2. 偶然遇上 真紅に彩られた出会い
「あー、もう、あいつらの能天気さには呆れるしかねえよな。ソフィシエ、この際おまえは、あの二人の絶妙な脱力加減を見習ってみろ」
「………………………………」
正午過ぎに港に着いた定期船を降り、天華島に上陸してから約半日後。
常駐諜報員たちとの接触を無事に済ませたジェシスとソフィシエは、島の繁華街の通りを歩いていた。
これで一応、命じられた任務の目的は達成したことになる。
シュリとキアラの二人には、当初の予想以上に簡単に会うことができた。
前もって教えられた滞在場所を訪ねるまでもなく、道の真んなかで、ばったりと出くわしたのである。
本来の行先に向かう途中、偶然通った、やたら高級そうな店ばかりが立ち並ぶ商店街。
そこで山ほど荷物を抱えて歩く見知った顔を発見したのは、ジェシスだった。
彼とソフィシエは、とりあえず人目を避けるため少女たちの仮住いに案内してもらい、それから二人に、定期報告を怠った理由を問い質した。
すると――案の定の答えが返ってきた。
『アハハ、ごめーん。いろいろ忙しくって、つい忘れてた☆』
と、開き直って言い放ったのはシュリ。
『すみません……。この島はあまりに楽し……いえ、平和なので、報告するようなことも特になく、だんだんと面倒……ではなく、だんだんと経費がかさんできたものですから、せめて報告書に使用する紙だけでも節約しようとしてですね……』
などと、訳のわからない言い訳を始めたのはキアラ。
さらに――調書に記録するため、彼女たちの島での生活ぶりについて、詳しい話を聞き出したのだが……その結果判明したのは、二人が明らかにサボっていたという事実だけであった。
どうやらシュリたちは、世界有数の観光地である天華の魅力に取りつかれ、仕事そっちのけで豪遊していたらしい。
彼女たちの部屋には、店で買い漁ったと思しき華美な衣服やら装飾品やらが山と積まれていた。さらに、連日の美食のツケが回ったのか、二人とも三ヶ月でずいぶんふくよかになっていた。
と、いうわけで、口で言い逃れようとしても説得力は皆無。うるさい上官の監視の目が届かない出張地で、二人して自由を謳歌していたのは間違いない。
しかし、さしもの彼女たちも、自分たちを注意するために人員が派遣されたとあって、それなりに反省はしたようだ。
本部がわざわざ実行部から人員を割いたと知ったときには、動揺を隠さなかった。
しかも、やって来たのは、よりによって――悪名高き『血塗れの乙女』ソフィシエと、『こわい顔』……もとい、『冷酷無比なる抹消者たち』の片割れ、ジェシス。
恐縮はしても、必要以上に取り乱さないだけ、二人は度胸が据わっていると言えた。
ジェシスにも、自分が他人からどういうイメージで見られているかの自覚くらいある。
所属する組織内でも、無闇に恐れないで接してくれるのは、一定の交流がある数少ない人間のみなのだ。
今回会うことになった情報部員の少女たちは、そうした相手だった。
けれども結局、最後には、シュリもキアラも半泣き状態に陥ってしまった。
ソフィシエが、静かな、しかし底冷えのする口調と態度で、容赦ない叱責を延々と繰り返したからである。
機械のように説教を続ける幼顔の少女。それを受けてひたすら謝る年長の少女たち。
そのまま放っておくと、どちらも壊れてしまいそうな気がした。
なので、ジェシスはキリのいい頃合を見計い、横からソフィシエの腕を引っつかんだ。
そしてそのまま強引に彼女を引き摺って、シュリたちの部屋を後にしたのだった……。
「まったくとんでもないふしだら娘どもだが、あいつらも十分に反省したようだし、これからは報告書も真面目に書くだろう。とにかく、何事もなく元気にしてることがわかって一安心じゃねえか、な?」
「………………………………」
先刻から、連れ立って通りを歩きながら、ジェシスはソフィシエに話し掛けている。
だが、彼女からは反応がない。全くの無言で、ただ前を向いたまま歩き続けるだけだ。
ジェシスは、今日何度目になるか知れない、重い溜め息を漏らした。
「そりゃあ、仕事熱心なおまえが怒りを覚えるのはわかる。だがな、あいつらだって普段は命懸けの任務に就くことが多いんだ。今回は、こういう場所柄で、つい開放的な気分になって羽目を外しちまったんだよ。大目に見てやれ……」
ソフィシエの前で土下座する少女たちの顔を思い出し、改めて同情を催す。
シュリたちは気の毒だった。
もちろん、自業自得だと言えばそれまでだが、それ以上に不運だった。
状況視察に派遣されたうちの一人がソフィシエでさえなかったら、あんなふうに身体の芯が凍えるような気配にさらされることはなかっただろうに。
「おい、ソフィシエ! 何か返事しろよ」
やや語気を強めて言うと、ようやく彼女は口を開いた。
「ごめん、なさい……。わたし、もう怒ってなんかないわ。彼女たちについては、絶対に許せない部分もあるけど、過剰にきつく言い過ぎたって後悔してる……」
「………………………………」
意外に素直な言葉に、今度はジェシスのほうが反応に困って沈黙した。
「そもそも、わたしは部外者で……単なる実行部員の一人に過ぎなくて、彼女たちの上官でも何でもないのにね」
ソフィシエは、うっすらと自嘲的な微笑を浮かべた。
「さっきのわたしは、おかしかった……。おかしかったの……。自分の心の中に際限なく湧き上がってくる、無意味な苛立たしさを制御できなくて。あれじゃ、まるで八つ当たりだわ。シュリやキアラを、不当に深く傷つけた……。ほんとに最低ね」
「おまえ……」
ジェシスは、愕然として目を見張った。
確かにおかしい。
こんなふうに自分のことを卑下するのは、いつものソフィシエではない。
「ま、まあ、その話はもう済んだことだしな。あいつらは神経図太いほうだから、明日になればケロッとしてるに決まってる。あんま気にすんな」
自分が彼女のことを責めて苦しめたような気分になり、ジェシスはどぎまぎした。
「えーと、ひとまず仕事は終わったし、腹減ったよな……。そろそろ飯食おう、飯!」
やや不自然に明るい声を張り上げると、周囲をきょろきょろ見回す。
繁華街に立ち並ぶ飲食店や屋台からは、えも言われぬ香りが漂ってきていた。
腹が減っていることは事実なので、食欲をそそられずにはいられない。
辺りには、すでに夕闇が降りている。ちょうど夕飯時だ。
「さて、何を食おうか……。俺はこの国の食いもんのことはさっぱりだが、それ以前に、注文するとき言葉が通じるかどうか不安だ。頼りにしてっからな、ソフィシエ」
少女は彼に呆れたような目を向けたが、それだけだった。
「おまえは何が食いたい? シュリたちが言うには、島だけに海産物が新鮮らしいが」
「何でも、いいわ……」
ソフィシエは、やはり気のない返事をした。
腹のほうはともかく、ジェシスの胸の内は鉛を詰めたかのように重苦しかった。
しかし、どうにか気を取り直して、彼は手頃な店を探し始めた。
それから一時間後。
『月亮飯店』と看板を掲げた一軒の店に、二人の姿はあった。
大通りからは離れた場所なので、喧噪も遠く、割と落ち着いた雰囲気で食事ができる。
店のすぐ隣の庭には小さな池があり、水面に映る丸い月が窓越しに見えていた。
「あー、マジで美味かった! さすがに評判になるだけのことはあるよな……」
満腹になったジェシスは、天華料理の味に大いに満足していた。
もちろん、この国の料理は初体験で、口にする前は全く異なる文化の味付けが不安でもあった。だが、一口食べた途端に、箸――使い慣れるまでには少しばかり苦労した
――が止まらなくなってしまったのだ。
(あいつらが食い過ぎて太っちまうのも、わかる気がするな……)
ジェシスはメニューをろくに読めず、ソフィシエはまともに見ようとしなかったので、適当に注文した料理だったが……そのどれもが美味だった。
揚げ物、炒め物、蒸し物、スープにデザートと、ジャンルはバラエティに富んでいる。
魚介類がメインで、油がふんだんに使用されているようなのに、しつこくない。
豪勢な食材を使っているのに、盛り付けなどは気取った感じがせず、割と大雑把だ。
そういったところも、天華のお国柄なのだろうか……?
実はジェシスは、男にしては食べる量が少ないほうなのだが、今晩彼の前に並べられた多くの皿は、あらかた空になっていた。
しかし――
「ソフィシエ、おまえ、少しでいいから食えよ?」
「ちゃんと食べてるわ……」
本人はそう言うものの、ソフィシエの目の前の料理は、その大半が運ばれてきたときの姿を保ったままだ。
卵入りの野菜スープなどは飲みやすいはずだが、それにもほとんど口をつけていない。
好みに合わないと言うより、おそらく――食べたくても喉を通らないのだろう。
「……噂通り、とても美味しいわよね。でも、あまり食欲がないの……」
ジェシスの推測を裏付ける台詞を、ソフィシエが呟いた。
ここ半月の間、彼女はずっとこうだ。
以前は、その小柄な身体に似つかわしくないほどの量を食べていたものだが、急に食が細くなってしまった。つまりソフィシエは、しっかり食事をとることもなく、過酷という表現が生温いような訓練に励んでいたのである。
どう考えても、それでは衰弱しないほうがおかしい。
しかも、訓練を中断して、船上で五日間過ごしたにもかかわらず、彼女の消耗ぶりには回復の兆しがない。
その一因が、体力を取り戻すのに必要な栄養を摂取していないことであるのは明白だ。
「少々は無理してでも食べないと……おまえ、死ぬぞ」
ジェシスが低く脅しつけるように言うと、ソフィシエは声もなく笑った。
「その冗談は、いくら何でも、おおげさすぎるわ」
「馬鹿言え! おおげさなもんか。いっぺん、その青白い面を鏡に映して、じっくり見てみやがれ」
「失礼ね! 自分の顔なら毎日鏡で見てるけど、優美かつ可憐なだけで、別に死相なんか出てないわよ。それより、ジェシス……」
詰め寄る彼をさらりといなすと、ソフィシエはさっさと話題を切り替えた。
「明日、北大陸行きの定期船は何時に出航するか、あなた確認した?」
「明日の定期船? さあ何時だったか……っておまえ! まさか明日帰るつもりか!?」
「まさか、って……何驚いてるのよ。仕事は終わったんだから、可及的速やかに帰還するのは当然じゃない」
「まあ、そりゃそうだがな……。俺たちは長いこと海の上を旅してきて、今日やっと陸地に着いたんだぞ。明日とんぼ返りするってのは、さすがに性急すぎるかと……」
ソフィシエの言い分は一般論において限りなく正論であるため、ジェシスはうまく反論できない。通常の任務なら、まさしく彼女の言う通りにすべきなのだ。
しかし、今回の任務の真の目的は、異国への旅行という手段で彼女を休養させること。
その目的は、いまだ達成されていない。このまま帰れば、任務失敗は決定的だ。
「ジェシス、ひょっとしてあなたまで、シュリやキアラに毒されちゃったの? 厳密には本部に帰るまで任務中なのに、サボって観光したいとか? それこそ、まさかだわ」
「いや、そんなこたないが、でもなぁ……」
口ごもる彼に、ソフィシエは冷ややかな視線を投げ掛けた。
「あなたがそう望むのなら、何日でもこの島にいればいいわ。彼女たちと同じく、きっと退屈はしないわよ。ただし、どうなっても知らないから……!」
強い口調で言い放つと、彼女は席を立った。
「わたしは、独りでも明日、船に乗って帰るわ。後は勝手にして」
「おい、こら、ソフィシエ!」
自分に背を向けた少女を、ジェシスが呼び止めようとした、その次の瞬間――
立ち眩みでも起こしたのか、彼女は不意によろめいた。
そして間の悪いことに、彼女の身体が倒れ込んだ方向には、別の人間がいた。
盆の上に料理を盛った皿を載せて運んでいる最中の、若い娘が。
「あ……!」
『危ない!』と叫ぶ間もあらばこそ。
店の給仕係の一人らしきその娘と、ソフィシエは、見事に衝突していた。
「H呀……!?」
突然のことに、驚いた給仕娘が悲鳴を上げる。
傾いた盆から皿が滑り落ち、床に膝を突いたソフィシエの上に逆さまに落下した。
必然的結果として、彼女の髪や服は、零れた料理――小海老を真っ赤な辛いソースで煮込んだもの――でベトベトになった。
見たところ、火傷するほど熱くはなかったようだ。普通なら、こんな光景は、ただただ間抜けに見えるだけだろう。
だが、紅い液体に塗れた彼女の姿は、例の通り名を彷彿とさせ、ジェシスは一瞬ドキリとした。
「J呀、対不起!」
給仕娘は謝罪の言葉を発して、ソフィシエに頭を下げる。
それから早口で何やら言い始めたが、ジェシスには全くもって意味がつかめなかった。
当のソフィシエは、料理を頭からかぶったショックのせいか、呆然としている。
仕方なく、ジェシスは、たどたどしいながらも天華語で娘に話し掛けた。
「請C再説一遍。C説得非常快。我是北大陸人。会是会、我説天語説得不太好」
すると、どうにか通じたようで、相手ははっとした表情になった。
「哦、C是外国人! 没関系、我会説C説的外国語」
そう言ってから、給仕娘は改めて申し訳なさそうに口を開いた。
「……すみません! 異国からのお客様でしたか。お二人とも黒髪でいらっしゃるので、すぐには思い至りませんでした。失礼いたしました!」
娘の口から滑り出たのは、紛れもなく北大陸言語だった。
「へえ、ずいぶん流暢なんだな。たいしたもんだ」
ジェシスが感心すると、相手は、はにかんだ微笑みを見せた。
「謝謝。この島には、外国人のお客様が数多くいらっしゃいます。ですので、おもてなしするために、一生懸命勉強……」
と、ここで娘は、はたと口を噤んだ。床にうずくまったままのソフィシエに目を向け、みるみるうちに真顔になる。
「すっ、すみません! 悠長にしている場合ではないのに、私ったら……! すぐに、お着替えをご用意いたしますので、どうぞこちらへいらしてください」
そのとき、ようやく我に返ったのか、ソフィシエがゆっくりと立ち上がった。
身体にうまく力が入らないらしく、少しふらついている。
「大丈夫ですか!?」
給仕娘は、華奢な少女を両腕で支えると、その顔を心配そうに覗き込んだ。
「……!?」
刹那、娘の両目が、限界まで大きく見開かれた。
「……? どうしたんだ!?」
急に表情を強張らせた相手に、ジェシスは反射的に問い掛ける。
「い、いえ……お顔の色があまりに優れないので、びっくりしてしまって……。何か体調を崩されているのではありませんか? それなら、遠慮なくおっしゃってください」
気のせいか、尋ねる娘自身の顔色も、どこか青ざめて見えた。
ソフィシエは、自分の身体に添えられた腕から離れて、自力で歩き出そうとした。
「わたしは、別にどこも悪くないの。気にしないで、放っておいて……。あなたの服まで、汚れちゃうわよ」
「そういうわけにはまいりません! とにかく、お連れ様も一緒に、奥のほうへいらしてください。入浴場もありますので、まずはそちらへ……」
給仕娘の強引な案内には抗えず、ソフィシエは背中を押されるままに、店の奥へと連行されていった。
こうなっては、ジェシスも黙ってその後について行くしかなかった。
ソフィシエが湯を浴びている間、ジェシスは別の部屋に通されて待たされていた。
飲食店の奥に浴室があるというのは妙に思えたが……よく考えてみれば、『飯店』とは、もともと天華語で『ホテル』を指す。
ここ『月亮飯店』も、島を訪れた観光客を泊めるための宿なのだろう。
外からこの店を見たとき、単なる食堂にしてはやけに立派な建物だという印象は受けていた。一階は外部に開放された飲食店で、上の階が客室になっているというのは、どこの国でもよくあるスタイルだ。
(そう言えば、今晩どこに泊まるか決めてなかったな……)
もし部屋が空いていれば、ここに宿を取るのもいいかもしれない。
外観や内装の高級感からして、宿泊施設としてのグレードは高そうだ。しかし、費用についての懸念は無用だった。
PSBに所属するエージェントたちには、雇い主たる母国から莫大な金額が支給されている。年齢や性別には関係なく、こなす仕事の内容によって報酬の量は変化する。
シュリやキアラが思うさま贅沢な生活を送れたのは、彼女たちがそれだけ金持ちだからだ。
ちなみに、実行部員たるソフィシエやジェシスの給料は、シュリたちのそれの何倍にもなる。それは肉体の損傷や精神の磨耗や、あるいは生命そのものに対する代価だった。
(こんなときくらいしか、金使う機会もねえしな……。あー、しかし一応任務なんだから自腹は切らなくていいのか……?)
つらつらとそんなことを考えているうちに、部屋の扉が開き、給仕娘が入ってきた。
その背後から、湯上りのソフィシエが姿を現す。
すっかり汚れを落とした身体に纏っているのは、天華風の、ゆったりした部屋着だ。
おぼつかない足取りながらも、独りで立って、こちらに歩いてくる。
ジェシスは彼女が入浴中に倒れたりしないか危惧していたのだが、辛うじて無事だったようだ。
どんなに身を案じていても、男である自分は風呂には付き合えない。かと言って、給仕娘に付き添いを頼むわけにもいかないのが辛いところだった。
実際のところ、相手は親切にも、それを申し出てくれたのだ。けれども、ソフィシエとジェシスは二人して丁重に断った。
実行部員などやっていると、他人には肌をさらしたくなくなるものだ。一般的な感覚で見て気持ちのいいものではないし、一目で特殊な職業に就いていることがバレてしまう。
「お待たせ、ジェシス……」
やや張りのない声で言うと、ソフィシエは空いている長椅子の背に寄り掛かった。
頬にほんのり赤みが差して、血色は良くなっている。しかし、これは入浴の効果による一時的な現象だろう。気休めでしかない。
「服まで貸してくれて、どうもありがとう。ええと……」
お礼の途中で詰まったソフィシエに、給仕娘は応じて答えた。
「申し遅れました。私は李春明。この飯店の経営者の孫で、ときどきさっきのように店の手伝いをしてます。このたびは、ご迷惑をお掛けして、本当にごめんなさい」
春明と名乗った娘は、年の頃は十代後半、天華の国民の典型的容貌である黒髪黒目だ。
髪は頭の高い位置で小さく二つにまとめ、いわゆる『おだんご』にしている。
目元が涼やかな美人でありながら、柔和で気さくな雰囲気が感じられた。これまでの挙動から判断すると、生真面目な性格だが、ややマイペースな一面もありそうだ。
「春明、か……。あんた、そう何度も謝ることなんかねえよ。そもそもぶつかったのは、俺の連れのほうだ」
「ええ、そうよ……。謝るのはわたしのほうだわ」
ジェシスの言葉にソフィシエも同意したが、春明は首を横に振った。
「いいえ、そんなことはありません。あれは私のせいです。私の不注意が原因で、お客様の服を台無しにしてしまって……。どうか弁償させてください。そうでないと、私の気が済みません」
「でも、そこまでしてもらう必要は……」
ソフィシエが辞退しようとするのを遮って、春明は真剣な顔で言う。
「ですから、それだと私の気が済まないんです。それに、お見受けしたところ、お客様は大層お疲れのご様子。今夜の宿はお決まりですか? もしよろしければ、うちにお泊りになってください。お詫びの気持ちも兼ねて、無料でお部屋を提供させていただきます」
ソフィシエとジェシスは顔を見合わせた。
「ねえ、どうする……?」
「おまえがいいってんなら、俺に異存はねえ。これから宿を探すのも面倒だからな。明日独りで帰るにしても、今夜眠る場所はないと困るだろ?」
無論、ジェシスはソフィシエを独りで帰すつもりなどない。だが、先刻の彼女の物言いに少々腹を立てていた彼は、敢えて棘のある返事をした。
すると、予想だにしなかったことに、少女は――痛そうな顔をした。
ジェシスは内心、途方もない後悔に襲われたが、それを表に出すことはしなかった。
二人の間の微妙な空気に気づいたのか、春明が躊躇いがちに切り出した。
「あ、あの、ええと……私の祖父は、少しばかり天華流医学の知識があるんです。それで、疲労を和らげる効能のある薬湯の作り方なども知ってます。うちにいらっしゃれば、そうしたものもお出しできるんですが……」
「……そうね……。せっかくだから、好意に甘えさせてもらうことにするわ」
ついにソフィシエは頷いて、春明の提案を受け入れた。
おだんご頭の娘は、ぱっと表情を輝かせた。
「ぜひ、そうしてください! では、ただちにお部屋の準備をいたしますね。ほんの少々こちらでお待ちください」
そう言うやいなや、春明は部屋を飛び出していった。ところが、彼女は思いのほか早くジェシスたちのところに戻ってきた。
「……申し訳ありません。ただいま確認したところ、あいにく今夜はご宿泊のお客様が多くて、お部屋は一部屋しか空いてないようなんです。どういたしましょう? 不躾で恐縮ですが、お二人のご関係は……?」
年若い少年と、それよりさらに幼い少女の二人連れを、『男と女』として扱う人間はそうそういないだろう。だが、春明は律儀に尋ねてきた。
「ジェシスはわたしの従兄よ。わたしが母国で通っている学校は、今ちょうど休みなの。でも、両親は忙しいから構ってもくれなくて……。がっかりしてたら、彼が代わりに旅行に誘ってくれたの」
ソフィシエは動揺のかけらさえ見せずに、堂々と嘘偽りを述べた。
もっとも、彼女が口にした台詞は、この場しのぎの出任せではなかった。事前に二人で打ち合わせて決めてあった内容に、忠実に従ったまでだ。
コンビで行動する際には、いつ誰に問われても怪しまれないように、綿密な架空の関係を設定しておくのが常識である。
友人、恋人、兄弟、夫婦など、でっち上げるのは自由だ。しかし、それが二人の外見に適合していなければ、かえって不審がられてしまう。また、行動面でも自然にそれらしく振舞えるのが理想だが、そうでもない場合は各自の演技力が試されることになる。
こうした場合において、ジェシスはヘボ役者もいいところなので、関係の設定には頭を悩ませた。本来は恐ろしいまでの演技達者であるソフィシエも、現在の不安定な精神状態では、完璧な仮面をかぶることなど不可能と思われた。
それで結局、二人の関係は、従兄妹同士という無難な線に落ち着いたのだった。
実の兄妹ということにしてもよかったが、ジェシスとソフィシエは同じ黒髪でも瞳の色が違う。それに、面差しは似ても似つかないため、やはり従兄妹が妥当だった。
「ジェシスは従兄だけど、お互い家が近所だし、小さな頃から一緒に過ごしてきて、実の兄妹も同然に育ったわ。今回は、わたしが勉強をがんばってるごほうびにって、ちょっと無理してまで外国に連れてきてくれたの。わたしの自慢の、優しいお兄ちゃんよ」
「まあ、大事な妹のためだからな……」
極力ぎこちなさが出ないように、ジェシスは短く話を合わせた。
春明は納得したのか、安心したように微笑む。
「そうでしたか。関係のない話ですけど、実は私にも、そういう従兄がいるんですよ。今は同じ国内でも離れた場所で暮らしてますが、昔はいつでも一緒に過ごしてました……」
ひどく懐かしげな口調で呟く。その表情は、どこか翳りがあるようにも見えたが、娘はすぐに自分の仕事に立ち返った。
「ええと、それなら、お部屋は同じでよろしいですね?」
「ええ、もちろん」
春明からの確認に、ソフィシエは即答した。
「では、すぐにもお部屋にご案内いたします。つきましては、お客様のお名前を……」
「わたしの名前はソフィシエ・シェスタ。彼はジェシス・エイムズよ」
「シェスタ様に、エイムズ様ですね。承りました。お部屋は一番上の三階になります」
部屋の扉を開けて、先導しようとした春明を、ソフィシエが不意に呼び止めた。
「あの、李春明さん、だったわよね……?」
「はい? 何でしょうか? ご用がありましたら、何なりとお申し付けください」
春明は足を止めて、後ろを振り返る。
「いいえ、そうじゃなくて。わたしたちは確かに、あなたにとって客かもしれないけど、できればそこまで畏まった喋り方は止めてほしいの。何となく、疲れるから」
「は、はあ……」
春明には意外な要求だったのか、やや戸惑った面持ちになる。
「わたしのことは、敬称略で、名前で呼んでくれていいわ。あなたより年下なんだし……ね。『シェスタ様』なんて呼ばれると、落ち着かなくて」
「……俺も同感だ。もっと気楽に喋ってもらえるとありがたいな」
ジェシスも大きく頷いて同意を示した。
春明は、少しの間沈黙していたものの、やがて満面の笑みを浮かべながら頷いた。
「わかりました。じゃあ、そうすることにします。でもソフィシエ、どうか私のことも、気安く『春明』って呼んでください!」