題字

―恋人未満たちの初夜・第二夜―

Chapter1 欠けゆく月

 ぱさり、という乾いた音は、儚く暁の静寂に溶け消えた。
「兄様……?」
 すぐ目の前に立つ兄は、呼びかけに応じず、身じろぎもしなかった。
 ディオナールは返事を得る代わりに、兄の手を離れて街路に落ちた薄紙の束を拾い上げた。
 昨日付けの新聞。路上に捨て置かれていたものを、兄が見つけたのだ。
「……っ」
 紙面に目を落として間もなく、ディオナールは息を詰めた。
 思わず兄の顔を見上げる。
 夜明け前とはいえ、春から夏に向かうこの時期、もう辺りは新聞が読めるほどに明るい。
 相手の顔もよく見える。だが、硬い無表情から心情を読み取ることは叶わなかった。
 ディオナールは、いったん兄から視線を外し、再び一面の記事に目を通し始めた。
 読み終えたとき、わかったのは、すでに死んだ祖父と父の有罪確定、母の服毒自殺、そして「行方不明」になっている自分たちに対して捜索命令が出されたということ。
 この国の出来事ではないにもかかわらず、新聞は写真付きで大々的に報じていた。
「……エルヴィン兄様とジュリエラ姉様は、無事でしょうか」
 敢えて母の死には触れず、ディオナールは呟いた。
「どうだろうな……」
 押し黙っていた兄――シグ家の長男キグノス・シグは、ようやく言葉を返した。
「エスティマのほうが、ここより安全には違いないだろうが」
「兄様……!」
 キグノスがあっさり口にした台詞に苛立ちを覚えて、ディオナールは語気を強めた。
「自らそういう認識をなさっているなら、なぜ兄様は『ここ』にいるのです?」
 母メリアーヌに説き伏せられて、王都ティアンを密かに脱出するまでは、次兄エルヴィンや姉ジュリエラも共に行動していた。当初は、母方の親戚などがいる南の隣国エスティマに、兄弟四人で向かう予定だったのだ。
 ところが突然、長兄キグノスが亡命先に異を唱えた。
 次兄や姉は、キグノスの望む目的地を聞いて、その正気を疑った。結局、シグ家の兄弟は途中で二手に別れて、それぞれの方向へと向かうことになったのだった。
「おまえこそ、なぜエスティマに向かわず私についてきた?」
 問いを問いで返される。これまで幾度となく繰り返された遣り取り。
「何度も申し上げた通り、今、僕が『ここ』にいるのは、完全に僕の意志です。こんな僕だって、いい年をした大人ですから、一人で行動しようと思えばできます。でも僕は、あなたから目を離したくないと思った。だから、『ここ』までついてきた」
 このままでは埒が明かない。ディオナールは上がりそうになる声のトーンを押し殺しながら、改めて兄を問いただした。
「もう、はぐらかすのはやめてください。逃げるには分散したほうが都合がいい、『ここ』はルミナスと正常な国交がないから隠れやすい、そんな陳腐な理由は認めかねます」
 この長兄は決して愚鈍ではないはず。ゆえに嘘は見え透いている。
「キグノス兄様。あなたはいったい何を……あなたの真意は、まさか……」
「ディオナール」
 言い募ろうとすると、キグノスの低い声に制された。
「おまえに、これを預けたい」
 言いながら、キグノスは右手の皮手袋を外して、中指から銀の指輪を抜き取った。
 それを手のひらに載せて差し出され、ディオナールは慌てて首を横に振った。
「それは、兄様の持つべきものです」
 自分の不吉な推測をちょうど裏付けるかのような、唐突な行動。戸惑わずにはいられない。
「……そこの写真をよく見ろ」
 弟の反応を意に介さず、キグノスはいきなり脈絡に欠ける指示を出した。
「写真?」
 ますます戸惑いながらも、ディオナールは手元の新聞の一面を改めて注視した。
「ここ数日の間、目にしてきた報道記事全てに言えることだが……おまえの顔写真は、一枚も出ていない」
 言われてみれば、確かにそうだった。どこから流出したものか、祖父や父、母、兄姉の写真は頻繁に報道に使用されているが、自分の写真は見かけない。
 自分は兄たちに比べて写真に写るような機会が少なかった上に、撮られること自体昔から好きではないので、そもそも写真などほとんど存在していない。紙面に顔写真が登場しないのも当然と言えば当然である。
「私が何を言いたいのか、わかるな?」
 キグノスの言葉に、ディオナールは黙って頷き、不本意ながらも指輪を受け取った。
 少なくとも「指輪を預ける」という行為に関しては、兄の意図した合理性を認めて受け入れたのだ。ただし、合理性の裏に潜んでいるかもしれない心情は受け入れがたかった。
 ディオナールは、胸の内に鋭い不安がよぎるのを感じつつも、気を取り直して言った。
「……この周辺の住民の方々が起き出す前に、とりあえず移動したほうがいいですね。やはり王都のような賑やかな場所まで行ったほうが、人込みに紛れられる」
 キグノスの前に立って歩き出した瞬間、地面に陽光が差し初めた。
 ふと振り向くと、兄の姿は逆光になって薄い影に沈んでいた。
 そのとき初めて、相手の硬い表情が、ほんのわずか歪んで見えた。
 自分も母の死を知ったばかりだというのに、まともに涙も出てこないのはなぜだろう。
 今更ながら、ディオナールは自分の奇妙な冷静さに気づいた。
 泣いている場合ではない、というのも確かだが、まだ何も実感できていないだけ、というのが正しいのかもしれなかった。
(いや、違う。本当はむしろ……)
 逆だ。実感できすぎているから、泣けない。
 この事態は、今の状況は、起こるべくして起こった。
 自分たちには、家族を失ったからといって泣き叫ぶ資格などない。
 遠い過去から現在に至るまで、幾重もの罪にまみれてきたシグ家の人間には。
 当たり前のことに思い至って、ディオナールは瞼を伏せた。
 隙間から零れるものは、なかった。