素振りを見せながら、まんざらでもなさそうに返事をする。
一方ジェシスは、ソフィシエに対して一言も評価を言えずにいた。
全く何の感慨も抱かなかったから……というわけでは無論なく、むしろその逆だ。
「あらら、ジェシスさん、見惚れちゃってるみたいですね」
春明に図星を指され、彼は我に返った。
「ば、馬鹿言うな! あんまり長いこと待たされたんで、つい、ぼーっとしてただけだ!!」
ジェシスは、照れ隠しを兼ねて、春明に現実的な話題を振る。
「んなことより、春明! いくら汚した詫びに弁償するったって、まさかこんな高そうな服、買うつもりじゃねえだろうな?」
「お金のことなら、心配いりません!」
春明は、こともなげに答えた。
「確かに値段は張りますが、私は以前からこの店の主人とは顔馴染みで、いつも良くしてもらってるんです。このドレスも、だいぶ安く売ってくれました」
「って、もう買ったのかよ!!」
脱力しかけるのをどうにか堪えて、ジェシスはびしりとソフィシエの耳を指差した。
「そんじゃ、この耳にぶらさがってんのは……!?」
すると、不意に女主人が割り込んできて、興奮した口調で何やら喋り始めた。
「な、何て言ってんだ?」
ジェシスが問うと、春明が女主人の言葉を翻訳した。
「『貴重な良質の翡翠を使った品だけど、このドレスにぴったりだし、この方以上に似合う人は絶対いないと思うから差し上げますわ!』と、言ってくれてます」
「はあ?」
あり得ないような話に、ジェシスは唖然となる。
いや、実際、ドレスもピアスも、ソフィシエにこの上なく似合うのは確かだが……。
――恐るべし妖魔の魅力。
(魅了術は同性には通用しないとか言うが、それ、嘘じゃねえのか?)
その後、借りたのか買ったのかは知らないが、春明も奥の部屋でドレスに着替えて出てきた。形状はソフィシエのものとほぼ同じだが、色は海のような紺碧だ。
服屋を後にして、外の通りに出た直後、春明は振り向いた。
「さて、服選びも済んだことだし、これからどこへ行きましょうか?」
その台詞に、ソフィシエははっとなった。
「あ! わたし、もう……。今日の定期船の時間は……?」
「ねえ、ソフィシエ。どうしても帰りたいなら、私に引き止めることはできないけど……せっかく完璧にお洒落したのに、すぐ帰るのはもったいないと思わない?」
「え? あ、それは……」
ソフィシエの顔に動揺が走る。そこへ、春明がさらに揺さぶりをかけた。
「こんなに綺麗な姿で、ろくに街を歩くこともなしに船室に閉じ籠ったりしたら、ドレスが泣くわ。そう思わない?」
「…………………………」
ソフィシエは返す言葉に窮した様子で、上目遣いにジェシスのほうを窺った。
「俺は昨日から、帰るのを一日延ばそうって言ってんだろ」
「え、ええ、そうだったわね。でも、どうしよう……」
ソフィシエが苦悩の表情を浮かべると、春明はすかさず行動に出た。
「迷うくらいだったら、今日一日だけは、私と一緒に楽しみましょう! ね?」
両手でしっかりと少女の手を握り、間近で目と目を合わせる。
「余計なことは全部忘れて、今日一日だけ……」
ただ遊びに誘っているだけの春明の眼差しが、このとき、切なささえ帯びて見えたのは単なる光の加減だろうか。
ジェシスは、娘の横顔を眺めていて、ふと疑問を覚えずにはいられなかった。
(どうして……ここまでしてくれる? 服の件を敢えて自分の過失と考えてるにしたって、ここまで世話を焼く義理は……)
春明にはないはずだ。
自分たちは、あの宿を訪れる大勢の客のうちの二人に過ぎないのだから。
(まあしかし、こういうのも天華の国民性ってやつか……)
ジェシスは、それほど深くは考えずに自分を納得させると、思考を中断した。
春明の誘いに、とうとうソフィシエが応じて頷いたからだ。
(す、すげえ……。女の微妙な心理を突けるのは、やっぱ女か……)
この少女の鉄壁の決意を、完全に崩すことができるとは、尊敬に値する偉業である。
これは、もはや――ある種の奇跡だ。
春明の助力のおかげで、彼は任務達成に向けた大きな一歩を踏み出すことに成功した。
それからジェシスとソフィシエは、春明と共に天華の街を巡り歩いた。
牡丹路の他の店をひやかして回ったり、小川に沿った柳並木の下をぶらぶらしたり。
赤い柱に瑠璃色の瓦の家々や、青空に映える高楼――何気ない景色にも異国情緒が満ちていて、しばしば足が止まった。
昼食は、繁華街の広場に出ている屋台をはしごして、空腹を満たした。
汁気たっぷりの麺料理、香ばしい野菜と挽肉の包み揚げ、パンに似た生地の中に甘い餡が詰まった菓子――春明に尋ねないと名前もわからない、異国の食べ物の数々。
昨晩、月亮飯店で口にした天華料理に比べると、庶民的な印象で値段も安かった。
しかし、美味しさは負けず劣らずで、あれはどんな味がするのだろうと、次から次へと違うものに手を伸ばしたくなってしまうのだ。
ソフィシエは、春明とかなり打ち解けた様子になって、よく笑顔を見せた。少しばかりはしゃいでいる。一度割り切ったら、彼女は気持ちの切り替えが早い。
今のところ体調にも問題はないようだし、ジェシスにとっては喜ばしい状況である。
ただ、そんな状況のなかにも、ひとつだけ喜ばしくない点があった。
ソフィシエと春明が連れ立って歩いていると、嫌でも周囲の注目を浴びてしまうということだ。
貸衣装などで着飾った観光客はいくらでもいる。二人の姿が特に目立つ格好というわけではない。なのに、道行く人々は老若男女問わず、そろって二人の娘を振り返る。そして、決まって感嘆の吐息を漏らすのだ。
向けられるのは、賞賛や羨望の眼差し。そこに悪意や害意は含まれていない。
だが――やたらと人目を集めるのは、どうにも厄介だった。
万が一、天兵や『クラウ狩り』に勘づかれ、目をつけられることになったら……!
ジェシスは観光を楽しむ間も、常に神経の一端を研ぎ澄ませていた。ソフィシエ本人が深刻に懸念していた以上、警戒を怠るわけにはいかない。
すれ違う男たちが、両手に花状態のジェシスにたびたび敵意の視線を突き刺したが、彼はそれにも敏感に反応した。相手の素性を知らない哀れな男たちは、鋭い目を向けられると、例外なく縮み上がって脱兎のごとく退散していった。
やがて午後になると、春明はジェシスたちを一際賑やかな場所に案内した。彼女曰く、ここは観光客が見逃しがちな「買い物の穴場」なのだそうだ。
多くの露店がひしめき合う市場――『百華市』。
野菜に果物、衣服、日用雑貨、古本、高級そうな絵皿から、ガラクタにしか見えない壺まで……種々雑多、ありとあらゆるものが地面の上に溢れている。
ひたすら雑然とした雰囲気の界隈だ。周辺は、地元の人々と思われる買い物客でごった返し、むっとするほどの熱気と活気に包まれていた。
ジェシスは、品物と人間の数の多さに圧倒されかけた。サーヴェクトの王都でも、これほどまでの賑わいを見せる場所はそうそうない。
「ここは……探せば見つからねえものはなさそうだな。一見して外国製品とわかるやつもあっちこっちにあるし……。お、ありゃ何だ? 食いもんか?」
何やら奇っ怪な黄色い塊を並べている店を指差して、ジェシスは言った。
「ああ、あれは魚卵の天日干しですよ。遥か東方の大陸から運ばれてきたものです」
春明が答える。
「東大陸の産物か……!? 珍しいな!」
「ここ天華は、東西の海上交易の中継地になってますから。北大陸、南大陸はもちろん、東方諸国とも交流があって、各地の品物が集まってくるんです」
「で、あれ、美味いのか?」
ジェシスの質問に、春明は首を傾げる。
「うーん、どうなんでしょう。実は私、食べたことがなくて。とても高級な珍味で、我が国では酒の肴として人気があります」
「へえ、なるほど。悪くねえな」
「え? ジェシスさん、お酒飲むんですか?」
「ああ、まあ。少しだけ……」
「それならぜひ、我が国のお酒も味わってみてください! 天華産の白酒は、名酒として誉れ高い逸品ですよ。けっこう、きついお酒ではありますけど……」
「きつい酒か。そりゃあ、クレバーには打ってつけだな」
ジェシスは、自分以上に酒好きな友人の顔を思い浮かべながら呟いた。
あの友人は大層やんごとない家の出のくせに、上品な葡萄酒よりも喉を焼く火酒のほうが好きだという変わり種なのだ。
「ねえ、ジェシス。クレバーくんやピアスにも、お土産買ってってあげない?」
ソフィシエが提案した。
「そうだな……。せっかくの機会だし、そうするか。あいつらも喜ぶだろうし」
「お友達へのお土産ですか? それなら、ゆっくりと見て回ってください。私もしばらくぶりに来たので、ちょっと買い物してきます」
ジェシスとソフィシエは、待ち合わせの場所を決めてから春明と別れた。それから二人で土産物を選びにかかる。
あまり重いと持ち運びに困るので、クレバーには最高級の白酒を一本だけ買った。それから、同じく酒好きである上官のジーエンには、魚卵の天日干しを。
「さて、とりあえずこれでよし」
「これでよし、って……まだピアスのぶん買ってないじゃない!」
ソフィシエの突っ込みに、ジェシスは顔をしかめた。
「やっぱ、買ってかないとまずいか……」
「当然よ! 他でもない自分の相棒でしょ?」
「だって俺、あいつの欲しがるもんなんてわかんねえよ。難しいからな、女ってのは」
「わたしも一緒に考えてあげるわよ。そうね……アクセサリーなんか、どう?」
というわけで、装飾品を売る店を探すことになった。しかし、人込みをかき分けながら道を進んでいくのは、かなりの困難を伴った。さながら密林探検だ。
こんな土地勘のない場所で迷うのは、森の中で遭難するにも等しいだろう。
「おい、ソフィシエ! ちょっと手ぇ貸せ」
ジェシスは、隣を歩いている少女に呼びかけた。
「どうしたの?」
「はぐれたら大変だろ。ここでいったん見失ったら絶対、見つけ出すのに苦労する。特におまえはちっこいから、すぐ人に埋もれちまいそうで怖いんだ」
「何よ、失礼ね。わたしが迷子にでもなるっていうの?」
「ああ、なりそうで不安なんだよ。だから手ぇ貸せ」
ジェシスの返答に、ソフィシエは不満そうな顔をした。だが、彼が手を差し伸べると、おとなしくそこに自分の手を預けた。
その状態でしばらく歩いていると、唐突にソフィシエが言った。
「何だか、デートしてるみたいね」
「……!?」
ジェシスは思わず、ガクンと前につんのめった。
「お、おまえ! いきなり危ねえこと言うんじゃねえよ!!」
「何が危ないの?」
「危うくこけそうになったじゃねえか!!」
怒鳴りつつ抗議するジェシスに、ソフィシエは呆れ顔を向ける。
「まったく相変わらずね。あんなの、こういうシチュエーションになったときのお決まりの台詞なんだから、さらりと流せばいいのよ。それができないなんて、まだまだ男として未熟だわ……」
ふうっ……と溜め息をついて首を振る少女に、ジェシスは絶叫した。
「この年齢で成熟してたまるかッ!!」
頭に血が上るのを感じながら、肩を上下させて息をする。
自分の手のなかにある、柔らかい少女の手。そこから伝わってくる体温。
それまで意識していなかったものが、急に意識されるようになってしまった。
まさか今更離すわけにもいかず、彼は懊悩を強いられた。だが、その一方で、心の底に深い安堵を覚えてもいた。
(こいつも、やっといつもの調子に戻ってきたよな……)
これこそが、いつものソフィシエ――普段の彼女。
こうした応酬をするのが、いつもの自分と彼女――日常の関係。
昨夜のような『異常さ』は、今のソフィシエからは微塵も感じられない。
そのことが、彼女の身体と精神が安定を取り戻しつつある証明のように思えたのだ。
装飾品を扱う露店にどうにか辿り着くと、ジェシスはソフィシエに向かって懇願した。
「頼むから、選ぶのはおまえがやってくれ。俺はマジでさっぱりわからねえ」
目の前には、首飾り、耳飾り、髪飾り、腕輪、指輪など、さまざまな装飾品がずらりと並んでいる。
露店で売っているだけあって、牡丹路の宝石店に置いてある商品に比べると、桁違いの安物だ。とはいえ、それなりの値段はするし、細工などは非常に凝っているものもあり、粗悪品には見えない。
「わたしが選んでもいいけど……たまにはあなたも、こういう方面に頭を使ったら? 別に難しく考える必要はないわ。ピアスに似合いそうだと思うのを買えばいいのよ」
ソフィシエに言われて、ジェシスは商品を見つめながら考え込んだ。
「う……そうだな……。こういうのはどうだ?」
彼が指し示したのは、猫目石と柘榴石をあしらった、小さなピアスだった。デザインはシンプルだが、宝石の色の深さが印象的だ。
「あいつ、耳飾り以外のアクセサリーは、ほとんど着けねえからな」
「そう言えば、そうね……」
ピアスは、自らを『ピアス』と名乗る彼女の、一種のトレードマークだ。ゆえに、こだわりもあるらしい。今ソフィシエが着けているような、揺れるタイプのものは、『可愛らしすぎて、あたしにゃ似合わないよ』と言っていたのを、ジェシスは思い出していた。
「でも、それすごくピアスに似合うと思うわ。ジェシス、あなた案外センスあるのかも」
「そ、そうか……?」
着飾ること全般に興味がないジェシスだが、褒められれば悪い気はしない。
「ね、じゃあ、わたしにはどんなのが似合うと思う? 見立ててみて」
「おまえに?」
不意に突きつけられた無理難題に、ジェシスは困惑した。
ここで下手な品を選べば、散々貶されることになるのは目に見えている。何しろ相手は『美』という概念を第一に尊ぶ一族の出身だ。感性には、非常に口やかましい。
商品全体を、もう一度ざっと眺めてみる。
どうせ装飾品に関しては素人なのだから、慎重に吟味しても意味はない。こういうときは、自分の直感に頼るに限る。
「……おまえには、こんなのが似合うんじゃねえか?」
物色し始めてまもなく、彼は一本のペンダントを手に取った。
鎖は艶のない鈍色の金属。ペンダントヘッドは胡蝶の形で、羽の部分に琥珀と紫水晶が配されている。ブランデーにも似た色の琥珀と、ワインのように濃い色合いの紫水晶が、絶妙のコントラストを成していた。
一見して、ある程度歳を重ねた女性向けと思われる品だ。ソフィシエのような外見年齢十余歳の少女には似つかわしくない、大人っぽい意匠と色彩。だが……なぜか、ジェシスには、このペンダントこそが彼女に相応しいと感じられたのだった。
「これ……?」
ソフィシエは目を見張った。ペンダントを凝視したまま、固まっている。
その反応に、ジェシスは彼女が、あまりの見立ての悪さに驚き呆れたのだと思った。
「き、気に入らねえか?」
恐る恐る尋ねると、予想とは懸け離れた言葉が返ってきた。
「ううん、すごく気に入った。ありがとう。わざわざ選んでもらったんだし、これ、自分で買っていくわ」
ジェシスが呆気にとられているうちに、ソフィシエはさっさと代金を払ってペンダントを手に入れてしまった。
「あ、そろそろ春明、待ってるかもしれないわね。お土産選びも一通り終わったし、もう戻ったほうがいいわ」
そう言って、背を向けて歩き出そうとする。
「あ、ああ……そうだな」
ピアスのために選んだピアスを購入すると、ジェシスは急いで後を追った。
「なあ、正直に言ってくれ。本当にそいつでよかったのか?」
ソフィシエにしては素直すぎる評価を信じきれずに、思わず問い質す。
彼女は足を止めないまま、軽い口調で答えた。
「柘榴石に紫水晶……わたしたちにはやっぱり、血色の石が似合うわね」
「俺は、そんなつもりじゃ……」
慌てて弁解しようとするジェシスを振り返り、ソフィシエは、くす、と笑みを零した。
「わかってるわ。わたしが、このペンダントを気に入ったのは、他に理由があるの。どうしても気になるなら、そのうち教えてあげる」
そう言われてしまっては、これ以上追究できない。
ジェシスが黙って雑踏の間をすり抜けることに集中していると、突然ソフィシエが立ち止まった。春明との待ち合わせ場所は、まだずっと向こうのはずだが……。
「ジェシス! あれ……」
低く押し殺した囁きで、少女は彼の注意を引く。
彼女の目線の先にあるものを知って、ジェシスは一瞬、瞠目した。
「あれは……」
そこに並べられているのは、サーヴェクト製の機械製品だった。照明器具や小型の着火装置など、平和な日常生活に役立つ品々だ。
こうした場所で堂々と売られているからには、合法的に輸入されたものだろう。
天華に機械製品が存在すること自体は、問題にはならない。人々の暮らしを豊かにするための製品や技術は、サーヴェクトから他国へ惜しみなく提供されている。
しかし――ジェシスたちは、外国で機械製品を見つけると、つい抱きたくもない疑念を抱いてしまうのだった。
「いくら何でもかんでも売ってるからって、まさかアレはねえだろうな?」
「……ないことを祈りたいわね。シュリとキアラが何も発見してないってことは、たぶん大丈夫なのよ。彼女たちも、アレの監視だけは抜かりなくやってたみたいだし……」
「そうだといいけどな。まあ、どっちにしても、今回はそういう任務で来たわけじゃねえから、勝手な行動は起こせねえが」
「ええ……」
このときのジェシスたちは、もはや観光客ではなかった。一時的にしろ、二人の意識は完全に影の兵士のそれに戻っていた。
サーヴェクトの情報危機管理組織、PSBに所属する者たちに課せられた職務とは――文字通り、国内外の情報管理と危機管理一般である。
そのなかでも最大の仕事は、銃器を始めとする対人殺傷武器、及び、その製造情報が、無制限に他国に流出するのを食い止めること。
サーヴェクトでは機械文明の発展と共に、銃器や爆弾といった新しい武器が次々と生み出された。それらは新興国家たる自国を防衛するのに大いに役立った。だが同時に、世界に波乱の種を撒き散らしたのだ。
もしも、あらゆる国々が鉄と火薬の兵器を公然と所持するようになってしまったら……何かの拍子に戦争でも起きたとき、どういう事態になるか。
その悲惨さは、容易に想像できる。
何より、自国から漏れた技術で自国を脅かされるのを恐れたサーヴェクトは、銃器などの輸出を、ほぼ全面的に禁止した。
PSBの行う主な活動は、それらの武器の密売買の摘発や、製造法の漏洩の阻止だ。
ここ数年というもの、機械に関する情報を盗もうとする周辺諸国と、サーヴェクトとの攻防戦は、水面下で激化している。
つまり、それが今のサーヴェクトにとっての『影の戦争』であり、ジェシスたちはその戦争に生きる『影の兵士』なのだった。
ジェシスは、初めて訪れた、この天華という国を好きになっていた。しかし、そういう私的な感情と、仕事でとる行動は別だ。仮に、この国のどこかで、銃器が売買されている現場に出くわしたとしたら、見過ごしはしない。
二年前、サーヴェクトに天兵が潜入していたことからすると、天華も決して機械武器に無関心ではないはずだ。
ジェシスとソフィシエは、春明と合流するため、黙って露店の店先を離れた。この地もまた戦場であると、改めて認識させられた気分だった。