3. 夜里彷徨 夜に惑う悩める狼
ジェシスとソフィシエが通された客室は、三階の東の端の角部屋だった。
室内には、きっちりと整えられた大きな寝台が二つある。他にも、繊細な彫刻が施された木製の鏡台や、透かしのある衣装箪笥などが据え付けられていた。池のある庭に面した円形の窓を覗けば、月明かりの下で幻想的な雰囲気を漂わせる景色が楽しめる。
部屋の広さといい、調度品の質といい、申し分ない。おそらくは、この宿屋で最高級の客室ではないかと思われた。
こんな部屋に無料で泊めてもらうのは、さすがに気が引けたが、ここしか空いていないというのだから仕方ない。
春明は案内を終えた後、『祖父に頼んで疲労に効く薬湯を作ってもらいます』と告げて、すぐに階下に戻ろうとした。
そのとき彼女は、ジェシスも入浴してはどうかと勧めてくれた。だが……彼は、たとえ宿のなかにいても、今のソフィシエから目を離すことには躊躇があった。
しかし、そのソフィシエまでが『行ってくれば』と宣ったので、ジェシスは部屋を出て春明と共に階段を下り、一階に向かった。
(いい湯加減だな……。うう……何だか眠くなってきた)
ソフィシエと同じく個人用の浴室を借りて、ジェシスは五日ぶりのまともな入浴を満喫していた。船上では真水は貴重品なので、とてもこれほど潤沢には使えなかったのだ。
湯船のなかで伸ばされた少年の体躯は、引き締まっていて、強靭な筋肉を内に秘めていることを窺わせた。
服を着ていると『中肉中背』の一言で済ませられそうな体つきのジェシスだが、こうして脱ぐと、特別な鍛錬を長く積んできた身であることが明らかになる。
本当なら、影の兵士が外国において、これほど無防備になるなど言語道断だ。
だが、ほどよく温かい湯に身体を沈めている最中、ジェシスはふと、自分の属する立場を忘れたくなってしまった。
日常を離れた世界で、珍しいものを見、美味しいものを食べ、風呂に入って眠る。
その間くらいは、影の戦争から離脱していたいと……そう思ったのだ。
一瞬でも、こんな願望が頭を過ぎるなど、一流の影の兵士にはあるまじきことかもしれない。
それでも――
きっとシュリやキアラは、この島で、同じような思いを抱いて暮らしていたはずだ。
だからこそ、報告書を書くことさえ放棄して、日常との繋がりを絶った。
そして、あるいはソフィシエも……?
先刻、この浴室にいたときに、自分と全く同じ衝動を覚えたのではないだろうか。
だからこそ、春明からの提案を素直に受け入れ、この宿に留まった。
自分たちが過ごしている日常は、自分たちが選んだもの。なのに、こうして非日常の内に柔らかく包まれていると、その心地良さに酔わずにはいられない。儚く愚かな欲求が、どうしようもなく頭を擡げてくる。
外国――敵地にいるという危機感を捨てて、この一時の安寧に身を委ねたいと……。
ジェシスは、たっぷり小一時間浴槽に漬かってから、春明が前もって手渡してくれた着替えに袖を通し、浴室を出た。
部屋に戻ると、寝台のひとつに腰掛けた少女は、しかめ面で彼を出迎えた。
「……おかえりなさい。あなたいったい、いつからそんなに長風呂するようになったの?」
「あー、悪い。つい気持ち良くて、うたた寝しかけた。睡眠薬も呑んでねえのに、あんな気分になったのは、ガキの頃以来だ」
ジェシスが答えると、ソフィシエは驚愕と非難の感情を露にした。
「信じられない……! お風呂に入ったりするのは、ただでさえ危険すぎて普通なら考えられないことよ? なのに、完全に精神状態を弛緩させて眠りかけるなんて! あなたがそれほどまでに大物だとは、ついぞ知らなかったわ」
「どうせ俺は、これほどまでに大馬鹿者だよ。自分でもわかってる。だがなあ、そんなに顔歪めて文句言うくらいだったら、最初から風呂行けなんて言うな」
ジェシスが怒鳴るでもなく淡々と言うと、ソフィシエははっとして表情を変えた。
「ち、違うわ……」
慌てて立ち上がると、目の前まで歩み寄ってきて、右手を差し出す。
「わたしが変な顔してるのは、これが苦いからよ」
彼女の手には、焼き物の椀があった。その椀には、形容し難い色の――敢えて表現するなら、苔と錆と泥を混ぜて煮込んだような――液体が、なみなみと満たされていた。
「何なんだ、その得体の知れない液体は!?」
一口飲んだらコロリといきそうな危険さを感じて、ジェシスは仰け反った。
「おまえ……それ、飲んだのか!?」
「飲んだわよ。さっき、わざわざ春明が持ってきてくれたんだから」
(な、なるほど。これが春明のじいさんが作った薬湯ってわけか。しかしこれは……)
液体の正体は判明したが、ジェシスはなお不安だった。
「の、飲んで平気なのか?」
「平気よ。拷問に使えそうなほど不味いけど」
「マジかよ……」
ジェシスはぞっとして、底なし沼のようにすら見える不気味な液面を凝視した。
「おまえなあ、実は他人のこと咎められるほど警戒心ないだろ? そんな劇物もどきを、みだりに口に入れやがって!」
「あら、民間人の好意を疑うのは良くないわ」
ソフィシエはあっさりと言って、眉間に皺を寄せながらも薬湯をもう一口飲んだ。
「俺だって、本気で毒が盛られてるとは思ってねえよ! 春明に失礼だろうが。そういう意味じゃなくて、俺たちは外国人なんだから、この国の薬は体質に合わねえ可能性とかもあるだろ? もう少し、その辺を考慮して……」
「ジェシスも、ちょっと飲んでみない? これ、疲労回復と滋養強壮の成分が入ってて、すごくよく効くそうよ」
「誰が飲むかッ!」
ジェシスが叫んで突っ込むと、少女は飲みかけの薬湯の椀を背後の小机の上に置いた。
そして振り返りざま、唇だけで、ふっと皮肉げに笑む。
「知ってる? この国の伝統的な医学はね、人体の備える自然治癒力を高めるという方式をとっているの。薬も、その多くが天然の素材から直接作られているのよ。あなたが常用してる薬よりは、よっぽど健康的だと思うけど? 薬物中毒者もどきのジェシスくん」
「っ……!?」
揶揄する口調に、ジェシスは瞬間的に逆上した。
「ソフィシエ、てめぇ……」
低く呻くと、射抜くような視線で少女を睨めつける。
もとから『こわい顔』であるジェシスが怒ると、まさに泣く子も黙る形相になるのだが――そんな彼を瞳に映して、ソフィシエは怯えもせずに、微笑していた。
さっきの含みのある笑みとはまるで違う、無垢な……しかし、どこか痛々しい微笑み。
「わたし、嘘は言ってないでしょ? あなたは薬物なしでは仕事を続けられない依存者。あなたをそんな仕事に就かせることになったのは、このわたし、よね……」
「……!?」
ジェシスは、頭から水をかぶったような衝撃を受けて、我に返った。
怒気が鎮まっても、咄嗟には言うべき言葉が見つからず、ただただ困惑する。
「……言った通り、わたしは明日帰るわ。でも、あなたはもうしばらく滞在して、骨休めしていって。チーフに事情を説明して、誰にも文句は言わせないようにするから」
「………………………………」
ソフィシエの口から出たとは信じ難い台詞に、ジェシスはますます唖然となった。
「わたしだってね、ほんとは他人のこと言えないのよ。不覚にも仕事のことを忘れそうになったもの。お風呂に入って、こんな情緒のある部屋でくつろいでると……」
ばつが悪い告白でもするように、少女は伏し目がちに床を見ながら呟く。
「あなたが薬に頼らずにぐっすり眠れそうな場所って、すごく貴重じゃない? いい夢を見るせっかくの機会を逃すのはもったいないわ。だから……」
「ソフィシエ……」
ジェシスは、言い知れぬ気まずさ――今日は何度も似たような気分を味わったが、そのなかでも最高の――に捕われ、いたたまれなくなって、うつむいた。
しかし、少女が次に口を開いたとき、そんな感情は一時的に心の隅に押しやられることになった。
「夕食のときは、ごめんなさい。どうしても懸念ばかりが先に立って、あんなきつい言い方になっちゃったの」
謝罪に続く言葉に注意を喚起されて、彼は顔を上げた。
「おまえが、懸念? どういうことだ?」
「この島がいかに戦争とは無縁に見えたとしても、主権を持つ国家である以上、影の戦場の一部には違いない。つまりそういうこと。この天華にも、国に仕える影の兵士がいる。彼らは自分たちのことを『天兵』と呼ぶの」
「ティエンビン……? 『天兵』か? 初めて聞くな」
耳慣れない単語に、ジェシスは首をひねる。
「滅多に国外に出ないあなたが知らないのは無理ないわ。『天兵』とは、天なる女神が遣わした兵、すなわちそれだけ強い兵士という喩えなのよ」
「そりゃまた、ずいぶんと強気な自称だな……」
「でも、彼らが上辺だけの自信家じゃないのは確かよ。小国のエージェントだからって、決して油断はできない。なめてかかると、痛い目に遭うわよ」
ソフィシエは、真摯な表情で話を続けた。
「もう二年近く前になるけど、わたしは我が国に潜入してた天兵たちと一戦交えたことがあるの。正規の任務中じゃなくて、一種の偶発的事態として遭遇したから、わたし一人で緊急対処する羽目になったのよ」
「じゃあ、クレバーはその場にいなかったのか? 完全におまえ一人で?」
「ええ。相手にした天兵の人数は多くはなかったけど、手強かったわ。本気にならざるを得ないくらい。仲間同士の互助も上手くて、ほとんど逃げられちゃって……結局、捕まえられたのは一人だけ。その後、捕縛した相手と直接情報戦に入ったときが、さらなる苦戦の始まりだったのよね……」
脳裏で記憶を手繰り寄せているのか、ソフィシエは、しばし目を閉じた。
「男なら魅了術が効くのに、あいにくその天兵は女で、正攻法を以って対処するしかなかったの。口での説得や脅迫は通用しなかったから、わたしも容赦なく実力行使したわ。それでも相手は丸三日間、我を張り通して耐えた」
それを聞いたジェシスは、感服せずにはいられなかった。
「おまえ相手に、三日も陥ちなかったってか!? た、たいした奴だな……」
「そう、たいしたツワモノなのよ。とにかく、この国に属するエージェントは、戦闘能力はもとより、忠誠心なんかにおいても優秀だってことはわかってるの。集団としても連携のとれた動きをするし。おまけに、天華の国民のなかには、ごく少数ながら、魔術の資質を持つ者がいる。このことは、よく知られてるでしょ?」
「ああ。ルミナスなんかと同じで、月守りの民の一部がこの島に降臨して、定着したとかいう説があんだよな。国民が総じて黒髪なのは、彼の民の血を引いてるせいだとか」
「あのルミナスに比べると、資質を持つ人間の数はずっと少ないし、魔力自体も弱いとは言われてるわ。それでも、魔力を持たない人間にとっては脅威よ。この国では魔術のことを『方術』と呼ぶんだけど、その方術使いが、二年前に戦った天兵のなかにいたの」
「なっ……!?」
ジェシスはさすがに動揺して声を上げた。
彼の反応に、ソフィシエは我が意を得たりという顔つきになる。
「これで、あなたもわかった? この島は、遊興と歓楽に溢れた理想郷のように見えて、実は魔窟かもしれないのよ。わたしたちにとってはね……」
「それでおまえは、明日帰るなんて言ったのか。シュリたちを許せないとか言ったのも、ひょっとして……?」
「……ええ、まあ。この島の危険な側面を知らずに遊び呆けてるみたいだったから、心配になっちゃって。でも、よくよく考えてみれば、あそこまで現地の生活に溶け込んでると逆に目立たないわよね。下手に不審な行動するより、安全かも」
「それは……そうだろうな……」
あの豪遊ぶりは、ある意味、完璧すぎるカモフラージュと言えるだろう。
「彼女たちが警戒心を緩めるのも、ある程度仕方のないことね。この島には常に外国人が大勢滞在してるから、どこをうろつくにも他人の目を気にしなくていいし。そもそもこの国は、国境のない島国ゆえか、大陸の国々に比べて戦場としての空気が希薄だわ。しかも天兵たちは、二年前以来、一度も我が国に干渉してきていないの。おかげで本部においても、天華という国の真の実力を認識している人間は、ほぼ皆無と言っていい状態よ」
「唯一おまえだけが、天兵の怖さを知ってるってわけか?」
「そうかもしれないわね……」
一通り合点がいったジェシスは、神妙に頷く。
「……確かに、長居を避けるには正当な理由だな。そういうことなら、おまえに従って、さっさと引き揚げたほうがよさそうだ」
「あなたまで明日帰る必要はないわよ」
「何でだよ?」
ソフィシエからの思わぬ返事に、彼は拍子抜けして問い返した。
「あなたは天兵に遭遇したことがないし、国外任務に就くこと自体珍しいじゃない。この国で仲間の他に、いったい誰があなたの素性を知ってるっていうの? 黙って普通に過ごしてれば、何の危険もないに決まってるわ」
「だから、俺だけここに残って、しばらくゆっくりしてけって? 馬鹿言え! んなことできるか。って言うか、それだと意味ねえんだよ」
ジェシスは、脱力感と共に軽い頭痛を覚えて、額に手を当てた。
「あのなあ、もうこの際、はっきり率直に言わせてもらうぞ。聞いても今更、文句並べたりすんなよ?」
そう前置きしてから、少女の瞳を見据えて告げる。
「今回の任務の内容は、単なる建前だ。本音は、無茶ばっかするおまえを、どうにかして休ませたいってとこにあんだよ」
告白の直後、室内には静寂が訪れた。
だが、それほど間を置くことなしに、ソフィシエが声を発した。
「……わかってたわ」
喉の奥から、絞り出されたような声だった。
「ほんとはそんなこと、最初からわかってた……。見え透いてるもの」
「………………………………」
ジェシスは驚かなかった。
ソフィシエなら、全て裏を承知した上で、敢えて任務を受けた可能性もある――いや、むしろその可能性のほうが高いとも考えていたからだ。
案の定、彼女はこれまで、何も気づかないふりをしていただけということになる。
「クレバーくんも、チーフも、ピアスも、そしてあなたも。みんなわたしのこと気遣ってくれてるのはわかってる。嬉しくて、その好意を無にすることはできなかったの……」
彼女の口調は次第に速く、強くなっていき、やがて半ば掠れた。
「けれどわたしには、その気遣いが痛くもあった。自分の欠陥とか、無能さとかを、ますます思い知らされることになって……!」
呻きとも叫びともつかぬ響き。それは、苦悶する患者が自分の病状を訴えるときの声音にも似ていた。
急激に取り乱し始めた少女に向かって、ジェシスも押し殺した声で叫ぶ。
「ソフィシエ! いいから、そんなに思い詰めんな!」
「思い詰めてなんかないわ! ただ自分の弱さが許せないだけ」
「そういうのを思い詰めてるってんだ。やっぱおまえには、もうちょっと頭を冷やす時間が必要だな。一日帰るのを延期して、明日だけでも休養しろ!」
ジェシスの命令に、ソフィシエは結んでいない黒髪を振り乱して頭を振った。
「嫌ったら嫌! わたしは明日帰るの。クレバーくんはまだ怪我が治ってないのに、相棒のわたしが呑気にしてられるはずないじゃない! それに、わたしと一緒にいるとあなたが危険なのよ、ジェシス。天兵の存在も気になるし、こんな島にだって『クラウ狩り』が潜んでいないとも限らないわ。わたしのせいで身を危うくするのは、クレバーくんだけで十分でしょ!?」
「身を危うくすんのが怖いなら、俺はとっくに影の戦場にはいねえよ」
ジェシスは即座に言い返したが、相手はそれを完全に無視した。
「何より、わたしが傍にいると、あなたの心が安らがないはずよ。だからわたしは帰る。誰が何と言おうと、明日帰るんだから……!」
これで問答は終わりとばかりに、ソフィシエは踵を返した。そのまま、奥の寝台のほうへと歩いていく。
「お、おまえなあ! さっきから、挑発するようなこと吐かしたかと思えば、らしくない態度に出たり、いきなり妙なこと口走ったり、いったいどういうつもりなんだよ。まさかおまえ、まだ……っ!?」
最後まで言い切ることができずに、ジェシスは絶句した。
少女が彼の見ている前で、纏っていた部屋着をするりと脱ぎ捨てたのだ。
しかも彼女は――下着の類を一切身に着けていなかった。
「おい、こら! 何やってんだ、てめぇは!!」
「何って……明日に備えて眠るための準備よ。春明、薬湯と一緒に寝衣も持ってきてくれたの。あなたのは、そっちの寝台の上に置いてあるわ」
ソフィシエは平然と言って、部屋の入り口に近い側の寝台を指し示した。
確かにそこには、きちんと折り畳まれた新しい衣類があった。
「って、そうじゃねえだろ!! おまえ、着替えるなら一言断ってからにしろよ!」
怒鳴りつつ、ジェシスは全裸の少女から視線を逸らそうとして――見事に失敗した。
顔を向けようとした先に鏡台があり、その鏡が絶妙な角度で白い裸身を映し出していたから……というのは、単なる言い訳でしかなかった。
ひとたび目のなかに焼きついた少女の幻影が、強烈な誘惑で以って、彼の視線を実像へと吸い寄せたのである。
相手があまりに自然体でそこにいると、じっと見つめることも罪ではないように思えてくる。むしろ、あたふたすると余計に後ろめたくなるような気さえした。
淡い照明が満足に届かない部屋の片隅で、ソフィシエの身体は薄闇のなか、仄かに浮かび上がっている。
まだ発展途上で未成熟な、しかし滑らかな曲線を描く肢体。ほっそりとした腕や脚は、つかんでちょっと力を込めたら折れてしまいそうだ。
たとえ手の届く位置にあったとしても、触れるのは躊躇ってしまうだろう。
彼女は――壊れものだ。
「ジェシス……?」
見つめる視線に気づいたのか、ソフィシエは寝衣を広げたところで手を止めた。こちらを見つめ返す。
そして一糸纏わぬ姿のまま、静かに近づいてきた。
ジェシスは動けなかった。まるで、両足が床に縫いとめられてしまったかのように。
彼女の全身を明かりが照らし出したとき、彼は息を呑んだ。
「……!?」
間近に眺めると、ソフィシエの肌には、無残な傷痕が数多く見受けられた。
戦闘や拷問、あるいはそれらの訓練によってつけられたものだ。戦場に生きる者たちの身体には、多かれ少なかれこうした傷がある。それはジェシスとて例外ではない。
だが、彼女の傷痕の生々しさときたら、影の兵士一般を基準にしたとしても、尋常ではなかった。これまで、いかに凄絶な日常を送ってきたのかを如実に物語っている。
「醜いでしょ? わたしの身体……」
自嘲の滲む声で言うと、ソフィシエはジェシスに背中を見せ、右手で髪をかき上げた。
「ほら、こんな『敗者の烙印』まであるの」
「それは……」
右肩の後ろにくっきりと残る刻印は、あらゆる傷痕のなかでも一際目を引いた。
「クレバーと同じ……」
翼を広げた鷲を抽象化した意匠――それは、烙印による火傷の跡だ。
「ええ。この『おそろい』の刻印のことは、前に話したわよね。半年前、メラハシュ潜入記念に押されちゃった、例のあれよ」
ソフィシエは再び正面を向き、さらに一歩、二歩とジェシスに近づいた。
「あのときも、わたしのへまのせいで、クレバーくんは酷い目に遭ったわ。そう、世にもおぞましい目に……」
もはや彼女は、その息遣いや、かすかな温もりをも感じさせる距離にいる。
「わたし、このままじゃ、彼のパートナー失格なの。だから、もっと強くならなきゃ……。もっと……もっと……!」
少女の呟きは、熱に浮かされた病人のうわ言のように部屋を漂った。
「肩の刻印は、あのときの恐怖と屈辱を忘れないための戒めよ。決して消えない傷痕は、過去の記憶をいつでも鮮やかに甦らせてくれる……」
ソフィシエは不意に身をかがめて、ジェシスの脇腹の下、腰骨の辺りに手を当てた。
そこから左の太腿を通って、膝を過ぎるまで、布越しに指を這わせる。
「ねえ、ジェシス。四年前、あなたがここに負った傷も、きっとまだ消えてないわよね。消えるはず、ないんだから……」
触れられた瞬間、ジェシスはゾクリとした。細い指先が左脚の上を滑ると、その感触は複雑な刺激となって全身を駆け巡る。
それでも、彼は動けなかった。
本当に金縛りにあっているかのようで、何か言おうとしても声が出ない。
ソフィシエは、そんな彼の手を取って、自分の左胸、わずかに膨らんだ乳房の上に押し当てた。その柔らかさに惹かれて、半ば無意識の裡に指先に力がこもる。
「こんな身体でも、こうするとやっぱり欲情する? 抱きたいって思う?」
見上げて尋ねてくる少女は、まるで知らない女の顔をしていた。
「もしそうなら、好きにしていいわ。任務中は必ず避妊対策してるから、わたしがクラウだってことも気にしなくていいし……」
少女の身体が放つ甘い香りに搦め捕られ、ジェシスの理性は痺れかけていた。
しかし――
「抱いて。それが少しでも償いになるのなら……」
その言葉が耳に飛び込んだ瞬間、彼の心身は、すっと冷えた。
素早くソフィシエから離れると、険しい口調で命じる。
「質の悪い冗談はそこまでだ。おまえは疲れてんだから、もう寝ろ。今すぐ寝ろ!」
茫然と立ち尽くしている少女に向かって、ジェシスは早口でさらに続けた。
「ちゃんと寝衣着てから横になれよ! その薬湯も、体にいいってんなら全部飲んどけ。俺はちょっと外の空気を吸ってくる。すぐ戻るから、おまえは先に寝てろ!」
言い終わるやいなや、彼は背後の扉を乱暴に引き開けた。
逃げるように部屋を後にしたジェシスは、三階から階段を駆け下りた。食事時を過ぎて人気の絶えた食堂を横切り、宿の庭に出る。
竹垣で囲まれた庭園は、そう広くはないが美しく整えられていた。朱塗りの小さな橋が架かっている池のほとり、柳の木の陰まで来ると、彼はやっと息をついた。
「あっぶねえ……」
呼吸を整えながら、夜闇のなかで呟く。辺りはひっそりとして、自分の乱れた鼓動の音が響きそうな気がした。
(ったく、何てことしやがるんだ、あいつは!!)
誘惑されるままに、危うく取り返しのつかない一線を踏み越えてしまうところだった。
(くっそ……! いくら妖魔の眷族相手でも、まともに抵抗できねえとは……)
すでに子供を産める身体になっていることが不思議なくらいの外見をしているくせに、あの少女は男を誘惑する――そんじょそこらの大人の女では敵わぬほどの手管で。
『欲情』だの『避妊』だの『抱いて』だの、やたらと艶かしい台詞が、あどけない少女の口から発せられたことに関しては、今更驚かない。
ソフィシエと三日も一緒にいれば、彼女のこうした言動にはある程度慣れてしまう。と言うか、慣れざるを得ないのだ。これしきのことでいちいち度肝を抜かれていては、友人として彼女と付き合うことは不可能である。
しかし、その蠱惑的な振る舞いが、直接自分に向けられたとなれば、また話は別だ。
ソフィシエは、人間と妖魔の混血児――世にも美しく残忍な一族の血を引く彼女は、魔性の魅力の持ち主にして、天性の誘惑者。
実年齢に比べて姿が幼いのも、精神構造が同年代の人間の少女のそれとは異なっているのも、全てクラウであるがゆえ。
彼女は自身のそうした特性を存分に生かし、影の兵士としての活動に役立てている。
彼女の駆使する魅了術によって籠絡された男たちは、自分の意思を一時的に奪われ、彼女の言うがままになってしまうのだ。
たとえ先刻のように、ソフィシエが意識的に魅了術を使おうとしていなくても、あんな行動に出られれば、抗うことは難しい。
ジェシスは、改めて彼女の『女』としての怖さを思い知った。
妖魔の誘いに乗ることは、破滅への第一歩だというのが人間たちの認識だが、さっきの場合もまさしくそうだ。衝動的に彼女を抱いたりしたら、これまで築いてきた平穏な関係は、たちまち破綻してしまう。
ソフィシエは平気かもしれないが、自分は絶対に今のままではいられない。彼女の相棒であるクレバーとの関係も、微妙に変化することは避けられないだろう。
考えるだに恐ろしい話だ。
今の気安い付き合いは、何にも代え難い大切なもの。迂闊な行動は、きっと自分や彼女を不幸にする。
ソフィシエとて、それくらいのことがわかっていないはずはない。
なのに、なぜ……?
『それが少しでも償いになるのなら……』
縋るような響きのその言葉が、耳にこびりついて離れない。
(償い……? 償いって、いったい何の償いなんだよ、ソフィシエ!!)
ジェシスは、細い指が辿った左脚を見下ろしながら、今夜の彼女の不可解な言動の数々を思い起こした。
(あんな昔の出来事を、まだ気に病んでたっていうのか?)
四年前の事件……いや、事故。
今や意識することも話題に上ることもなく、思い出すことすら稀になった、あの――
自分が忘れかけているのだから、相手も当然そうだろうと思っていた。
実際、彼女はこれまで、こちらに対する態度に、過去の負い目による遠慮や後ろめたさを見せてはこなかった。
それがどうして、今頃になって……?
(つまり、いよいよ本格的に壊れ気味ってことか……)
考えられる理由のひとつ――たぶんソフィシエは、クレバーの一件と関連して、以前に自分が犯したあらゆる過失を振り返っているのだ。
そうして時間を遡った彼女は、現在ばかりか、過去の自分までも激しく責め立てる。
その結果、口を突いて出てきたのが、あの言葉だとしたら……?
(俺が一緒に来たのは、間違いだったかもな……)
この旅の同行者を決めるとき、ジェシスは相棒のピアスに役目を譲るつもりだった。女同士のほうが、いろいろと気楽だろうと思ったからである。
しかし、当のピアスはニヤニヤ含み笑いをしながら、こうほざいたのだ。
『あたしに遠慮しないで、楽しんできな。またとない機会だ、嬉しいだろう?』
いったい何の『機会』なのかはさておき――ピアスは、この臨時仕事を相棒に任せる気満々だったので、必然的に、ジェシスがソフィシエの仮パートナーに選ばれた。
だが、今になって思うと、この人選は誤りであったと言わざるを得ない。
異国の地で二人きり、向き合って過ごすことで、彼女は思い出さなくてもいいことまで思い出し、余計に苦しんでいる。
自分が傍にいるせいで、ソフィシエの苦痛が増していると考えると、胸の奥がギリギリ締め上げられるような心地がした。彼女の心身両面の衰弱を食い止めることこそが役目、与えられた任務だというのに、これでは逆効果だ。
ソフィシエを救うには、どうすればいいのか――皆目見当をつけられないでいる自分が、歯がゆかった。
柳の木の脇にたたずんだまま、ジェシスは無言で、月光の散る水面を見つめ続けた。
「あの……ジェシスさん?」
その声は、背後で、あまりに唐突に響いた。
反射的に全身を緊張させる。
これほど静かな場所で他人に接近されたのに、気配を察知できなかったとは!
物思いに沈んでいたとはいえ、不覚だ。
ゆっくりと振り向くと、そこには、おだんご頭の若い娘が立っていた。
「春明……」
娘は、木枠に薄紙を張った灯籠を手にしていた。ぼんやりした明るさのなかに、気遣わしげな表情が浮かび上がっている。
「すみません、お邪魔するつもりはないんです。お客様が庭へ立ち入るのは自由ですし。ただ、遠目にも何か思い詰めたようなご様子に見えたので、気になってしまって……」
「そんなふうに見えたのか?」
「え、ええ……。まさかとは思いますが、池に身を投げようなんてお考えじゃありませんよね? ど、どうか早まらないでください」
深刻な瞳で見上げてくる春明に、ジェシスは苦笑した。
「いや、いくら何でも、この庭の池じゃ死ぬのは難しいだろ……」
そう言いながら、膝ほどの深さしかないと思われる池に一瞥を投げる。
「そ、そうですよね。私ったら、また失礼なことを……」
春明は恐縮したようにうつむいたが、すぐに顔を上げ、改めて問いかけてきた。
「でも……何か、お悩みなんですね?」
「まあな……」
ジェシスは正直に肯定する。
「ソフィシエさんの、ことですか?」
「どうしてわかるんだ?」
「何となく、です……。彼女、あんなに若いのに、しっかりした方ですよね。けれど……とても疲れている。いえ、単に疲れているだけじゃなくて、どこか無理をしているように見受けられたので……」
「……ああ、そうなんだよ」
独りで抱え込むには重過ぎる問題は、ふと誰かに漏らしたくなることがある。
その相手に解決策を期待するのではなく、ただその重さの一部でも共有してもらいたいという心理が働くからだ。
他人に話すようなことではないと思いつつも、ジェシスは自然と口を開いていた。
「実はな……あいつは見ての通り子供だし、母国では、とある学校に通ってんだけどな。その学校ってのは、まあ名門と言うか何と言うかで、勉学とかいろいろハードなわけだ。そんで、身内の俺が言うのも何だが、あいつはその学校でも、割と優等生なんだよ」
「ええ、確かに、そんな感じに見えます」
架空の設定を借りたジェシスの話に、春明は真面目に相槌を打つ。
「ところがここ最近、勉学のほうがスランプ……ってか、あんまうまくいってなくてな。そのせいで落ち込んでんだ。いや、落ち込むだけならまだいいんだが……あいつの場合、スランプに陥った自分が許せねえらしくて、休息もとらずにがむしゃらに勉強すんだよ。だから、あんなふうに弱ってて……」
「そうだったんですか……。それで、学校のお休みを利用して、この天華に旅行にいらしたんですね? ソフィシエさんを休ませるために」
「ま、そういうことだ。いい気分転換になればと思ってな。着いたのは今日の昼だから、滞在期間はまだ半日だが、実際ここはいい国だ。料理は美味いし、人間は親切だし」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、天華国民として嬉しい限りです」
春明は、月下に芙蓉のごとく映える顔を綻ばせた。
「じゃあ、明日からの観光のご予定は?」
その質問に、ジェシスは思わず眉根を寄せた。それこそが最大の問題であるからだ。
「それなんだが……」
口ごもると、春明は困惑の気配を察したようだった。
「そう言えば……。先程、『明日帰るにしても、今夜泊まる場所はないと困る』というようなことを言っておられましたね。何か、急に不都合でも……?」
「……………………………………」
すぐには適切な返答ができずに、ジェシスは沈黙した。
「あ! ごめんなさい、変に詮索するような質問をしてしまって。無神経でした……」
「いや、いい。不都合も……いくつかあることはあるんだが、一番の不都合は、あいつの頑固さだ。休めといくら言っても、ろくに休もうとしねえ」
「自分に厳しい方なんですね、彼女は……」
ジェシスは頷いた。
「そうだ。あいつは自分にはとことん厳しい。ただし、他人にもめっぽう厳しいけどな、あいつの場合」
「……そう、彼女は他人にも厳しい。でも優しい。残酷だけれど慈悲深い。まるで――のように」
「……? 春明?」
薄闇に溶ける囁き声を聞き取りかねて、ジェシスは問うように娘を見た。
しかし彼女は、ただ微笑んで首を横に振った。
「……何でもありません。いくつも不都合があるのなら、お帰りが早くなってしまうのも致し方ないことです。せっかく来ていただいたのに、残念ですが……」
「俺だって残念だ。遠路はるばる来たってのに。ソフィシエの疲労も、さっぱり回復してねえしな」
「あ、そのことなら……私の祖父の薬湯が効けば、明日にはだいぶ体力が戻るはずですよ」
「そうなのか? そりゃあ、ありがたい」
薬湯を見たとき劇物呼ばわりしたことは伏せて、ジェシスは礼を言った。
「あの……差し出がましいようですが……」
「ん?」
控えめに切り出した春明は、わずかに逡巡の様子を見せて、視線をさ迷わせた。だが、やがて思い切ったように、先を続ける。
「せめて、明日一日だけでも……この島に留まられませんか? 私が近くの名所をご案内します。我が国には、まだまだたくさんの美味しいものや、珍しいものがありますから。きっと、ソフィシエさんの気持ちを少しでも紛らわせることができるでしょう」
「それマジか? 願ってもない申し出だが……あんたには、あんたの都合ってもんがあるだろ。迷惑は掛けたくねえよ。それに、あいつを説得するだけでも一苦労だぞ?」
ジェシスの忠告にも、春明は怯まなかった。
「迷惑だなんて、とんでもない! 大丈夫です、私にお任せください。うまく彼女を観光に連れ出してみせますから」
こうして、ジェシスは図らずも、任務達成のための強力な助っ人を得ることになったのだった。
春明と別れて部屋に戻ると、ソフィシエはすでに奥の寝台で寝息を立てていた。
小机の上には、空になった薬湯の椀が載っている。不味いのも我慢して、ちゃんと全部飲んだらしい。
ジェシスは手前の寝台に腰を下ろし、少女の寝顔を眺めた。
つい先刻、自分をあざとく誘った女と同一人物だとは信じられないような寝顔を。
「おいソフィシエ……償いはいらねえから、さっさと忘れちまえ……」
そんなふうに呟きながらも、一方で、ジェシスにはわかっていた。
過ちをいつまでも忘れないこと、過ちから逃げないことが、彼女の強さの源、あるいは強さそのものなのだ。
薬物に頼ってまで、あらゆる罪を忘れようとする自分とは、全く対照的な少女。
しかし、今はその強さが、仇になっている。
それがあまりに皮肉に思えて、ジェシスは、やるせなかった。
この夜、彼はいつもとは違う理由で、なかなか寝付くことができなかった……。