1. 到達海島 今度の任務は『有給休暇』
ジェシスは船の甲板で、手摺に両腕を預けて遠くの景色を眺め遣っていた。
母国の港から定期船に乗って、早五日。
途中、天候が乱れて船酔いに悩まされた日もあった。だが、船上で過ごす最終日となる今日は、空は快晴、波も穏やか、絶好の航海日和だ。
爽やかな潮風が、彼の短めに切られた黒髪を乱して吹き過ぎる。
ジェシスの年齢は十七。それなりに端整ではあるが、かなり目つきの鋭い顔立ちをした少年である。
その容貌は、やや荒っぽい言葉遣いと相俟って、必要以上に他人に威圧感を与えてしまいがちだった。彼自身にとっては甚だ不本意なことに、『こわい顔』というのが、仲間内での彼の代名詞のようになっているくらいだ。
そのことを、彼は密かに気にしていたりするのだが……。
とにかく、今このときは、その『こわい顔』も幾分、緩んだ表情を見せていた。
「あー、やっと見えてきた」
飽きるでもなく、ぼんやりと水平線を眺めていたジェシスは、おもむろに呟いた。
紺碧の海の彼方に、島らしき陸地の影を発見したのだ。
「おい、ソフィシエ! こっち来い。天華島が見えたぞ」
「そう……」
ジェシスの呼びかけに対し、甲板奥のベンチに座っている少女は気のない返事をした。
こちらを向きながらも、どこか上の空で、立ち上がろうともしない。
そんな様子を見て、ジェシスはひとつ深い溜め息をついた。
こんなとき、いつものソフィシエなら、言われなくても自ら進んで美しい景色を楽しむはずだ。
しかし、今現在の彼女には、そういった余裕がないのである。
肉体的にも、そして精神的にも……。
ソフィシエの実年齢は十五だ。ところが、外見はそれよりも幼く、せいぜい十二、三歳といったところ。
柔らかく艶やかな黒髪は肩を過ぎる長さで、それを二つに分けて頭の左右で結んだヘアスタイルは、あどけない可愛らしさを強調している。
体つきは華奢、かつ小柄で、肌の色は透き通るように白く、大きな瞳は翡翠色。
名うての職人が作った白磁の人形のごとく、繊細な容貌の少女だった。
特に今のように、憂いを帯びて生気が欠けた表情でベンチに腰掛けていると、その姿はいよいよ人形めいて見える。
「まずいな……。こりゃあ、思ってたより重症かもな」
少女に背を向け、広い海原に向かってジェシスは独り言ちた。
彼とソフィシエの母国は、北大陸の機械大国サーヴェクト。二人とも、そのサーヴェクトが擁する情報危機管理組織、【プリサイス・ストレイ・バレッツ】――略称PSB――に所属するエージェントだ。
今回、天華を二人で訪れるのも、一応は組織の任務なのである。
しかし、その任務の内容は、任務と呼ぶのは仰々しいほど簡単だ。誰がどう見ても、二人の能力に見合うような仕事ではない。
そんな、本来は任されるはずのない仕事を、ジェシスたちが請け負うことになった背景には、ある特殊な事情があるのだった。
発端の発端は、今から約半月前、とある任務においてクレバーが負傷したことだ。
クレバーというのは、ソフィシエの真のパートナーである少年である。
PSBでは、一部の幹部などを除く全ての職員が、基本的に二人一組の単位で行動を共にするよう義務付けられている。どんな仕事でも原則として単独で請け負うことはなく、常に特定のコンビか、複数のコンビを組み合わせたチームでこなしていく。それでPSBの職員たちは、自分のコンビの片割れのことを指して『相棒』と呼ぶのだ。
クレバーが半月前の任務で負った怪我は、命に別状こそなかったものの、かなりの深手だった。
とはいえ、最高難度の仕事ばかり任される彼が、重傷で帰還するのは珍しくもない。
問題なのは、怪我そのものではなく、その怪我を負うまでの経緯だ。
詳細は複雑だが、端的に言うと、クレバーは自分の相棒、つまりはソフィシエを庇って深手を負うことになったらしい。
そのことが、ソフィシエの心に大きな衝撃を与えた。
いや、厳密に言えば、そのことだけではない。
ここ半年ほどの間に、彼女が仕事中にミスを犯し、そのせいでクレバーに何らかの被害が及ぶという出来事が数件起きている。
そうした事態が生じるたびに、ソフィシエはひどく自分を責めているようだった。
そして半月前……相棒が重傷を被るに至って、ついに彼女はキレたのだ。
おそらく――自分自身に対して。
前の任務を終えて帰還したその日から、ソフィシエは狂ったように訓練を始めた。
基礎体力を高めるトレーニングに、実践的な戦闘演習、あらゆる外国語の特訓、さらに苛烈な耐拷問訓練……。
これらは、組織に所属する実行部員なら、誰もが課されている訓練だ。仕事と休暇の時以外は、弛まず取り組まねばならない。
しかし、ソフィシエが行った訓練は、正常なノルマを遥かに上回る量だった。
朝から晩まで過酷な訓練に明け暮れていれば、当然ながら疲労が溜まってくる。
ところが、ソフィシエは自分の体調のことなどお構いなしで、こなす訓練の量と内容を日々エスカレートさせていった。
半ば常軌を逸したような状態の彼女を見かねて、ジェシスを始めとする周囲の人間は、どうにかして休ませようとした。
無論、クレバーも必死になって、ベッドの上から相棒を説得した。
だが、もはやソフィシエは、当の相棒の言葉にすら耳を貸さなくなってしまっていた。
彼女のあまりの衰弱ぶりに、上官である実行部第一課の課長・ジーエンは、状況を重く見た。そして、部下のために特別措置をとる決断を下した。
PSBの組織内法規において、『何らかの任務に就いている間は、原則として訓練は免除される』ことになっている。もっと言うなら、『任務の遂行に支障をきたすほどの訓練は、本末転倒だから行ってはならない』とされている。
ジーエンは、こうした規則を利用した措置を実行することにしたのだ。
クレバーの回復を待たずに、ソフィシエに単独で仕事を与え、日常から切り離す。
そうすることによって、無茶な訓練を抑制し、休養をとらせようという狙いである。
しかし、ここでまたひとつ問題が持ち上がった。
いかに簡単な任務であったとしても、疲れきっている彼女を独りでよそに遣るのは危険すぎる、という問題だ。
かと言って、普段全く付き合いのない人間が一緒に行くのも、いろいろと難がある。
結局、同じ第一課に所属しているジェシスかピアスのどちらかが、ソフィシエと暫定的にコンビを組み、旅の同行者となるように迫られた。
ちなみにピアスとは、ジェシスの真のパートナーである少女だ。
相談の末、最終的にソフィシエの仮パートナーに選ばれたのはジェシスだった。そんなこんなで、彼は現在、少女と船の上にいる。
ソフィシエの相棒であるクレバーは、ジェシスにとっては最も親しい友人である。
そうした縁から、彼は日頃、ソフィシエとも親交を持っている。
だが、あくまでも彼女の相棒はクレバーであって、ジェシスではない。また、ジェシスはジェシスで、ピアスという名の本当の相棒がいる。
よって、パートナー関係にないジェシスとソフィシエが、二人で任務を命じられること自体、例外的で変則的なことだと言えた。
「天華島、か……」
ジェシスが見つめるうちに、遠い陸地の輪郭は、次第にはっきりしてきていた。
天華は、サーヴェクトの遥か東の海に浮かぶ、小さな島国だ。どの大陸からも離れた、大海の中央部に位置している。
小国ではあるが、その歴史は非常に古い。建国二千年以上になる北大陸の魔法大国ルミナスにも匹敵するほどだという。
地理的に孤立して存在する島国だけに、その国土には天華独自の文化が根付いている。
しかし、外交面では孤立しているわけではない。むしろ積極的に交流を持ち、大陸との海上交易も盛んである。
開放的なお国柄で、多くの旅行客を受け入れ、そのため観光地としても人気が高い――などといった、ジェシスの持つ天華に関する知識は、全て間接的に仕入れたもの。
書物を読んだり、他人から話を聞いたりしたことはあるが、実際に天華島を訪れるのは今回が初めてだった。
(食いもんが美味いってことで有名だが、どんな料理があんだろうな……)
ジェシスは、まさしく観光客の気分で、そんなことを考えた。
通常、任務に出るときに生じる、重く息苦しいような緊張感は全くない。
ジーエンが一計を案じ、ジェシスとソフィシエの暫定コンビに割り当てた仕事は、それくらい楽な内容だった。
そもそも、ソフィシエを休ませることが第一の目的なのだから、楽で当たり前だ。
具体的には、以下のような内容の任務である――
ジェシスたちが目指す天華島には、現在、PSBの常駐諜報員が二人潜入している。
名前は、シュリとキアラ。組織内では珍しい、少女二人のコンビだ。
常駐諜報員とは、読んで字のごとく、外国に継続的に滞在して、動向の監視や諜報活動を行う要員のことだ。
PSBでは、情報部所属の諜報員たちを、半年単位の交代制で各国に滞在させている。
シュリとキアラは約三ヶ月前、前任のコンビと入れ替わる形で天華に派遣された。
常駐諜報員には、七日ごとに本部に定期報告を送る義務がある。潜入している国に特に変わった動向がなくても、その義務は怠ってはならない。
シュリたちからの定期報告も、初めのうちは順調に本部に届いていた。
ところが、二人を天華に送り込んで一ヶ月が経った頃から、定期報告が届く間隔が規定よりも長くなり始めた。
七日が十日になり、十日が半月になり……やがてとうとう報告が途絶え、およそ一月前からは全く音沙汰なしの状態が続いている。
常駐諜報員からの定期報告が、突然プッツリと来なくなった。そんなときは、その身の安否が大いに心配される。敵に素性を看破されて、捕縛あるいは殺害されている可能性も考えられるからだ。
しかし、シュリたちの場合は、段階的に報告が滞っていったことからしても、そういう非常事態は考えにくい。
それなら、他にどんな事態が想定できるかというと――真っ先に思い至るのは、単なるサボリだ。
シュリとキアラは、諜報員としての能力は一流だが、形式的な書類仕事などにはひどくルーズな一面があった。ジェシスも二人とは面識があるが、諜報員という人種は几帳面で神経質だという先入観を、一瞬にして粉砕してしまうような少女たちなのだ。
――間違いない! あいつらはサボっている!
彼女たちの上官である情報部長は、迷わずそう断じた。
だが、自ら叱りつけに行けるほど情報部長は暇ではなかった。他の情報部員たちも多忙で、仲間の職務怠慢を正しに遠隔地まで出向いている余裕はない。
こうしたわけで、たまたま情報部が困っていたところへ、ジーエンが目をつけた。
彼は、シュリたちに鉄拳を食らわせるための人員を実行部から貸そうと申し出たのだ。
それで、ジェシスとソフィシエは実行部員でありながら、違う部署の仕事を引き受けることになったわけだった。
任務の表向きの内容は『天華島へ赴き、連絡を絶った常駐諜報員二名の安否を確認し、可能ならば接触を図って活動実態を調査する』というものだ。
二人が現地のエージェントに捕えられたりしていれば大事だが、その可能性は限りなく低い。二人の滞在場所は聞いているので、そこに行けば苦もなく会えるはずである。
生命の危険にさらされることも、戦闘に巻き込まれることも、まずあり得ないだろう。
だからこそ観光気分で、気軽にこなすことができるのだ。
今回の任務は、任務という名目を借りた、事実上の有給休暇とも言うべきものだった。
仕事という大義名分を与え、ソフィシエを訓練から遠ざけるための……。
ジェシスは、船の手摺にもたれたまま、横目で後方に視線を走らせた。
少女は相変わらず、木のベンチにぐったりと身体を預けて、身動ぎもせずにいる。
(こいつでも、こんなになっちまうことって、やっぱあんだな……)
もう四年以上の付き合いになるが、これほど弱ったソフィシエを見るのは初めてだ。
PSBにおいて、『組織最凶の女』『血塗れの乙女』などと呼ばれている彼女は、滅多なことで他人に弱みを見せない。
ソフィシエは、強い。その戦闘能力はもちろんのこと、精神面でも人並み外れて。
ジェシスは、ずっとそう思ってきた。
だが――
やはり、そんな少女にも、外見同様に脆くて危うい部分はあったのだ。
(どうすれば、こいつを楽にしてやれる? 俺には、何ができる……?)
自問してみても、そう容易く答えは見つからない。
ジェシスの眼前には、多数の船の停泊した港が、その姿を現しつつあった。
もうすぐ、旅の目的地に到着する。
今はただ、異国の空気が少女の心を、少しでも癒してくれるよう祈るしかなかった。