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題字

―恋人未満たちの初夜―

Chapter0  欠けゆく月

 ぱさり、という乾いた音は、儚く暁の静寂に溶け消えた。
「兄様……?」
 すぐ目の前に立つ相手は、呼びかけに応じず、身じろぎもしなかった。
 ディオナールは返事を得る代わりに、兄の手を離れて街路に落ちた薄紙の束を拾い上げた。
 昨日付けの新聞。路上に捨て置かれていたものを、兄が見つけたのだ。
「……っ」
 紙面に目を落として間もなく、ディオナールは息を詰めた。
 思わず兄の顔を見上げる。
 夜明け前とはいえ、春から夏に向かうこの時期、もう辺りは新聞が読めるほどに明るい。相手の顔もよく見える。
 だが、その表情から内面の動きを読み取ることは叶わなかった。
 兄弟でありながら、自分とはかなり造りの異なる、硬質に整った面差し。昔からあまり感情を表に出す人ではなかったように 思うが、今はまさに血の通わない白い彫刻のようだ。
 ディオナールは、いったん兄から視線を外し、再び一面の記事に目を通し始めた。
 読み終えたとき、わかったのは、すでに死んだ祖父と父の有罪確定、母の服毒自殺、そして母国で「行方不明」になっている自分たちに対して捜索命令が出されたということ。
 この国の出来事ではないにもかかわらず、新聞は相変わらず大々的に報じていた。
「……エルヴィン兄様とジュリエラ姉様は、無事でしょうか」
 敢えて母の死には触れず、ディオナールは呟いた。
「どうだろうな……」
 押し黙っていた兄――シグ家の長男キグノス・シグは、ようやく言葉を返した。
「エスティマのほうが、ここより安全には違いないだろうが」
「兄様……!」
 キグノスがあっさり口にした台詞に苛立ちを覚えて、ディオナールは語気を強めた。
「自らそういう認識をなさっているなら、なぜ兄様は『ここ』にいるのですか?」
 母メリアーヌに説き伏せられて、ルミナスの王都ティアンを密かに脱出するまでは、次兄や姉も共に行動していた。当初は、母方の親戚たちがいる南の隣国エスティマに、兄弟四人で向かう予定だったのだ。
 ところが突然、長兄キグノスが亡命先に異を唱えた。
 次兄エルヴィンや姉ジュリエラは、キグノスの望む目的地を聞いて、その正気を疑った。
 結局、シグ家の兄弟は途中で二手に別れ、それぞれの方向へと向かうことになったのだった。
「おまえこそ、なぜエスティマに向かおうとしない? 戻るなら、今からでも遅くはないぞ」
 問いを問いで返される。これまでに幾度となく繰り返された遣り取り。
「何度も申し上げた通り、今、僕が『ここ』にいるのは、完全に僕自身の意志です。こんな僕だって、いい年をした大人ですし、戻ろうと思えばいつでも一人で戻れますよ。でも僕は、兄様を一人にしたくなかった。だから、『ここ』までついてきた……」
 このままでは埒が明かない。ディオナールは上がりそうになる声のトーンを押し殺しながら、改めて兄を問いただした。
「もう、はぐらかすのはやめてください。逃げるには分散したほうが都合がいい、『ここ』はルミナスと正常な国交がないから隠れやすい、そんな陳腐な理由は認めかねます」
 この長兄は決して愚鈍な思考の持ち主ではないはず。ゆえに、嘘は見え透いている。
「キグノス兄様。あなたはいったい何を……あなたの真意は、まさか……」
「ディオナール」
 言い募ろうとすると、キグノスの低い声に制された。
「おまえに、これを預けたい」
 言いながら、キグノスは右手の皮手袋を外して、中指から銀の指輪を抜き取った。 それを手のひらに載せて差し出され、ディオナールは慌てて首を横に振った。
「それは、兄様の持つべきものです」
 自分の不吉な推測を裏付けるかのような、不自然で唐突な行動。
 困惑せずにはいられない。
「……そこの写真をよく見ろ」
 弟の反応を意に介さず、キグノスはいきなり脈絡に欠ける指示を出した。
「写真?」
 ますます戸惑いながらも、ディオナールは手元の新聞の一面を改めて注視した。
「ここ数日の間、目にしてきた報道記事全てに言えることだが……おまえの顔写真は、一枚も出ていない」
 言われてみれば、確かにそうだ。どこから流出したものか、祖父や父、母、兄姉の写真は頻繁に報道に使用されているが、自分の写真は見かけない。
 自分は兄たちに比べて写真に写るような機会が少なかった上に、撮られること自体好きではないので、そもそも写真など、ほとんど存在していないのだ。紙面に顔写真が登場しないのも当然と言えば当然だった。
「私が何を言いたいのか、わかるな?」
 キグノスの言葉に、ディオナールは黙って頷いた。不本意ながらも指輪を受け取る。
 少なくとも「指輪を預ける」という行為に関しては、兄の意図した合理性の正当さを認めざるを得ない。ただし、合理性の裏に潜んでいるかもしれない心情は受け入れがたかった。
 ディオナールは、胸の内に鋭い不安がよぎるのを感じつつも、気を取り直して言った。
「……この周辺の住民の方々が起き出す前に、とりあえず移動したほうがいいですね。やはり王都のような賑やかな場所まで行ったほうが、人込みに紛れやすいと思います」
 キグノスの前に立って歩き出した瞬間、地面に朝の陽光が差し初めた。
 ふと振り向くと、兄の姿は逆光になって薄い影に沈んでいた。
 そのとき初めて、相手の硬い無表情が、ほんのわずか歪んで見えた。
 次兄や姉とは異なり、この長兄は事件以降も目立って取り乱した様子を見せたことがない。
 全ての感情が凍りつき、波立つことを封じられたかのように。
 自分にしても、ついさっき母の死を知ったばかりだというのに、涙すらまともに出てこないのはなぜだろう。
 今更ながら、ディオナールは自分の奇妙な冷静さに気づいた。
 泣いている場合ではない、というのも確かだが、まだ何も実感できていないだけ、というのが正しいのか。
(いや、違う。本当はむしろ……)
 逆だ。実感できすぎているからこそ、泣けない。
 この事態は、今の状況は、起こるべくして起こった。
 自分たちには、家族を失ったからといって泣き叫ぶ資格などない。
 遠い過去から現在に至るまで、幾重もの罪業にまみれてきたシグ家の人間には。
 祖父や父は犯した罪に因って死んだ。母も罪に連なる者として死んだ。
 それは嘆く隙もないほど整然とした因果、慟哭を許さない必然の結末。
 そして自分たちもまた、呪われた罪の血を継いでいる……。
 極めて単純な「泣けない理由」に思い至って、ディオナールは静かに瞼を伏せた。
 零れ落ちるものは、なかった。




「ローゼン、ローゼン! いたら返事して!」
 木漏れ日のような淡い金髪に若葉色の瞳をした少女は、「逃げた恋人」を追って、木々の間で声を張り上げた。
 少女の名はメイリーズ・レスティ。ルミナスの新興貴族レスティ家の令嬢で、この春16歳になった。
 ここは、ルミナスの最高学府とも言えるヴェスル・アカデミーのキャンパスの一角だ。非常に広大なアカデミーの敷地内は緑が豊かで、結構な広さの森まである。
 メイリーズは、その森の木立の中を、一人の少年を探しながら歩いていた。
 少年の名はローゼン・テンペスト。メイリーズと同じくヴェスル・アカデミーに在籍する、同い年のクラスメイトである。そして、ほんの一月半ほど前に、互いの両親の取引によって、無理やり結婚させられそうになった相手でもある。
 聖婚室という密室に二人で監禁され、事実婚を結ぶか死ぬかという極限の選択を迫られ、死を選びかけたメイリーズを相手は強引に止めた。その後しばらくは、顔を合わせるのも気まずかったのだが、ローゼンの告白によって互いに好意を持ち始めていることが判明し、結局は自分たちの意志で共に生きることを約束する仲になった。
 このような特殊な経緯で、最初に行くところまで行ってしまった関係ではあるが、本来お堅い性格のローゼンは、いざ恋人同士になると軽い触れ合いさえ躊躇する始末。学生でいる間は「清く正しいお付き合い」をするという方針に同意したものの、少々物足りなくて、淋しいような気もしているメイリーズである。
 ――それはさておき。
「ローゼン……! いるんでしょ? どこなの?」
 メイリーズは呼びかけを続けながら、足早に奥へと歩を進めていった。
(たぶん、今日もこの辺りにいるはず……)
 数名の友人たちから、こちらの方面に向かうローゼンの目撃証言を得ている。
 ローゼンとは同じクラスとはいえ、選択授業の違いなどから、常に目の届く範囲にいられるわけではない。放課後、ちょっと話がしたいと思ったのに近くに姿がない、というような状況はしょっちゅうだ。今のところ学友たちに秘密の交際ではあるし、相手の行動を束縛するつもりもないので別に構わないのだが……今現在の彼に限っては放っておこうと思えない。
 ここ数日の彼は、明らかに危うい精神状態にあるのだ。
「落ち込む」とか「塞ぎ込む」とかいう生易しいレベルではない。大げさではなく、壊れてしまう一歩手前という感じさえする。
 それも無理はない。
 ローゼンは、彼にとって最も身近な存在である人々を立て続けに失ったのだから。
 短期間に起きた一連の出来事を思い返すたび、メイリーズは痛ましさを覚えずにいられない。
 魔術大国であるルミナスでは、高い魔力を有する貴族たちが政治の中枢で実権を握るという国家体制が長く続いている。
 先月、そんなルミナスの貴族社会に、唐突に未曾有の激震が走った。
 始まりは、ちょうど満月の日。魔導庁魔術監査局に送りつけられた、一通の告発文。
 その告発文は、『ルミナス貴族として、何より魔術士として、決してやってはならない禁忌に手を染めている者がいる』と名指しで告げるものだった。
 告発の内容は、あろうことか真実であると判明し、名指しされていた人物はただちに逮捕された。
 そう、よりによって最初に告発されたその人物こそ、他ならぬローゼンの両親、テンペスト家当主夫妻だったのだ。
 この逮捕劇は、ルミナスの貴族社会全体に対する魔力値不正調整疑惑を呼び起こした。
 魔術監査局局長と国王その人の意向により、即座に一斉魔力値検査が実施され、続く電光石火の大規模捜査によって、少なくない貴族たちの不正が次々と明るみに出た。
 そうして連鎖的に起きた一連の事件に巻き込まれ、メイリーズやローゼンの在籍するクラスの担任教師は、アカデミーから姿を消した。
 ローゼンは今回の出来事によって、実の両親と担任の先生を失ったことになる。
 客観的に判断しても、彼の受けた精神的ダメージは測り知れない。
 両親が逮捕されたときは比較的落ち着いていたのだが、先生が渦中の人となるに至って、さすがのローゼンも平静を取り繕えなくなったようだ。
 メイリーズも大好きだったその先生が教壇に立たなくなった日から、彼は極端に口数が少なくなり、授業が終わると、逃げるように人気のない場所に籠もるようになった。
(……独りで苦しまないで、少しはわたしによりかかってくれてもいいのに)
 恋人になって日も浅い自分では、十分な支えや慰めにはなれないかもしれないけれど。
 それでも、心配する気持ちさえ届かないのは悲しい。
 メイリーズが不意に情けないような泣き出したいような気分に駆られたとき、前方の太い木の根元に、うずくまる少年の姿が見えた。
「ローゼン……」
 メイリーズが近づいて声をかけると、相手はゆっくりと顔を上げた。
「メイ……?」
 ひどく虚ろな瞳。以前メイリーズが惹かれた、鋭いまでに強い意志の光は、そこにはない。
 メイリーズは腰に手を当てた。自分自身の暗い感情を抑え込むために、わざと憤然とした態度を装って相手を詰る。
「ずっと呼んでたのに、聞こえなかったの?」
「……ああ……悪い。ちょっと……考えごとをしてた」
 ローゼンは軽く頭を振り、素直に謝罪した。
「また、ディオン先生のこと、考えてたの?」
 メイリーズの問いかけに返答はなかった。だが、敢えて聞かなくても最初からわかっていることだ。
「ねえ、ローゼン。先生まで急にいなくなって、今のあなたが辛いのは当然だし、無理して元気に振る舞えなんて言うつもりは全然ないわ。でも、これだけは言わせて。どうして独りでいようとするの?」
 メイリーズは、ローゼンの前に膝をついて、その目を覗き込んだ。
「ディオン先生のことが辛いのは、わたしも同じだわ。どうして同じ気持ちを分け合わせてくれないの?」
 ――どうして、そばにいさせてくれないの?
 やるせない思いを込めて、メイリーズはローゼンを問い詰めた。
 しかし、ローゼンはやはり答えず、無言で視線を逸らした。
「ローゼン!!」
 メイリーズは思わず悲鳴のような声を出した。
 相手が顔を背ける直前、瞳の奥が一層暗く虚無的な色に染まったように見えたのだ。
「ご両親の逮捕も、先生の失踪も、あなたのせいで起きたことじゃないでしょう? 悲しいのはわかるけど、そんな……そんな死にそうな目をするのはやめて!」
 今のローゼンは、単に沈んでいるだけではなく、微妙に張り詰めた空気を漂わせている。
 メイリーズは、そんな危うい雰囲気を敏感に察知していた。
「置いていかれそうで怖くなるのよ。わたしたち、本当の家族になるって、約束したばかりじゃない。破ったら、承知しないから!!」
 不安を煽られるままに、メイリーズはローゼンに飛びついた。縋りつくように首に腕を回して、肩口に頬を寄せる。
(わたし、やっと本当にわかった気がするわ。あのときの、あなたの気持ちが……)
 以前、聖婚室に閉じ込められたとき、自分は直面した現実に絶望して、ローゼンの目の前で死のうとしたのだ。そんな自分に対して、ローゼンは怒りを隠さなかった。
 きっと今の自分の心境は、あのときの彼に似ている。
 あのとき、理不尽な現実に屈せず、前向きに生に執着する姿勢を見せていたローゼンが、なぜ今、これほどの危うさを漂わせているのか。
 胸の内で次第に形になりつつある疑問を感じながらも、メイリーズは相手に回した腕に力を込めた。



(メイリーズ……)
 柔らかな少女の重みを、確かに心地良いものとして受け止めつつも、ローゼンは相手を抱き締め返すことができなかった。
 彼女は何も知らない。だから余計に不安にさせているのだろう。
 でも、とても言えない。告げられるわけがない。
 両親の逮捕も先生の失踪も全て、この自分のせいで起きたことだとは。
 いや、「起きた」という言い方は、あまり正しくない。「起こした」のだ。
 ローゼンこそが、最初の告発を行った張本人であり、一連の事件を起こしたも同然の存在だった。
 両親の告発自体は、自分なりに心の整理をつけて覚悟の上でやったことだ。 自分の望む未来を勝ち取るため、この国を変える第一歩にするため、形骸でしかない家族関係に見切りをつけた。
 しかし、自分の起こした行動は、思いも寄らない速度で波紋を広げ、わずか数日でルミナスの貴族社会を根底から揺るがしかねない事態へと発展した。停滞と同義の静穏は破られ、殻の中でまどろみかけていた古き魔術大国は、しばしの混乱と騒擾に揺り動かされることになった。
 結果的に、今回の小さな「作戦」は、当初の予想を遥かに超える絶大な効果をもたらした。
 それは目指す世界への前進を意味する。
 ローゼン自身にとっても、ローゼンと似通った思いを有する「同志」たちにとっても、本来喜ぶべきことである。
 だが――
 予想以上に高く大きく広がった波紋は、予想外の人物をも巻き込んで呑み込んだ。
(先生……)
 ほんの十日ほど前まで毎日のように目にしていた顔は、容易く脳裏に浮かべられる。
 黒髪に縁取られた白い細面、魔術士の始祖たる月守りの民(レイリスセレス)の血を濃く感じさせる美貌。
 シグ家と言えば、ルミナスの支国宝具の一。「護国剣」フェルマ家や「導国旗」ランスリット家などと並ぶ大貴族だ。しかもシグ家は「律国杖」の称号の通り、代々長きにわたって国の法務に深く関わってきた。そのシグ家の一族が、自らの魔力値を不正な手段で偽るという大罪を犯しているなどと、いったい誰が予測し得ただろうか。
 シグ家の一族のうち、現当主と、その息子である次期当主の有罪はすでに確定している。二人とも一斉魔力値検査に応じず、国命違反で逮捕される前に自殺したが、速やかに遺体の調査が行われ、魔力値の不正調整の痕跡が認められたのだ。
 次期当主の妻は、義父と夫の罪が証明された直後に服毒自殺し、その遺体は同じく調査の対象となった。しかし、調査の結果、次期当主の妻自身は自らの魔力値を偽っていなかったことが判明している。
 残るは、次期当主夫妻の子供である三人の息子と一人の娘だ。彼らは、魔力値不正調整疑惑が浮上してから当局が動き始めるまでの短い隙を突くようにして、行方をくらましていた。四人とも国外に逃亡したと推定され、母親の出身国エスティマ方面を中心に捜索が進められている。
 ここ数日、教室で代理の教師の授業を受けていても、ローゼンの頭の中を巡るのは、姿を消した先生の安否のことばかりだった。
(ディオン先生……今は、どこに……)
 思考の一部が呟きとなって漏れてしまったのか、メイリーズが耳元に囁きかけてきた。
「大丈夫よ。先生は、いつかきっと無事に帰ってきてくれる。先生は、絶対に無実なんだから。事件に収拾がついたら、また会えるわ」
 保護者とはぐれた小さな子供に言い聞かせるような声音だな、と思う。
 だが、別に不快ではなかった。
 メイリーズは先生がいなくなってから、数え切れないほど似たような台詞を繰り返している。
 彼女は、夢見がちな現実主義者。自分の言葉が儚い気休めであると知った上で、それでも願いを込めて口にしているのだ。
 ローゼンは楽観的な気休めは吐けなかったが、自分の敬愛する担任教師が無実であるという点に関しては、疑いを抱くことはなかった。
 シグ家の実態がどうあれ、先生個人が進んで禁忌に触れていたとは到底考えられない。
 先生は、魔術士として稀代の資質と傑出した才能を持ちながら、むしろそのことを厭わしく思っているような節があった。
 それに何より彼は、保守的な大貴族の家に名を連ねながらも、ローゼンの持つ望みや理想を肯定してくれる人物だった。
 ローゼンにとってディオンとは、先生である以前に貴重な「同志」の一人であり、時には胸の内の本音や弱音すら吐露できた相手だったのだ。
 彼がまだ27歳の若年ということもあり、クラス内には不遜な態度を取る生徒も多かったが、少なくともメイリーズは、ローゼン同様ディオンを敬愛していた。
 ゆえに、尚更、彼女に真実を告げることはできない。
 先生を破滅の淵に追いやったのは自分だ、とは。

 ――先生のことが辛いのは、わたしも同じだわ。

(違うんだ、メイリーズ。おまえが感じている純粋な辛さと、俺の……は)
 気遣わしげな眼差しを向けてくるメイリーズのそばにいるのが苦しいから、逃げて、離れて、隠れていたのに。
 相手は、わざわざ追って、探して、寄り添ってくる。
 その温もりが、たまらなく、痛い。
 絶望的なほどに。

 ――新たな家族との幸福を望むなら、後悔している暇などないぞ。

 近い将来自分の正式な上司になる予定で、今回の「作戦」を共に実行した「同志」でもある青年は、厳しい声でこう言った。

 ――今回の件で起きたことは、良い面も悪い面も全て、自分たちの意志がもたらした結果として受け止めるしかない。予想外の出来事も含めて、だ。

 ローゼンが激しいショックを受けていることを承知の上で、敢えてそこを突いてきた。

 ――おまえの先生がもし命を落とすようなことになれば、それはおまえのせいに違いない。彼が無実だとしたら、俺たちは罪なき人間を殺めたも同然だ。責任逃れはできんなぁ。

 せいぜい苦しみたまえよ、と冷徹に言い放って。

 ――ただし、ローゼン。おまえはすでにレスティ嬢と共に生きることを選んだ身だ。どれだけ良心の呵責に苛まれようと、彼女に対する責任逃れも許されんぞ。先生を殺した責任取って死にます、と言うなら、せめて一生分の遺産を稼いでからにしろよ。

 容赦なく、ぐさりと止めを刺してきた。
 だが、この上司(予定)の言うことは、いつもながら正しい。
 この先、事態がどう動こうとも、メイリーズは……自分の伴侶だけは守らなければ。
 守りたいのだ。
 自分の望み、自分の理想は、家族と当たり前に過ごせる世界。
 魔術士の資質を保つためではなく、ただ一緒に幸せになるために、子を成して育てる。

 ――たぶん、きみなら実現できると思うよ、その素敵な理想。このクラスで一番行動力あるのは、きみだもの。僕もそういう世界に住みたいなぁ。

 かつて聞いた言葉が、ふと耳の奥によみがえった。

 ――でも、無茶だけはしちゃ駄目だよ。きみの場合、それが何だか心配なんだよね。

 あのとき自分は、何と言い返したのだったか。
(先生……俺は、俺の無茶に先生を巻き込んでしまったんでしょうか?)
 この国を先生が住みたいと言ってくれたような世界に変えていくために、先生を犠牲にすることになるなんて……。
 メイリーズの体温と、ディオンとの記憶――身体の外側と内側、両方から突き刺さる痛みをローゼンは必死に堪えていた。




 サーヴェクトの王都の一角を占める、国内随一の花街、ローズメイル・ストリート。この街に暮らす多くの女たちにとって、朝は束の間の穏やかな休息の時間だ。
 一夜の恋人という役柄の残滓を、眩しい日の光で洗い流し、本来の自我を取り戻す。
 いつものように客を送り出した後、ユラは自室に戻った。
 窓辺のスツールに腰かけて、小さな丸テーブルの上で新聞を広げる。
 首を傾けて視線を落とすと、豊かに背を覆う髪が肩を滑り、わずかに揺らめいた。
 その色は、真紅。血と炎の色。
 紙面は、このところ世間で物議を醸している事件の最新の動向を報じていた。この事件は、シグ家が当事者となったことで、ルミナス国内のみならず周辺諸国にも衝撃を与え、詳細な報道が飛び交うまでになっている。
 シグ家は、歴史上の様々な局面で名を残してきた非常に古い家であり、その行く末に関心が集まるのも自然だ。 とりわけ、この国――サーヴェクトにおいては。
 隣国で突発的に発生し、短期間で急展開を見せている一連の出来事は、この高級娼館を訪れるような客たちにとっても注目に値するらしい。
 毎晩のように寝物語ピロートークの話題の端にも上り、こちらが黙っていても、彼らは次々と新しい情報をもたらしてくれる。
 もっとも、新聞の記事にしろ、客たちの話にしろ、ユラにとっては既知の事実をなぞるものでしかない。
 事態の推移に関して、ユラは最も詳細で最も信用できる最新情報を、常に入手していた。
 敢えて新聞に目を通すのは、現実を改めて確認する儀式のようなもの。
 昨日もまた、シグ家の人間が死んだ。
 シグ家当主の孫にあたる四人の兄弟が、揃ってルミナスから消えて十日余り。
 ジュリエラ・シグはエスティマ南岸の海上で遺体となって発見された。
 二日前、エスティマ国内で拘束されたエルヴィン・シグが護送中に命を絶ったのに続いて、兄弟では二人目の死者だ。
 ジュリエラは、一緒に逃げていた兄エルヴィンが捕まったことで追い詰められ、立て続けの家族の死に絶望して投身自殺を図ったと見られている。
 彼らの母親メリアーヌはエスティマ貴族の生まれで、エスティマには母方の親戚が何人もいたということだが、期待したような保護は得られなかったらしい。
 ルミナス屈指の大貴族、シグ家は、今や名実共に滅びようとしていた。
 当主ラズローが死に、次期当主シェザーマが死に、その妻メリアーヌが死に、その次男エルヴィンと長女ジュリエラが死んだ。
 家名や、それに基づく地位、権勢だけではなく、「律国杖」の血統そのものが失われようとしているのだ。
 いまだ消息不明の長男キグノスと三男ディオナールが死んでしまえば、少なくともシグ家の直系の正統な家系は途絶える。
『ルミナスの建国2000年の歴史にその名を刻んできた大家が、たった半月で破滅し、断絶寸前の状況に陥るとは、何と呆気ないことだろうか。これぞまさしく諸行無常の……』
 紙面の片隅には、名も知らぬ学者のコメントが、ひっそりと載せられていた。
 そう、本当に呆気ない。
 ユラは、手にした新聞の端を強く握り締めた。胸の底でわだかまる正体不明の感情が、重い吐息となって漏れ出す。
 これは焦り? 歓喜? 苛立ち? 安堵? それとも……。
 同時に生じた異なる情緒が入り交じり、絡み合い、自分でも理解できないほど複雑な思いが心を覆い尽くしていく。意識の中心が混沌を孕み、どろどろと形を変える。
 自分の関知しないところで、あまりにも呆気なく、自ら死に絶えていくシグ家の人間たち。
 結果が望んだものだとしても、過程は望んだものではない。
 それは例えるなら、筋書きの歪められた劇。
 重要な役を割り当てられていながら、舞台で出番を演じきる前に、物語は幕切れを迎えようとしている。
 物語の結末は変わらず、劇が成功したとしても、役者としては納得できない。
 ユラは、窓の外に目を向けた。
 明るい朝日が降り注いでいる世界。しかし、夜明け前は濃い闇に包まれていた。
 今は月の欠けゆく時期。もうすぐ新月の夜が来る。
(母様……)
 舞台は暗すぎて、最も観て欲しい観客に観て欲しい場面を見せられないかもしれない。
(どうしよう……わたしはこれから……)
 十年という時間をかけて、なお終幕に辿り着けずにいた自分が悪いのか。
 全てを終わらせるのは、潜められた罪を余さずあらわにしてからにしようと、先延ばしにしてきたから。
 きっと天の観客たちは、冗長な劇に痺れを切らして、運命の女神に訴えたのだろう。
 もう役者は誰でもいい。とにかく早く結末が見たい、と。
 役不足を宣告されたのかと思うと、ユラは慙愧の念に駆られた。
 まだ幕は完全には下りていない。
 とはいえ……自分を置き去りにしてここまで進んでしまった事態に、今更関与する余地があるのだろうか。
 前の満月以来続く急転直下の経過に、心が追いつけない。
 確かに喜ばしいことなのに、手放しで喜べないという矛盾。
 事件が進展を見せるごとに、混乱は増し、焦燥が募る。
 ふと、ひどく息苦しいような感覚に襲われて、ユラは胸元を押さえ、うつむいた。
 真紅に染め上げた髪が、はらりと零れて、額と頬を囲う。
 それは、炎のごとき意志を絶やさないための誓い。決して約束を忘れないための戒め。
 視界を塞ぐ鮮やかな色を目にしたとき――発作めいた動揺は、やにわに鎮まった。
 形の定まらなかった心の芯の部分が急激に冷え固まり、そこに新たな火が灯る。
(そうよ、わたしは……)
 何をぐずぐずと懊悩しているのか。
 まだ幕が下りていないのなら、これから挽回すればいい。
 月下の誓約を違えるなど許されない。
 手をこまねいて無為に足踏みをしているよりも、今すぐ行動すべきだ。
 脚本を書き直そう。
 現在の状況から展開し得る最高の物語を演じるのだ。
 けれども、そんな計画を実行するのは、独りでは難しいだろう。
 優れた助演者が必要になる。
 ――『彼』に依頼しよう。
 ユラは、長年の「契約者」である男の姿を思い浮かべ、即座に決断した。
 彼の力を借りれば、どこかに隠れているであろうシグ家の生き残り二人を探し出し、舞台に引きずり出すことができるかもしれないから。
 凶暴な希望を見出した喜びに浸って、ユラはうっすらと笑った。




「おい、ダナム!! おまえ最近、やけに浮かない顔をしているなぁ」
 自分のデスクで書類仕事をこなしていた青年は、不意に後ろから大声を浴びせられ、はっと振り向いた。
「ホーマー局長」
 さすがに驚いて、相手の名を呼ぶ声が上擦ってしまう。
 ここはルミナス外交庁、国際情報収集局。
 青年の名はダナム・イーラム。国際情報収集局に所属する特務外交官の一人である。
「いきなり背後に立って大声を出すのはやめてください。仕事に集中しているときは、無駄に驚かされてしまうので」
 ダナムは、すぐに普段の落ち着いた声音を取り戻して相手に抗議した。
 至近距離からこちらを見下ろしているのは、直属の上司であるミハイル・ホーマーだ。
「集中だぁ? ぼんやりの間違いだろう」
 ミハイルは思い切り顔をしかめて言い返してきた。
 少々くたびれた外見に反して、表情の出方は子供のようで、口調は無闇に溌剌とした中年親父である。無論、外交庁の重要ポストを務める人間であるからには、複数の人格的側面を有しているのだが。
「ぼんやりなんてしてませんよ。それより、何か御用ですか? 勤務時間中に世間話ができるほど、うちは暇ではないはずですからね。御用がおありなら、局長がこちらに来られるのではなく、普通に部下である私をご自分のデスクに呼びつけてください」
 ミハイルの覇気に対抗して、ダナムの口調も早口になる。
「いつも通り、普通に呼びつけたが、おまえはすっぱり無視したぞ。無視されて悲しかったから、構ってもらおうと思って寄ってきたんじゃないか」
 ミハイルは一転して拗ねたような顔つきになり、いかにも淋しげな口振りで宣った。
 拗ねた素振りの中年など、通常なら気持ち悪いだけだが、この相手の場合、不思議と違和感がないのが恐ろしいところである。
「無視なんてするわけが……」
 咄嗟に正攻法の反論をしかけて、ダナムは途中で言葉を呑み込んだ。
 口を噤んだ部下を見て、ミハイルは我が意を得たりというように、ニタリと笑った。
「そうだろうとも。上司を敬う優秀な部下が、無視なんてするわけないなぁ。ただ、『仕事に集中してたから』呼びかけに気づかなかっただけだ。上司の声も聞こえないとは、おまえの集中力は素晴らしい! まったく、見上げたものだ」
 ここぞとばかりに嫌味を突き刺される。
 うっかり揚げ足を取られたダナムは、溜め息をついて観念した。
「……申し訳ありません、ぼんやりしてました」
 認めて、頭を下げる。
 書類に向かいながらも、意識の大半は別のことに向けられていて、仕事の進みが遅くなっていたのは事実だ。しかし、上司の呼び声が届かないほど思考に沈んでいたとは……自分でもどうかしていると思う。
「おまえらしくもないなぁ、ダナムよ」
「職務怠慢です。処分は何なりと」
「おいおい、私はそこまで狭量な上司だったか? もう長い付き合いだろうに。冗談抜きで明言させてもらうが、ここ最近、おまえは変だぞ」
 ミハイルは呆れたような調子で嘆いた。直後、がらりと口調が変わる。
「ローゼン・テンペストのことが、そんなに気に掛かるのか?」
 不意打ちで核心に切り込まれる。
 ダナムとしては、内心を封殺して、無表情を保つのが精一杯だ。
 だが、どうせこの相手にごまかしは効かない。素直に屈服しないのは、仮にも特務外交官である自分の意地に過ぎない。
「ダナム、ローゼンに関係する件で重要な話がある。ちょっと来てくれ」
 軽めの言い方ではあるが、ミハイルの声音は、先刻までなかった硬さを帯びていた。 ダナムはただちに深刻な空気を嗅ぎ取り、意識を切り替えて上司に従った。
(ローゼンに関係する件、か……)
 その件がいったい何を指すのか、見当をつけるのは、あまりにも容易い。
 ローゼン本人が根本的な当事者であり、ローゼンにとって大切な人物が対面する当事者となってしまった事件。
(まさか……また、シグ家の人間が……?)
 自分が最も恐れていた事態が、ついに訪れたのではないか。
 嫌な予感に、ダナムは抑えようもなく心が慄き震えるのを感じていた。