シ ウ   シ   イー   シャ
題字

―シャドウ・ジハード特別編―

2. (オウ)(ラン)(ユィ)(シャン)  真紅に(いろど)られた出会い

 あー、もう、あいつらの能天気さには(あき)れるしかねえよな。ソフィシエ、この際おまえは、あの二人の絶妙な脱力加減を見習ってみろ」 
 ………………………………」
  午過ぎに港に着いた定期船を降り、天華島に上陸してから約半日後。
  駐諜報員たちとの接触を無事に済ませたジェシスとソフィシエは、島の繁華街の通りを歩いていた。 
  れで一応、命じられた任務の目的は達成したことになる。
  ュリとキアラの二人には、当初の予想以上に簡単に会うことができた。
 前もって教えられた滞在場所を訪ねるまでもなく、道の()んなかで、ばったりと出くわしたのである。 
 本来の行先(いきさき)に向かう途中、偶然通った、やたら高級そうな店ばかりが立ち並ぶ商店街。 
 そこで山ほど荷物を(かか)えて歩く見知った顔を発見したのは、ジェシスだった。
 彼とソフィシエは、とりあえず人目を避けるため少女たちの仮住(かりずま)いに案内してもらい、それから二人に、定期報告を(おこた)った理由を問い(ただ)した。  
 すると――(あん)(じょう)の答えが返ってきた。
 アハハ、ごめーん。いろいろ忙しくって、つい忘れてた☆』
  、開き直って言い放ったのはシュリ。
 すみません……。この島はあまりに楽し……いえ、平和なので、報告するようなことも特になく、 んだんと面倒……ではなく、だんだんと経費がかさんできたものですから、せめて報告書に使用する紙だけでも節約しようとしてですね……』  
 などと、(わけ)のわからない言い訳を始めたのはキアラ。
  らに――調書に記録するため、彼女たちの島での生活ぶりについて、詳しい話を聞き出したのだが…… の結果判明したのは、二人が明らかにサボっていたという事実だけであった。 
  うやらシュリたちは、世界有数の観光地である天華の魅力に取りつかれ、仕事そっちのけで豪遊(ごうゆう)していたらしい。
 彼女たちの部屋には、店で買い(あさ)ったと(おぼ)しき華美な衣服やら装飾品やらが山と積まれていた。 らに、連日の美食のツケが回ったのか、二人とも三ヶ月でずいぶんふくよか(・・・・)になっていた。 
 と、いうわけで、口で言い逃れようとしても説得力は(かい)()。うるさい上官の監視の目が届かない出張地(パラダイス)で、二人して自由を(おう)()していたのは間違いない。
  かし、さしもの彼女たちも、自分たちを注意するために人員が派遣されたとあって、それなりに反省はしたようだ。 
 本部がわざわざ実行部から人員を()いたと知ったときには、動揺を隠さなかった。
 しかも、やって来たのは、よりによって――悪名高き『血塗れの乙女(ブラッディ・メイデン)』ソフィシエと、『こわい顔』……もとい、『冷酷無比なる抹消者たち(パーフェクト・イレイザーズ)』の片割れ、ジェシス。
 恐縮(きょうしゅく)はしても、必要以上に取り乱さないだけ、二人は度胸が()わっていると言えた。
  ェシスにも、自分が他人からどういうイメージで見られているかの自覚くらいある。 
 所属する組織内でも、()(やみ)に恐れないで接してくれるのは、一定の交流がある数少ない人間のみなのだ。 
  回会うことになった情報部員の少女たちは、そうした相手だった。
 けれども結局、最後には、シュリもキアラも半泣き状態に(おちい)ってしまった。
 ソフィシエが、静かな、しかし(そこ)()えのする口調と態度で、容赦ない叱責(しっせき)延々(えんえん)と繰り返したからである。 
 機械のように説教を続ける幼顔(おさながお)の少女。それを受けてひたすら謝る年長の少女たち。 
  のまま放っておくと、どちらも壊れてしまいそうな気がした。
  ので、ジェシスはキリのいい頃合(ころあい)見計(みはから)い、横からソフィシエの腕を引っつかんだ。
  してそのまま強引に彼女を引き()って、シュリたちの部屋を後にしたのだった……。
 まったくとんでもないふしだら娘(・・・・・)どもだが、あいつらも十分に反省したようだし、これからは報告書も真面目(まじめ)に書くだろう。とにかく、何事もなく元気にしてることがわかって(ひと)安心じゃねえか、な?」 
 ………………………………」
  刻から、連れ立って通りを歩きながら、ジェシスはソフィシエに話し掛けている。
  が、彼女からは反応がない。全くの無言で、ただ前を向いたまま歩き続けるだけだ。
  ェシスは、今日何度目になるか知れない、重い溜め息を漏らした。
 そりゃあ、仕事熱心なおまえが怒りを覚えるのはわかる。だがな、あいつらだって普段は(いのち)()けの任務に()くことが多いんだ。今回は、こういう場所柄で、つい開放的な気分になって羽目(はめ)を外しちまったんだよ。大目に見てやれ……」
 ソフィシエの前で土下座(どげざ)する少女たちの顔を思い出し、(あらた)めて同情を(もよお)す。
  ュリたちは気の毒だった。
  ちろん、自業自得だと言えばそれまでだが、それ以上に不運だった。
  況視察に派遣されたうちの一人がソフィシエでさえなかったら、あんなふうに身体の(しん)(こご)えるような気配にさらされることはなかっただろうに。
 おい、ソフィシエ! 何か返事しろよ」
  や語気を強めて言うと、ようやく彼女は口を開いた。
 ごめん、なさい……。わたし、もう怒ってなんかないわ。彼女たちについては、絶対に許せない部分もあるけど、()(じょう)にきつく言い過ぎたって後悔してる……」 
 ………………………………」
  外に素直な言葉に、今度はジェシスのほうが反応に困って沈黙した。
 そもそも、わたしは部外者で……単なる実行部員の一人に過ぎなくて、彼女たちの上官でも何でもないのにね」 
 ソフィシエは、うっすらと自嘲(じちょう)的な微笑(びしょう)を浮かべた。
 さっきのわたしは、おかしかった……。おかしかったの……。自分の心の中に際限なく湧き上がってくる、無意味な(いら)()たしさを制御できなくて。あれじゃ、まるで()つ当たりだわ。シュリやキアラを、不当に深く傷つけた……。ほんとに最低ね」 
 おまえ……」
 ジェシスは、愕然(がくぜん)として目を見張った。
  かにおかしい。
 こんなふうに自分のことを卑下(ひげ)するのは、いつものソフィシエではない。 
 ま、まあ、その話はもう済んだことだしな。あいつらは神経()(ぶと)いほうだから、明日(あした)になればケロッとしてるに決まってる。あんま気にすんな」 
 自分が彼女のことを責めて苦しめたような気分になり、ジェシスはどぎまぎ(・・・・)した。
 えーと、ひとまず仕事は終わったし、腹減ったよな……。そろそろ(めし)食おう、飯!」 
  や不自然に明るい声を張り上げると、周囲をきょろきょろ見回す。
 繁華街に立ち並ぶ飲食店や屋台からは、えも言われぬ香りが(ただよ)ってきていた。 
  が減っていることは事実なので、食欲をそそられずにはいられない。
 (あた)りには、すでに夕闇(ゆうやみ)が降りている。ちょうど夕飯(ゆうはん)(どき)だ。
 さて、何を食おうか……。俺はこの国の食いもんのことはさっぱりだが、それ以前に、注文するとき言葉が通じるかどうか不安だ。 りにしてっからな、ソフィシエ」
  女は彼に呆れたような目を向けたが、それだけだった。
 おまえは何が食いたい? シュリたちが言うには、島だけに海産物が新鮮らしいが」
 何でも、いいわ……」
  フィシエは、やはり気のない返事をした。
 腹のほうはともかく、ジェシスの胸の内は(なまり)を詰めたかのように重苦(おもくる)しかった。
  かし、どうにか気を取り直して、彼は手頃な店を探し始めた。


 それから一時間後。
(ユエ)(リャン)(ファン)(ディエン)』と看板を(かか)げた一軒の店に、二人の姿はあった。
 大通りからは離れた場所なので、喧噪(けんそう)も遠く、割と落ち着いた雰囲気で食事ができる。 
 店のすぐ隣の庭には小さな池があり、水面(みなも)に映る丸い月が窓越しに見えていた。
「あー、マジで美味(うま)かった! さすがに評判になるだけのことはあるよな……」
  腹になったジェシスは、天華料理の味に大いに満足していた。
  ちろん、この国の料理は初体験で、口にする前は全く異なる文化の味付けが不安でもあった。だが、一口食べた途端に、(はし)――使い慣れるまでには少しばかり苦労した
――が止まらなくなってしまったのだ。 
あいつら(シュリとキアラ)が食い過ぎて太っちまうのも、わかる気がするな……)
  ェシスはメニューをろくに読めず、ソフィシエはまともに見ようとしなかったので、適当に注文した料理だったが……そのどれもが美味(びみ)だった。 
 揚げ物、(いた)め物、蒸し物、スープにデザートと、ジャンルはバラエティに富んでいる。
  介類がメインで、油がふんだんに使用されているようなのに、しつこくない。
 豪勢(ごうせい)な食材を使っているのに、盛り付けなどは気取(きど)った感じがせず、割と(おお)雑把(ざっぱ)だ。 
  ういったところも、天華のお国柄なのだろうか……? 
  はジェシスは、男にしては食べる量が少ないほうなのだが、今晩彼の前に並べられた多くの皿は、あらかた(から)になっていた。 
  かし――  
 ソフィシエ、おまえ、少しでいいから食えよ?」 
 ちゃんと食べてるわ……」
  人はそう言うものの、ソフィシエの目の前の料理は、その大半が運ばれてきたときの姿を保ったままだ。 
  入りの野菜スープなどは飲みやすいはずだが、それにもほとんど口をつけていない。 
 好みに合わないと言うより、おそらく――食べたくても(のど)を通らないのだろう。
「……(うわさ)通り、とても美味(おい)しいわよね。でも、あまり食欲がないの……」
 ジェシスの推測を裏付ける台詞(せりふ)を、ソフィシエが(つぶや)いた。 
 ここ半月(はんつき)の間、彼女はずっとこうだ。
  前は、その小柄な身体に似つかわしくないほどの量を食べていたものだが、急に食が細くなってしまった。 まりソフィシエは、しっかり食事をとることもなく、過酷という表現が(なま)(ぬる)いような訓練に(はげ)んでいたのである。
  う考えても、それでは衰弱しないほうがおかしい。
 しかも、訓練を中断して、船上で五日間過ごしたにもかかわらず、彼女の消耗(しょうもう)ぶりには回復の(きざ)しがない。
 その一因が、体力を取り戻すのに必要な栄養を摂取(せっしゅ)していないことであるのは明白だ。 
 少々は無理してでも食べないと……おまえ、死ぬぞ」
 ジェシスが低く(おど)しつけるように言うと、ソフィシエは声もなく笑った。
 その冗談は、いくら何でも、おおげさすぎるわ」
「馬鹿言え! おおげさなもんか。いっぺん、その青白い(ツラ)を鏡に映して、じっくり見てみやがれ」 
「失礼ね! 自分の顔なら毎日鏡で見てるけど、優美かつ()(れん)なだけで、別に死相なんか出てないわよ。それより、ジェシス…… 
 詰め寄る彼をさらりといなす(・・・)と、ソフィシエはさっさと話題を切り替えた。
「明 日、北大陸行きの定期船は(なん)()に出航するか、あなた確認した?」 
 明日の定期船? さあ何時だったか……っておまえ! まさか明日帰るつもりか!?」
「まさか、って……何驚いてるのよ。仕事は終わったんだから、可及(かきゅう)(すみ)やかに帰還するのは当然じゃない」 
 まあ、そりゃそうだがな……。俺たちは長いこと海の上を旅してきて、今日やっと陸地に着いたんだぞ。明日とんぼ返りするってのは、さすがに性急すぎるかと……」 
  フィシエの言い分は一般論において限りなく正論であるため、ジェシスはうまく反論できない。通常の任務なら、まさしく彼女の言う通りにすべきなのだ。 
  かし、今回の任務の真の目的は、異国への旅行という手段で彼女を休養させること。 
  の目的は、いまだ達成されていない。このまま帰れば、任務失敗は決定的だ。
 ジェシス、ひょっとしてあなたまで、シュリやキアラに毒されちゃったの? 厳密には本部に帰るまで任務中なのに、サボって観光したいとか? それこそ、まさかだわ」 
 いや、そんなこたないが、でもなぁ……」
 口ごもる彼に、ソフィシエは()ややかな視線を投げ掛けた。
 あなたがそう望むのなら、何日でもこの島にいればいいわ。彼女たちと同じく、きっと退屈はしないわよ。ただし、どうなっても知らないから……!」 
 強い口調で言い(はな)つと、彼女は席を立った。
「わたしは、(ひと)りでも明日、船に乗って帰るわ。(あと)は勝手にして」
 おい、こら、ソフィシエ!」
  分に背を向けた少女を、ジェシスが呼び止めようとした、その次の瞬間――
 立ち(くら)みでも起こしたのか、彼女は不意によろめいた。
 そして()の悪いことに、彼女の身体(からだ)が倒れ込んだ方向には、別の人間がいた。 
 (ぼん)の上に料理を盛った皿を載せて運んでいる最中(さいちゅう)の、若い娘が。
 あ……!」   
 危ない!』と叫ぶ間もあらばこそ。
 店の(きゅう)()係の一人らしきその娘と、ソフィシエは、見事に衝突していた。
H(アイ)()……!?」
  然のことに、驚いた給仕娘が悲鳴を上げる。
 (かたむ)いた盆から皿が(すべ)り落ち、床に(ひざ)を突いたソフィシエの上に(さか)さまに落下した。
 必然的結果として、彼女の髪や服は、(こぼ)れた料理――小海老を真っ赤な(から)いソースで煮込んだもの――でベトベトになった。 
 見たところ、火傷(やけど)するほど熱くはなかったようだ。普通なら、こんな光景は、ただただ間抜(まぬ)けに見えるだけだろう。
 だが、紅い液体に(まみ)れた彼女の姿は、例の通り名を彷彿(ほうふつ)とさせ、ジェシスは一瞬ドキリとした。 
J()()(ドゥイ)()(チー)!」
  仕娘は謝罪の言葉を発して、ソフィシエに頭を下げる。
  れから早口で何やら言い始めたが、ジェシスには全くもって意味がつかめなかった。 
 当のソフィシエは、料理を頭からかぶったショックのせいか、呆然(ぼうぜん)としている。
  方なく、ジェシスは、たどたどしいながらも天華語で娘に話し掛けた。
(チン)C(ニー)(ヅァイ)(シュオ)(イー)(ビェン)C(ニー)(シュオ)()(フェイ)(チャン)(クァイ)(ウォ)(シィ)北大陸人(ベイダールーレン)(フイ)()(フイ)(ウォ)(シュオ)(ティエン)(ユィ)(シュオ)()(ブウ)(タイ)(ハオ)
 すると、どうにか通じたようで、相手ははっ(・・)とした表情になった。
()C(ニー)(シィ)外国人(ワイグオレン)! (メイ)(グァン)()(ウォ)(フイ)(シュオ)C(ニー)(シュオ)()外国語(ワイグオユィ)
  う言ってから、給仕娘は改めて申し訳なさそうに口を開いた。
 ……すみません! 異国からのお客様でしたか。お二人とも黒髪でいらっしゃるので、すぐには思い至りませんでした。失礼いたしました!」 
 娘の口から滑り出たのは、(まぎ)れもなく北大陸言語だった。
「へえ、ずいぶん流暢(りゅうちょう)なんだな。たいしたもんだ」
  ェシスが感心すると、相手は、はにかんだ微笑(ほほえ)みを見せた。
謝謝(シエシエ)。この島には、外国人のお客様が数多くいらっしゃいます。ですので、おもてなしするために、一生懸命勉強……」 
 と、ここで娘は、はたと口を(つぐ)んだ。床にうずくまったままのソフィシエに目を向け、みるみるうちに()(がお)になる。
「すっ、すみません! 悠長(ゆうちょう)にしている場合ではないのに、私ったら……! すぐに、お着替(きが)えをご用意いたしますので、どうぞこちらへいらしてください」 
 そのとき、ようやく(われ)に返ったのか、ソフィシエがゆっくりと立ち上がった。
 身体(からだ)にうまく力が入らないらしく、少しふらついている。
 大丈夫ですか!?」
 給仕娘は、華奢(きゃしゃ)な少女を両腕で支えると、その顔を心配そうに(のぞ)き込んだ。
 ……!?」   
 刹那(せつな)、娘の両目が、限界まで大きく見開かれた。 
 ……? どうしたんだ!?」
 急に表情を強張(こわば)らせた相手に、ジェシスは反射的に問い掛ける。
「い、いえ……お顔の色があまりに(すぐ)れないので、びっくりしてしまって……。何か体調を(くず)されているのではありませんか? それなら、遠慮なくおっしゃってください」 
 気のせいか、(たず)ねる娘自身の顔色も、どこか青ざめて見えた。
 ソフィシエは、自分の身体に()えられた腕から離れて、自力で歩き出そうとした。
 わたしは、別にどこも悪くないの。気にしないで、放っておいて……。あなたの服まで、汚れちゃうわよ」 
 そういうわけにはまいりません! とにかく、お連れ様も一緒に、奥のほうへいらしてください。入浴場もありますので、まずはそちらへ……」 
 給仕娘の強引な案内には(あらが)えず、ソフィシエは背中を押されるままに、店の奥へと連行されていった。 
  うなっては、ジェシスも黙ってその後について行くしかなかった。 


  フィシエが湯を浴びている間、ジェシスは別の部屋に通されて待たされていた。
  食店の奥に浴室があるというのは妙に思えたが……よく考えてみれば、『飯店』とは、もともと天華語で『ホテル』を指す。 
 ここ『月亮飯店』も、島を訪れた観光客を泊めるための宿(やど)なのだろう。
  からこの店を見たとき、単なる食堂にしてはやけに立派な建物だという印象は受けていた。 階は外部に開放された飲食店で、上の階が客室になっているというのは、どこの国でもよくあるスタイルだ。 
 そう言えば、今晩どこに泊まるか決めてなかったな……)
 もし部屋が()いていれば、ここに宿を取るのもいいかもしれない。
  観や内装の高級感からして、宿泊施設としてのグレードは高そうだ。しかし、費用についての()(ねん)は無用だった。
 PSBに所属するエージェントたちには、雇い主たる母国(サーヴェクト)から莫大(ばくだい)な金額が支給されている。年齢や性別には関係なく、 なす仕事の内容によって報酬の量は変化する。
 シュリやキアラが思うさま贅沢(ぜいたく)な生活を送れたのは、彼女たちがそれだけ金持ちだからだ。 
  なみに、実行部員たるソフィシエやジェシスの給料は、シュリたちのそれの何倍にもなる。それは肉体の損傷や精神の()(もう)や、あるいは生命そのものに対する代価だった。 
 こんなときくらいしか、金使う機会もねえしな……。あー、しかし一応任務なんだから()(ばら)は切らなくていいのか……?) 
 つらつらとそんなことを考えているうちに、部屋の(とびら)が開き、給仕娘が入ってきた。
 その背後から、()(あが)りのソフィシエが姿を現す。
 すっかり汚れを落とした身体に(まと)っているのは、天華風の、ゆったりした部屋着だ。
  ぼつかない足取りながらも、独りで立って、こちらに歩いてくる。
 ジェシスは彼女が入浴中に倒れたりしないか危惧(きぐ)していたのだが、(かろ)うじて無事だったようだ。 
 どんなに身を案じていても、男である自分は風呂(ふろ)には付き合えない。かと言って、給仕娘に付き添いを頼むわけにもいかないのが(つら)いところだった。
  際のところ、相手は親切にも、それを申し出てくれたのだ。けれども、ソフィシエとジェシスは二人して丁重(ていちょう)に断った。
  行部員などやっていると、他人には肌をさらしたくなくなるものだ。一般的な感覚で見て気持ちのいいものではないし、一目(ひとめ)で特殊な職業に就いていることがバレてしまう。 
 お待たせ、ジェシス……」 
  や張りのない声で言うと、ソフィシエは空いている長椅子の背に寄り掛かった。
 (ほお)にほんのり赤みが差して、血色(けっしょく)は良くなっている。しかし、これは入浴の効果による一時的な現象だろう。気休めでしかない。 
 服まで貸してくれて、どうもありがとう。ええと……」
 お(れい)の途中で詰まったソフィシエに、給仕娘は応じて答えた。
「申し遅れました。私は()(チュン)(ミン)。この(ファン)(ディエン)の経営者の孫で、ときどきさっきのように店の手伝いをしてます。このたびは、ご迷惑をお掛けして、本当にごめんなさい」 
 春明(チュンミン)と名乗った娘は、年の頃は十代後半、天華の国民の典型的容貌である黒髪黒目だ。 
  は頭の高い位置で小さく二つにまとめ、いわゆる『おだんご』にしている。
 目元が(すず)やかな美人でありながら、(にゅう)()で気さくな雰囲気が感じられた。これまでの挙動から判断すると、生真面目(きまじめ)な性格だが、ややマイペースな一面もありそうだ。
 春明、か……。あんた、そう何度も謝ることなんかねえよ。そもそもぶつかったのは、俺の連れのほうだ」 
 ええ、そうよ……。謝るのはわたしのほうだわ」
  ェシスの言葉にソフィシエも同意したが、春明は首を横に振った。
 いいえ、そんなことはありません。あれは私のせいです。私の不注意が原因で、お客様の服を(だい)()しにしてしまって……。どうか弁償(べんしょう)させてください。そうでないと、私の気が済みません」  
 でも、そこまでしてもらう必要は……」
 ソフィシエが辞退しようとするのを(さえぎ)って、春明は真剣な顔で言う。
 ですから、それだと私の気が済まないんです。それに、お見受けしたところ、お客様は大層(たいそう)お疲れのご様子。今夜の宿はお決まりですか? もしよろしければ、うちにお泊りになってください。お()びの気持ちも兼ねて、無料でお部屋を提供させていただきます」 
  フィシエとジェシスは顔を見合わせた。
 ねえ、どうする……?」
 おまえがいいってんなら、俺に異存はねえ。これから宿を探すのも面倒だからな。明日独りで帰るにしても、今夜眠る場所はないと困るだろ?」 
  論、ジェシスはソフィシエを独りで帰すつもりなどない。だが、先刻の彼女の物言いに少々腹を立てていた彼は、()えて(とげ)のある返事をした。
  ると、予想だにしなかったことに、少女は――痛そうな顔をした。 
 ジェシスは内心、()(ほう)もない後悔に襲われたが、それを表に出すことはしなかった。
 二人の間の微妙な空気に気づいたのか、春明が躊躇(ためら)いがちに切り出した。
 あ、あの、ええと……私の祖父は、少しばかり天華流医学の知識があるんです。それで、疲労を(やわ)らげる効能のある薬湯(やくとう)の作り方なども知ってます。うちにいらっしゃれば、そうしたものもお出しできるんですが…… 
 ……そうね……。せっかくだから、好意に甘えさせてもらうことにするわ」
 ついにソフィシエは(うなず)いて、春明の提案を受け入れた。
  だんご頭の娘は、ぱっと表情を輝かせた。
 ぜひ、そうしてください! では、ただちにお部屋の準備をいたしますね。ほんの少々こちらでお待ちください」 
  う言うやいなや、春明は部屋を飛び出していった。ところが、彼女は思いのほか早くジェシスたちのところに戻ってきた。 
 ……申し訳ありません。ただいま確認したところ、あいにく今夜はご宿泊のお客様が多くて、お部屋は一部屋しか空いてないようなんです。どういたしましょう? ()(しつけ)で恐縮ですが、お二人のご関係は……?」 
  若い少年と、それよりさらに幼い少女の二人連れを、『男と女』として扱う人間はそうそういないだろう。だが、春明は(りち)()に尋ねてきた。
 ジェシスはわたしの従兄(いとこ)よ。わたしが母国で通っている学校は、今ちょうど休みなの。でも、両親は忙しいから(かま)ってもくれなくて……。がっかりしてたら、彼が代わりに旅行に(さそ)ってくれたの」
 ソフィシエは動揺(どうよう)のかけらさえ見せずに、堂々と(うそ)(いつわ)りを述べた。
 もっとも、彼女が口にした台詞は、この場しのぎの()(まか)せではなかった。事前に二人で打ち合わせて決めてあった内容に、忠実に従ったまでだ。 
 コンビで行動する際には、いつ誰に問われても(あや)しまれないように、綿密な架空の関係を設定しておくのが常識である。 
 友人、恋人、兄弟、夫婦など、でっち()げるのは自由だ。しかし、それが二人の外見に適合していなければ、かえって()(しん)がられてしまう。また、行動面でも自然にそれらしく振舞(ふるま)えるのが理想だが、そうでもない場合は各自の演技力が試されることになる。
  うした場合において、ジェシスはヘボ役者もいいところなので、関係の設定には頭を悩ませた。本来は恐ろしいまでの演技達者(だっしゃ)であるソフィシエも、現在の不安定な精神状態では、完璧な仮面をかぶることなど不可能と思われた。 
 それで結局、二人の関係は、従兄妹(いとこ)同士という()(なん)な線に落ち着いたのだった。
 実の兄妹(きょうだい)ということにしてもよかったが、ジェシスとソフィシエは同じ黒髪でも瞳の色が違う。それに、(おも)()しは似ても似つかないため、やはり従兄妹(いとこ)()(とう)だった。
 ジェシスは従兄(いとこ)だけど、お互い家が近所だし、小さな頃から一緒に過ごしてきて、実の兄妹も同然に育ったわ。今回は、わたしが勉強をがんばってるごほうび(・・・・)にって、ちょっと無理してまで外国に連れてきてくれたの。わたしの自慢の、優しいお兄ちゃんよ」 
 まあ、大事な妹のためだからな……」
  力ぎこちなさが出ないように、ジェシスは短く話を合わせた。
  明は納得したのか、安心したように微笑む。
「そうでしたか。関係のない話ですけど、実は私にも、そういう従兄(いとこ)がいるんですよ。今は同じ国内でも離れた場所で暮らしてますが、 はいつでも一緒に過ごしてました…… 
 ひどく(なつ)かしげな口調で呟く。その表情は、どこか(かげ)りがあるようにも見えたが、娘はすぐに 自分の仕事に立ち返った。 
 ええと、それなら、お部屋は同じでよろしいですね?」
 ええ、もちろん」
  明からの確認に、ソフィシエは即答した。
 では、すぐにもお部屋にご案内いたします。つきましては、お客様のお名前を…… 
 わたしの名前はソフィシエ・シェスタ。彼はジェシス・エイムズよ」
「シェスタ様に、エイムズ様ですね。(うけたまわ) りました。お部屋は一番上の三階になります」 
  屋の扉を開けて、先導しようとした春明を、ソフィシエが不意に呼び止めた。
「あの、()(チュン)(ミン)さん、だったわよね……?」
 はい? 何でしょうか? ご用がありましたら、何なりとお申し付けください」
  明は足を止めて、後ろを振り返る。
 いいえ、そうじゃなくて。わたしたちは確かに、あなたにとって客かもしれないけど、できればそこまで(かしこ)まった(しゃべ)り方は()めてほしいの。何となく、疲れるから」
 は、はあ……」
 春明には意外な要求だったのか、やや()(まど)った(おも)()ちになる。
 わたしのことは、敬称略で、名前で呼んでくれていいわ。あなたより年下なんだし……ね。『シェスタ様』なんて呼ばれると、落ち着かなくて」 
 ……俺も同感だ。もっと気楽に喋ってもらえるとありがたいな」
  ェシスも大きく(うなず)いて同意を示した。
  明は、少しの間沈黙していたものの、やがて満面の笑みを浮かべながら頷いた。
 わかりました。じゃあ、そうすることにします。でもソフィシエ、どうか私のことも、気安く『春明』って呼んでください!」