昏き争乱の時代が終わりを告げた後、世界には光が満ちた。
 光とはすなわち、平和、発展、繁栄……誰もが求めてやまない幸福。
 国と国とが戦い、人と人とが殺し合う戦争は、過去の史実になろうとしていた。
 しかし――
 この世界において、光あるところには、必ず影あり。
 より多くの陽光を得るべく背丈を競う森の木々のごとく、国々は豊かさを追い求める。
 その過程で、互いの利害の対立は避けられない。
 穏やかな外交の裏で、昼夜を問わず展開されるのは、非合法的手段による対外干渉。
 諜報活動、兵器開発、破壊工作……我が身を国の剣と為した者たちが繰り広げる、熾烈な潜在的戦闘によって、国同士の全面衝突は回避される。
 輝ける時代を支えるため、今なお、人知れず鮮血は流され続けている。
 国境を越えて暗躍するエージェントたちは、自らが赴く戦いのことを、こう呼ぶ。
 影の戦争、と――
 
プロローグ  墓碑銘は『役立たずの……』
 イタイ……ツライ……コワイ……クルシイ……ナサケナイ。
 モウ、イヤ……コンナ、ワタシ……。
 コンナ、ウンメイ――!!
(もう、死ぬしか、ないわ……。死んで、しまおう……)
 朦朧となった頭の片隅で、彼女はそう考えた。残された自分の意志を総動員して、最後の決意を固めたのだ。
 冷たい床に四肢をつけて這いつくばった姿勢から、身体を起こそうと試みる。
「痛っ……ぅ……!」
 途端、鋭い痛みが稲妻のように全身を貫いた。
 胸や肩、背中に走る無数の裂傷。そこから滲んだ血は、肌の上にこびりつき、斑模様を描いている。
 身体を拘束していた枷は、先刻外されたばかり。まだ両手首には、その跡がくっきりと残っていた。
「くっ……はぁ……」
 息を荒げながらも、どうにか上半身だけ起き上がる。それから彼女は、乱れた長い髪に手を差し入れ、右耳の後ろを探った。
 指先に、豆粒ほどの金属の硬質な感触が伝わる。耳朶の裏に貼り付けてあったそれを、そっと剥がして、手のひらの上に載せた。
 ごく小さな、楕円形の金属カプセル。開けると、中には赤い丸薬が二粒入っている。
 ――致死性の毒薬。
 組織から支給された特別製で、呑めば、眠るように命を断てるという永眠薬である。
 一粒で致死量としては十分で、二粒目は念のための予備だと説明されていた。
 水もなく、口の中もカラカラに渇いた状態だったので、彼女は、まず一粒だけを口許に運んだ。目を閉じて、喉の奥に放り込む。 
(早く私を……一刻も早く……この世界から消して……!)
 彼女の望み通り、毒は速やかに凶悪な力を発揮した。
 呑んで二呼吸もしないうちに、腹の底から、臓腑を捻じって引き千切られるような激痛が湧き上がってきたのだ。 
 胸の辺りも、外から握り潰されたかのように苦しく、息ができなくなる。
 堪らずに身を捩り、声もなく喘ぐと、ゴボリ、と口から溢れ出るものがあった。 
 生暖かい液体。瞼を開けられなくても、血液だとわかる。
(嘘……穏やかに死ねる、なんて、真っ赤な嘘、だったのね……。ああ、でも……)
 ――